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【51日目】パンドラの筺

ご隠居からのメール:【パンドラの筺】

まさにパンドラの筺で、驚いたね。四代続けて子供が生まれなかったという話は聞いたことがない。まるで、八つ墓明神の祟りのようだ。

長谷部弥左衛門を戸主とする戸籍及びそれ以後の戸籍は現存している。長谷部興左衛門の名前は前戸主としての記載がある。あらためて戸籍を見直すと、次のようになっている。

與左衛門     ?
弥左衛門  元治元年八月二日生
      大正四年四月十四日死亡
左と(妻) 天保十四年七月三日生
      明治二十七年一月十五日高瀬の福田爲右衛門長女入籍
      昭和二年四月十四日死亡
喜代太郎  嘉永三年(1850)二月十七日生
      明治七年七月六日 本村福田爲右衛門二男入籍
      明治二十二年十二月二十八日相続
      明治二十四年四月二十三日死亡
伊曽(妻) 安政五年七月二日 鳥取県日野郡神福村田村勝平妹直蔵二女
      明治十二年七月十七日 鳥取県神福村田村勝平妹直蔵二女入籍
      明治二十四年十二月九日 福栄村神福田村清次郎叔母離婚送籍
友次郎(養弟 父弥左衛門長男)元治元年(1864)八月二日生
      明治二十四年六月十八日 相続
      昭和八年三月五日 隠居届出
      昭和十二年四月二十六日 死亡
いし(友次郎妻)明治五年六月二日生
        明治二十三年十一月二十七日 日野郡福栄村神福見田栄蔵二女入籍

喜代太郎さんは福田爲右衛門さんの息子として生まれ、弥左衛門さんの養子になった。弥左衛門さんには友次郎という息子がいるのに、なぜ喜代太郎さんを養子にしたのかが疑問。

友次郎がいつ養子になったのかという記載もない。さらに、信谷氏がいつ分家となったかもわからない。弥左衛門さんが左とさんを妻として入籍したのは明治二十七年とかなり遅いところからみて後妻ではないだろうか。

喜代太郎さんが家督相続をした期間は明治二十二年十二月から二十四年四月までと短い。その死によって居場所がなくなったのは妻の伊曽さんで、気の毒なことに夫の死後、実家の田村氏に送籍、つまり、出戻りとなった。

喜代太郎さんの次は友次郎さんが相続したが、父の弥左衛門さんは隠居したとはいえ、目を光らせていたのではないか。喜代太郎さんの実家、福田氏は妻の左とさんの実家だ。しかし、友次郎の妻いしが嫁いできたので、家庭内トラブルの種が発生する状況となったのではないか。見方によれば、嫁の実家である福田氏と見田氏の対立でもあるが、いしさんが大原氏をとりこんでつねさんを養女にしたのが成功した。

結果的には尼子の落人の子孫である松田氏と毛利方の井上氏との婚姻が成立して、やっと子沢山に恵まれ、兄弟姉妹の親戚の結束で與一さんを町長にまで押し上げた。

結果的には尼子氏と毛利氏のDNAが混合したのがよかったということにはなる。しかし、令和の現在、過疎化が進み、一族は離散している。


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