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■【より道‐18】随筆_『辰五郎と方谷』⑦‐⑨(長谷部さかな)


【短期連載⑦】

 財政改革に関連して、方谷が辰五郎と会談した用件としてもう一つ考えられるのは、産業振興について意見を求めることである。方谷は、特に鉄山と銅山の開発にチカラを入れて、藩の収益をあげることに成功したが、開発の最初の段階ではこの分野の大事業家である辰五郎の意見を聞いたのではないだろうか。この頃、方谷は、次のような詩をつくっている。

北山閲鉱去   北山 鉱を閲して去り
行尽幾雲林   行き尽くす 幾雲林
尚憶旧山谷   なお億う 旧山谷を
行憔行旦吟   行憔 行き且つ吟ず

 この詩は、もしかすると、辰五郎に案内されて、千屋などの鉱山を見学した時に詠んだものではないかという気がしてくる。また、「行き尽くす幾雲林」という表現からは、若山牧水が新見から四キロほど離れた苦坂峠で詠んだという「幾山河越え去り行かば」を連想させる。

 しかし、方谷と辰五郎の親交は長くは続かない。辰五郎は嘉永七年(1854年)二月に亡くなっているから、もし、嘉永二年(1849年)の方谷の元締就任のときから始まったとすると、せいぜい四、五年である。辰五郎が亡くなった後は、太田家に残されている方谷の書簡の写真が示すように、八次郎との親交になる。

 また、『山田方谷全集』の「山田方谷先生門下姓名禄」には、「長瀬塾 美備中阿賀郡(今上房郡)西方村長瀬ノ里、開塾ハ明治元年ヨリ三年秋マデトス、但塾生ノ多クハ後ノ刑部移籍二随行ス」として塾生の名前が列挙しているが、その中に、

千屋 太田歌蔵
千屋 太田保二郎(田邊禎夫)

 という名前がある。この二人も、あるいは、太田辰五郎の係累の人物かもしれない。

 ただし、晩年の方谷ともっとも親密な関係にあった鉄山業者は、上市の庄屋、矢吹久次郎である。久次郎は、方谷の家塾牛麓舎で学んだ門人の一人だが、鉄山業者としても助言できる立場にあった。矢吹家も相当な資産家だったらしく、久次郎の曾孫にあたる矢吹邦彦氏の著書『炎の陽明学 山田方谷伝』によれば、「田畑の所有が百五十町歩、杉と桧の森林は数千町部におよぶ。タタラ吹きの工場も酒造業も営み、新見藩をはじめ貸付金の総額は予想を超えて田舎小大名もはるかにおよばぬ財力をほこっていた」という。

 上市も千屋も当時は徳川幕府が直轄して治める天領だった。備北の山奥の天領に太田家や矢吹家のような大資産家がいたという事実は興味深いものがある。太田家、矢吹家などの有力鉱山業者の力関係の推移を含めて、この面から郷土史を調べなおすのも面白いと思う。

(つづく)


【短期連載⑧】

 次に、古い戸籍を調べて確認したわけではなく、あくまで私の想像にすぎないが、辰五郎と方谷の接点について、もうひとつの可能性を推理しておきたい。

 それは、二人がもしかすると縁戚関係にあったのではないかという可能性である。方谷の母、梶は、小坂部村(現在の大佐町)の西谷家の出だ。明治三年、方谷は小坂部村に移寓し、明治十年(1877年)に永眠するまでこの地で過ごした。その心境の一端は、

骨を斯の郷に埋めて外祖に従わば
黄泉あるいは慰まん阿嬢の魂

 という詩句からもうかがうことができる。外祖とは、母方の祖父母、阿嬢というのは、お母さんという意味。

 小坂部村の西谷家の親戚に菅生村(現在は新見市の一部)の西谷家があった。生母の梶が亡くなった後、文政元年(1818年)に継母となったのは、菅生村の西谷信一郎の娘、近である。また、天保十年(1839年)方谷の弟、平人と結婚した歌は、菅生村西谷岩之丞の娘だ。男の子に恵まれなかった方谷は、平人と歌との間に生まれた耕蔵を養子にした。

 一方、伝記によれば、辰五郎は、文政六年(1823年)二十二歳のとき、菅生村の庄屋、西谷幾右衛門の娘、音羽と結婚している。

 菅生村の西谷家は、鉄山師としては太田家ほどの資力も、権勢もなかったが、天正以来の名門で、初代の五平衛尉信直は、天正十年(1582年)五月、羽柴秀吉が、清水長左衛門宗治の高松城を水攻めに葬ったとき、上月城にあった菅生帯刀左衛門尉の支配下にあって、功があり、代々菅生西谷へ郷土として居住することになった家柄である。

西谷家からわずか二、三丁、馬を急がせていた辰五郎は、そこで一人の召使を連れた、ほっそりとした頬の美しい女性に出会った。娘は馬上の辰五郎に丁寧にお辞儀をしていた。

 縁談は、とんとん拍子に進んだ。二人は偶然ながら、当時には珍しい見合いをすませていたのである。七月は盆月ということで、六月中に式を挙げることになった。辰五郎二十二歳、音羽が十八歳のときである。

 近郷一円の人々の祝福を受けて、二人の祝言は盛大におこなわれた。菅生村西谷家の幾右衛門と信一郎と岩之丞の三人が縁戚関係にあるかどうかは、今のところ不明であるが、もし、音羽の実家の西谷家が、近の実家や歌の実家と同じ、あるいは、親戚であることが判明すれば、辰五郎と方谷は縁戚関係にあったということになる。

 その場合は、方谷が松山藩の元締めに就任する嘉永二年(1849年)のずっと以前から、面識があった可能性が高い。想像力をたくましくすれば、当時、十九歳の方谷は、もしかしたら、辰五郎と音羽の祝言に出席していたかもしれない。

(つづく)


【短期連載⑨】

 昭和三十年代から昭和四十四年まで新見高校で教鞭をとられた宮原信先生の著書『哲人山田方谷とその詩』には、次のような記述がある.

 帰郷して間もないころ方谷は備中国菅生村(いまの新見市)にある母方の親戚西谷家を訪問している。用件は何であったかわからないが、老中の顧問として、百方国事に奔走して帰ってきた直後であるだけに高梁川をさかのぼって山深くわけ入り、中国山脈のなかの一寒村である菅生を訪うたこの小旅行は、まさに塵外に遊ぶといった思いがあったようである。

 文久三年(1863年)方谷が五十九歳のときのことだ。藩主の板倉勝静は徳川幕府の老中に出世していた。その政治顧問として多忙だった方谷が何のためにわざわざ菅生村まで足をのばしたのかはわからないが、方谷にとって、菅生村の西谷家は小坂部村の西谷家と同様に特別な想いのある家だったことはまちがいない。

 方谷が菅生村を訪れたそのとき、辰五郎と音羽はすでに故人になっていた。

(了)


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