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【174日目】どえりゃぁ財産持ち

ご隠居からのメール:【どえりゃぁ財産持ち】

>>日野厳島神社の当主は31代だよ
ーー了解。高瀬長谷部家と違って、家系図がしっかり保存されているようだ。

そういえば、『日野郡史』には日野下榎長谷部氏と黒坂長谷部氏の家系図が載っていたように記憶している。『上下町史』には備後長氏の家系図が載っていたが、元信以後の名前は下榎長谷部氏とはまったく違っている。いちど折を見て、広尾の図書館へ一緒に史料を探しに行ってみるかね? 

桓武天皇から信連へ、そして三浦氏等を経て元信に至るまでの系図はほぼ同一だが、それは西谷氏やゆずりは氏(新見氏が杠城していた以前の城主)も同じだ。家系図というものがいかにあてにならないものだということがよくわかる。

家系図は今では重視されないが、昔は仕官や婚姻のための自己主張ツールだったようだ。

備後長谷部氏は山名氏や尼子氏を裏切って、神罰が下り、滅亡したと、伯耆長谷部氏は見ていたのではないかだろうか。1557年(弘治三年)に新見元致しんみもとちからとともに「からかさ連判状」に署名したのが元信の判断ミスだったのかも。


>>元信は1562年の毛利家雲州侵攻あたりで引退していると考えると、大倉
>>山で元信に声をかけた鬼が「おまえの先祖信連が各地に神社を建てるの
>>でここを去る」と言った伝説は、1550年~1560年あたりの話だろう。そ
>>のあたりで高瀬大原の土地から秋末氏と重久氏は去っていったと考える
ーー証拠はないが、おそらくそんなところだろうね。

>>「第一次月山富田城の戦」1566年(永禄九年)後に長谷部氏と松田氏が
>>高瀬大原の地に土着したのだろうか。
ーー松田氏が先だ。長谷部氏はもっと遅く、「上月城の戦」の後かもしれないとも思う。

長谷部絢光と熊之助との間に交流があったとすれば面白いが、その可能性はたぶんないだろう。

「長谷部氏はどえりゃぁ財産持ちだった」という信谷清巳さんの評価はオレにはなじまない。オレが子供の頃の長谷部家は貧乏だった。與一さんは村長として月額2万円弱の俸給を得ていたが、文子さんやツネさんには俸給は渡さなかった。

オレは誰からも小遣いもお年玉ももらえず、「家にはゼニがないから、大学にはとても行けない」とあきらめていた。ただ、大黒柱だけは立派なものだったな。財産があったとすればあの大黒柱だけだろう。

>>「あの広大な土地をどのように手に入れたのか」
ーーそれはわからない。江戸時代には土地の所有権が平民に与えられていないと思う。立木の伐採権はあったので、娘を嫁に出すときなどの臨時出費には立木を売っていたはずだ。

昭和三十年代半ばに家族トラブルが発生したのは、與一さんが県会議員の選挙で落選し、無職になった上に五百万円の借金をかかえこんだからだ。それまで立木の伐採権は、與一さんにあったのか、亀三さんにあったのかあいまいな状態だったのが、分家をたてることによって線引きができたはずだ。

ご先祖さまが「たたら製鉄」で儲けたという話は聞いたことがない。牛馬の飼育や炭焼きはしていたが、たいした収入ではないだろう。財産があったとすれば立木だが、それも輸入材のおかげで木材相場が下落し、儲からなくなった。

信谷氏の裏山がはげ山だったというのは面白いね。與一さんは、村長、町長時代、村人たちに植林をすすめたが、村人は相変わらず貧乏のままだ。信谷さんが村長の言う通りにせず、はげ山のままにしておいた理由は、たしかに古墳かもしれない。

例のヒノキの木が植えてある山の裏側は分家の勝巳家の山だという。分家の勝巳家はちゃんと枝打ちをしている。そのままだと、立木の価値がなくなるから、枝を払ってあげようというのが清巳さんの好意だと思うが、よくわからない。もしかしたら、長谷部家の山からも大国主命の時代の貴重な古墳が発見されて脚光を浴びる日がくるのを期待しているのかな? 


返信:【Re_どえりゃぁ財産持ち】

元信の系統が日野長谷部系とわかっただけでも大発見だね。武将系と神官系で系統がわかれたことも気になるが、仏教のように出家や還俗のような制度があって家督を譲ったりすると、神官となるのかもしれないね。下榎と黒坂が分家したのも戦国期の毛利氏に寝返ったことが関係しているかもしれない。

広尾図書館の件は了解です。平日休みの日を調整出来たら連絡するね。

「白鹿城の戦」1562年(永禄五年)または、「月山冨田城の戦」1566年(永禄九年)に敗れた松田氏は、敵方ではあったが元尼子家臣(正確には京極氏、塩冶氏)の親族長谷部元信を頼った。元信は、実家の隣村である高瀬大原(実際には信連から続く山林)の秋末名、重久名を追い出し、松田氏の帰農を許した。

長谷部一族は毛利氏に煮え湯を飲まされ続けていた。元信亡きあと尼子再興軍が発起し、長谷部一族は毛利派と尼子派の対立が生まれた。一部の長谷部氏は山名氏や日野氏と共に尼子再興軍に呼応する。「上月城の戦」1578年(天正六年)で敗れたご先祖様は、高瀬大原の地で帰農することを上下長谷部氏に許される。こんなストーリーができるね。

長谷部絢光あやみつ氏が批判しているのは、長谷部元信と関長門守せきながとのかみ。備中の代官である関氏が黒坂城に入城したというのも不思議だな。


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