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【173日目】リセット

ご隠居からのメール:【 リセット】

>>コロナパンデミックは、世界をリセットするおおきなキッカケになるか
>>もしれない

ーーひとり勝ちに見えた中国のマスク外交やワクチン外交が失敗したこと、それに二酸化炭素の排出は中国がNo1という現実をみると、やはりリセットかな。

落人の子孫が指摘するのは畏れ多いことかもしれないが、長谷部家の過去は、「子宝に恵まれない」「養子が多い」「内輪揉めが多い」という特徴があるように思う。

一族の中では日野厳島神社の系統は28代も続いているところをみると、比較的子宝に恵まれていたのだろう。しかし、現実には養子をとっていたかもしれない。金沢の長谷部神社だって、わざわざ子宝石をつくって人々を引き寄せたのは、もともと子宝に恵まれない家系だからだとも考えられる。


>>確かに、高瀬は武将系の寺や神社を尊崇してるから、神官系の血筋では
>>ない。ただ、「応仁の乱」がはじまるまでは、長谷部一族として、武将
>>系と神官系で支えあっていたのではないかね。

ーー伯耆では支え会っていたかもしれないが、高瀬にはまだ長谷部一族は入ってきていない。「応仁の乱」1467年(応仁元年)がはじまるまで吉野村のあの家あたりにいたのは秋末名の一族だ。1461年(寛政二年)と1469年(文明元年)の土一揆で江原八幡宮に集まった一味の中には秋末名がいる。

その秋末名の一族を追い払って、移住してきたのが長谷部氏の御先祖であり、隣家の重久名には八幡神社とともに松田氏が移住してきた。どんな大義名分があったかどうかは不明。

オレの推理によれば、移住に際して、長谷部氏の御先祖は隣家の松田氏にならって「尼子の落人」と称した。両氏の間には婚姻が成立した可能性もある。しかし、関ヶ原の戦の以後、徳川氏の世の中になって、地権の正当性を主張する必要に迫られた。

そこで一族とみられる、菅生谷の長牛之助にならって、1578年(天正六年)の播州「上月城の合戦」に秀吉方として参陣して、武功をあらわしたと主張したのだ。牛之助は秀吉から感状を貰ったというが、上月城は落城したので、秀吉にとっては実質的な益は何もない。

この時、翁山城の長氏や小堀三間城の新見氏は毛利方として攻撃軍に参加していたはずだ。牛之助と馬之助は、生き延びるために、あいつら(長氏や新見氏)は敵だったと徳川氏に向けて主張しなければならなかった。

長谷部絢光あやみつ、七十一歳、が「当日野郡人不住事とうひのぐんじんふじゅうごと」を書き残したのは、1763年(宝暦十三年)。熊之助が傘のある墓に葬られた時代に近い。


返信:【Re_リセット】

日野厳神社の当主は31代だよ。長谷部信連は1186年(文治二年)46歳で能登の大屋荘の地頭を任命されてから、72歳でなくなるまでの26年間で5人もの男児を産んでいる。女性をいれたらもっと多いかもしれない。信連は高齢にも関わらず子宝に恵まれたから「子宝石」が存在しているようだ。ただ、日野長谷部系の子孫は苦労したようだね。

元信は1562年(永禄五年)の毛利家雲州侵攻あたりで引退していると考えると、大倉山で元信に声をかけた鬼が「おまえの先祖信連が各地に神社を建てるのでここを去る」と言った伝説は、1550年~1560年あたりの話だろう。

そのあたりで高瀬大原の土地から秋末氏と重久氏は去っていったと考える。年号だけで考えると、「第一次・月山富田城の戦」1566年(永禄九年)の後に長谷部氏と松田氏が高瀬大原の地に土着したのかな。

また、気になるのは、長谷部絢光氏が元信五代の孫に「仏だけでなく神を崇拝しなさい」と説いている。この元信の五代孫というのは、熊之介に伝えていることではないだろうか。

なぜなら、同じ神官系統の長谷部氏に、こんなことを説かないだろうし、関ヶ原敗戦後、毛利氏と一緒に萩へ転封している長谷部氏にわざわざ伝えることもない。絢光氏のまわりに存在する武将系の長谷部氏は限られるはずだ。

あとは、信谷さんがいっていた「長谷部はどえりゃぁ財産持ちだった」という言葉がどうしても気になる。長谷部家の謎の出発点でもある「あの広大な土地をどのように手に入れたのか」ということにつながるね。

菅生村の西谷氏は庄屋で金持なのはわかるが、高瀬の長谷部氏は何でもない平民だ。あの土地で財産を得るには何かしらの出来事が必要だ。

牛之助のように秀吉から土地を知行したとしても資産家にはなれない。西谷家は、たしか酒屋をやってたんだよね。あの土地で資産を得ることを考えると、「千両箱を飛び石にして江戸まで行く」と言われたほどの大資産家、太田辰五郎氏と輿左衛門さんがつながっていたのかな。

「おおはら」が土地の名前だということは理解した。国勢調査町丁・字等別境界データにも「高瀬大原」と出てくる。隣は、両隣は「高瀬木谷」と「高瀬仲村」だ。地名と名は関連している気がするが、大原氏とのつながりは証拠が何もないので、この予測は一度おさめるとする。

ただ、ここで、もう一つ面白い情報を発見した。

高瀬の地に行ったとき、信谷氏の裏山がはげ山だったので気になっていた。山根さんは「人工的につくられている可能性がある」と言っていたが、調べようもないので、いつものように歴史ロマンで終わらせていた。

しかし、高瀬大原を調べていくと、なんと亀三おじさんの裏山が古墳だという情報を入手した。他にも高瀬の地には古墳がありそうだ。信谷さんの裏山も古墳の可能性が大いにある。


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