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【153日目】年代記

ご隠居からのメール:【年代記】

・1555年:厳島の戦い(長谷部元信)
・1557年:からかさ連判状に署名(長谷部元信)
・1562年:毛利軍が雲州侵攻(長谷部元信)
・1566年:月山富田城の戦い(尼子氏滅亡)
・1569年:尼子再興軍が雲州に侵攻
・1577年:秀吉中国地方への侵攻開始
・1578年:上月城の戦(尼子再興軍滅亡)
・1581年:秀吉鳥取城攻の戦い
・1582年:本能寺の変
・1583年:中国国分くにわけ
・1592年:慶長の役
・1598年:太閤検地
・1600年:関ヶ原の戦(長谷部氏一家四散?)

こうして年代記を眺めてみると、長谷部氏の一族離散は宿命だね。高瀬川の上流の高瀬川をオレたちは大川と呼んでいたが、実際には小川のような細流が村を二分してくねくね蛇行しながら流れているだけなので、東側も西側もないよ。

そういえば、近江の守護には佐々木源氏の流れをくむ京極氏と六角氏があり、六角氏には高瀬城という城があった。米原氏が城主だが、わが御先祖様とは関係がないと思う。

山名氏は、「応仁の乱」以降さまざまな支流が生まれているようだか、鎌倉時代末期には上野国山名郷にあって、豪農に毛の生えた程度の小土豪にすぎなかった。能登の守護長谷部氏の足元にも及ばない存在だ。

応仁の乱の頃、京極氏は出雲の守護、尼子氏は守護代だったという。尼子氏は近江国甲良庄尼子郷(滋賀県犬上郡甲良町)一帯を治めて『尼子』を治めていた。こちらも能登の長氏の足もとにも及ばない。

毛利氏の出自も似たようなものだが、どうやって備後の長氏を手なずけて、「からかさ連判状」の仲間にひきいれることができたのだろう。

長氏は備後の国人の一人にすぎないが、おそらく守護の山名氏に従属していたはずだ。「からかさ連判状」には山名氏の名はないが、山名氏の息がかかったていたとみられる有力な国人、たとえば和智氏や山内氏の名はある。

不思議なことに備後の守護である山名是豊やまなこれとよ山名宗全やまなそうぜんの次男だが、応仁の乱では東軍の細川勝元に属している。父子兄弟の対立ーー山名氏の衰亡の原因はその辺にありそうだ。

尼子氏も経久の三男興久が父・経久にそむいて、しゅうとの山内氏に転がりこんだが、最後は自刃に追い込まれた。また、手元の史書に次の記載がある。

山名豊国やまなとよくには、吉川軍と秀吉軍の両方についたり、離れたりしていた。天正八年(一五八〇)、羽柴秀吉が織田信長の命により姫路を本拠地として中国経略に着手し、同年九月大軍を擁して鳥取城を囲むと、山名豊国は家臣中村春続・森下道誉らの籠城意見をきかず、同月二十一日城外に脱出し、豊臣秀吉の陣中に投じて降伏し、ついで鳥取城はここに陥り、ここに守護大名は名実ともに滅び去ったのである。

その後、山名氏の庶流は徳川氏の直参として辛うじて家名を保つことが許された。念のため質問。山名氏滅亡は、一五八〇年と一五八一年と、どちらが正しいか?


返信:【Re_年代記】

山名氏の滅亡は1581年(天正九年)のようだよ。六角氏の高瀬城は、米原氏だね。米原氏は大友氏からの手紙で尼子再興軍に応してるね。

やはり、長谷部元信が1562年(永禄五年)で亡くなり、吉連の家督不続から長谷部(長)氏は一気に名を潜めている。そう考えると、長谷部元信の弟の息子あたりが、馬之助の父親と考えてよさそうだね。長谷部元信に子がいれば家督は続いていただろうしね。

長谷部元信の弟が、「家系図」にある新見玄番承の家臣だとすれば、長野氏は尼子再興軍に呼応して上月城の戦いで敗戦後牢人となり、新見氏の家来となったのだろうか。

やはり、ファミリーヒストリーは、肝心なところが謎だ。仮説をたてたとしても、どうしても、矛盾が生まれてしまう。「尼子の落人」であれば、尼子再興軍に呼応しているはずだ。

長谷部家に嫁いだ見田イシさんは、親族の大原ツネさんを長谷部家の養子にした。大原氏は松田氏の親族関係になる。親族関係にある松田伝蔵さんとツネさんを結婚させて長谷部家を守ろうとした事実がある。

この事柄だけみると、松田氏のDNAを大切にしているようにみえるが、「長谷部にとって大切な子は、ゆみ子さん」と語ったイシさんの言葉は、長谷部の氏もDNAも大切にしていると思う。

日野から長谷部家に嫁いできた、見田家、田村家、福田家、秋葉家このあたりが謎を解くカギになるのだろうか。。


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