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【152日目】陰徳太平記

ご隠居からのメール:【陰徳太平記】

・1555年:厳島の戦い(長谷部元信)
・1557年:からかさ連判状に署名(長谷部元信)
・1562年:毛利軍が雲州侵攻(長谷部元信参戦)
・1566年:月山富田城の戦い
・1569年:尼子再興軍が雲州に侵攻
・1578年:上月城の戦
・1582年:本能寺の変
・1592年:慶長の役
・1598年:太閤検地
・1600年:関ヶ原の戦(長谷部氏一家四散)

>いまのところ、1562年に毛利氏の雲州侵攻に元信が参戦していたこ
>とまでは解っているが、その後、関ケ原までの動きで長谷部(長)
>の名を見つけることができていない。この頃に亡くなっていて月山富
>田城の戦にも参戦していないのではないだろうか。なぜなら、毛利
>の九州侵攻や秀吉の慶長の役。それこそ関ケ原に長谷部氏の名が少
>しも残っていないからだ。

その推理はほぼ正しいと思う。「陰徳太平記」には次のような記述がある。

この合戦で、寄せ手の馬木彦右衛門、池田宗六の二人が、取って返して討ち死にを遂げた。芸州勢の樽崎三河守・長大蔵左衛門・虫上五郎は、好敵の首を討ち取った。

(陰徳太平記9 抗争の種々相)

もっとも、秀吉侵攻の知らせがまだ届いていないうちに、元春は有地右近・新見左衛門尉に命じて、鳥取へ兵糧を入れようとしたのであるが、両人が命を受けて、ただちに大崎という所まで行ったところ、そこから三十町(約三キロメートル)ほど離れた所へ敵が陣を張ったので、二、三日様子をうかがっていたが、その城は向城むかいじろのように堅固で、とても兵糧を運べそうにもなく、敵もあえて取り合わないので、両人はいたしかたなくそのまま帰ってきたのである。

 (陰徳太平記13 秀吉対毛利三家)

雲州という地名はまぎらわしい。雲州侵攻というとき、鳥取城攻めも入るのだろうか。上記引用文の後者は吉川経家が鳥取城に籠城していたとき、秀吉軍が攻めてきたときの話だが、何年だろう。

1562年(永禄五年)毛利軍の雲州侵攻のときではなく、秀吉軍の雲州侵攻(?)のときのような気がする。年代記に秀吉軍の雲州侵攻(?)も追加してくれ。

1562年(永禄五年)の、毛利軍が雲州侵攻では、雲州白鹿攻め(城主は松田兵部小輔、大炊介)、毛利隆元死去、というオレのメモ書きが残っている。


返信:【Re_陰徳太平記】

・1555年:厳島の戦い(長谷部元信)
・1557年:からかさ連判状に署名(長谷部元信)
・1562年:毛利軍が雲州侵攻(長谷部元信)
・1566年:月山富田城の戦い(尼子氏滅亡)
・1569年:尼子再興軍が雲州に侵攻
・1577年:秀吉中国地方への侵攻開始
・1578年:上月城の戦(尼子再興軍滅亡)
・1581年:秀吉鳥取城攻の戦い
・1582年:本能寺の変
・1583年:中国国分くにわけ
・1592年:慶長の役
・1598年:太閤検地
・1600年:関ヶ原の戦(長谷部氏一家四散?)

年代記に追記しておいた。秀吉が鳥取城を攻めたときは、米を商人から買占め、米の価格が高騰したと記載がある。「鳥取城のかつえ殺し」は相当悲惨なものだったようだよ。

山名氏は、「応仁の乱」以降さまざまな支流が生まれているようだか、山名豊国は、尼子再興軍に呼応した後に毛利氏と和解して寝返ったそうだ。

ただし、日野山名氏は、上月城の戦いまで尼子再興軍に属していた。そして、毛利氏に寝返った山名豊国一族は豊臣秀吉に滅亡させられることになった。

ご先祖さまが、尼子再興軍に呼応していたのであれば、その選択は間違っていなさそうだね。もし、毛利軍として豊臣秀吉と戦っていたら悲惨な目にあっていたね。

1583年(天正十一年)に毛利氏と豊臣秀吉で中国国分くにわけの話し合いがあり、高梁川が境界線になった。自分の記憶では、長丑之助が、秀吉から知行した西谷の地は、高梁川の東側、ご隠居の故郷である高瀬は高梁川の西側だったような気がする。

ご先祖様は、1578年(天正六年)の「上月城の戦い」で敗れたことで、新見氏を頼り高瀬の地に落ちのびたのかな。しかし、そのときに矢野庄の長谷部氏が援助してくれても良いような気もするが、、袂を分けたのだろうか。

血族ではなく毛利氏家臣の新見氏が助けてくれたということになる。そう考えると、1600年(慶長五年)の関ケ原で一家四散したというのは、間違っている気がするな。

それ以前の1566年(永禄九年)のタイミングで、長谷部一族は一家四散してると推測するよ。


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