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【151日目】主家再興

ご隠居からのメール:【主家再興】

>正直、矢野庄の長氏も直系ではないと思っている。元信の息子、吉連
(良連)に子供が生まれず、家督は不続となったのだろう。

そういう場合は、養子をとればよいが、その場合、時の権力者からの承認が必要。吉連のたてた養子は毛利輝元が承認したと推察されるが、関ヶ原で負けて、防長二国に減封された西軍の総帥にはもはや力がない。

天下は徳川の世になった。

>織田信長の援助を得た尼子勝久と山中鹿之介は、まず
>はじめに、山名豊国を使い山名家の旧臣を集め、山名家から毛利家に
>寝返り、鳥取城主となった武田高信を鳥取城から追いやったそうだ。

尼子の落人のお家再興は二度試みられている。一度目は1484年(文明十六年)、足利幕府が国人の吉川国経に「尼子経久追悼令」を出し、月山富田城から追い出されたが、経久が1486年(文明十八年)に月山富田城を奪回した。其の後、1566年(永禄九年)に落城し、尼子義久は捕らえられた。

二度目は山中鹿之助が尼子勝久を擁立してお家再興をはかったが、1569年(永禄十二年)、織田信長に見捨てられ、上月城の戦で敗れた。

返信:【Re_主家再興】

・1555年:厳島の戦い(長谷部元信)
・1557年:からかさ連判状に署名(長谷部元信)
・1562年:毛利軍が雲州侵攻(長谷部元信)
・1566年:月山富田城の戦い
・1569年:尼子再興軍が雲州に侵攻
・1578年:上月城の戦い(尼子氏滅亡)
・1582年:本能寺の変
・1592年:慶長の役
・1598年:太閤検地
・1600年:関ヶ原の戦い(長谷部氏一家四散)

いまのところ、1562年(永禄五年)に毛利氏の雲州侵攻に長谷部元信が参戦していたことまでは解っているが、その後、関ケ原までの動きで長谷部(長)の名を見つけることができていない。

長谷部元信は、すでに亡くなていて月山富田城の戦にも参戦していないのではないだろうか。なぜなら、毛利氏の九州侵攻や豊臣秀吉の慶長の役。それこそ関ケ原に長谷部氏の名が少しも残っていないからだ。

長谷部元信が大倉山(大蔵山)に訪れていることから、当時から日野山名氏との親交があったと考えていいと思う。お父さんの高祖父の奥さんである見田イシさんは、大原氏と親族関係で、大原氏は松田氏と親族関係だった。

高瀬の長谷部氏と隣人の松田氏が親族関係だったかどうかはわからないが、上月城の戦いで敗れ「尼子の落人」として同時期に高瀬の地で帰農していてもおかしくない。


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