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■【より道‐77】戦乱の世に至るまでの日本史_「佐々木一門」の整理①

山陰地方で中世の時代を駆け抜けたご先祖様を想像するために、1333年(元弘三年)の「元弘の乱」から1352年(観応三年)の「観応の擾乱」まで、学びを深めていますが、目的は、我が家に伝わる「尼子の落人」という言い伝えの謎を解明するためです。

どうも、先人の武士たちは、氏が変化したり、似たような名前、いみなが継がれたりしていて、名前を覚えるのにとても苦労します。しかし、一族を辿ることで多くの気づきを得ることができることを知れたので、足利一門に続いて、佐々木一門についてもしらべてみようと思います。

とくに、ご隠居の実家の隣の土地に住んでいて親戚の松田氏。そして、松田氏の親戚として、ある時、高瀬村に引っ越してきた大原氏。この両家が尼子氏の末裔だといわれていますのが、いったいどのような関係があるのでしょう。


■ 名門・佐々木一族
佐々木一族は、宇多源氏の氏族ですが、平安時代末期に活躍した、佐々木秀義(ひでよし)から辿ることにします。

佐々木秀義(ひでよし)には、5人の息子がいまして、4人の息子は、源平合戦で源頼朝よりともに味方しましたが、腹違いの末弟、五男の佐々木義清(よしきよ)は、関東平氏、坂東武者たちをまとめていた、大庭景親おおばかげちかの娘と婚姻関係にあったので、平氏側についていました。

源平合戦は、平氏が滅亡し源氏の世となったので、平氏に味方をした、末弟の佐々木義清(よしきよ)は、源頼朝よりともに信頼されていませんでしたが、兄たちの活躍により、許してもらいました。

そして、1219年(承久元年)に発生した「承久の乱」では、鎌倉幕府に属し活躍したため、出雲隠岐の守護となり、出雲佐々木氏として、隠岐氏、塩冶氏、富田氏、高岡氏、佐世氏、湯氏などに分かれ繁栄していきました。

有名な人は、佐々木(隠岐)清高(きよたか)が、1333年(元弘三年)に後醍醐帝を隠岐の島から逃がしてしまい、伯耆国の「船上山の戦」に敗れてしまいました。また、佐々木(塩冶)高貞(たかさだ)は、1341年(暦応四年)に、室町幕府を裏切り、南朝側に内通していたとして、自害に追い込まれたといわれています。

その後、息子の、佐々木(塩冶)冬貞(ふゆさだ)は、足利直冬ただふゆや、山名時氏やまなときうじらと共に、南朝側についたといわれています。


■佐々木六角氏
しかし、佐々木氏の宗家は、源頼朝よりともについた佐々木秀義(ひでよし)の長男、佐々木定綱(さだつな)です。そして、佐々木定綱(さだつな)の孫の四兄弟が、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏を名乗るようになりました。

大原氏、高島氏は歴史の表舞台から名が消えてしまいますが、宗家を引き継いだ佐々木六角氏は、近江国の守護として繁栄していきます。そのため、とにかく血筋がすごいです。佐々木道誉の娘や、足利基氏の娘、足利義満の娘などが正室となり、織田信長の兄の娘も娶っています。


六角氏でポイントとなる人は、まず、六角時信(ときのぶ)です。1333年(元弘三年)の「元弘の乱」のときは、鎌倉幕府軍として、後醍醐帝がたてこもった笠置山の鎮圧をしたり、足利高氏や佐々木道誉が六波羅探題に攻め込んできたときも、最後まで鎌倉幕府側として、反乱軍と戦いましたが、同族の佐々木道誉の活躍で許されたようです。

つづいて、六角高頼(たかより)。1467年(応仁元年)から11年続いた「応仁の乱」で、西軍に属し近江国の所領をめぐり、同族の京極氏や、日野富子の息子、足利義尚よしひさなどと戦いました。どうも、この人物が、ご先祖様につながるポイントになるような気がしていまして、六角高頼(たかより)の息子に大原高保という方がいらっしゃいます。その息子が、後の尼子十勇士となる米原氏を名乗るのではないかと、個人的には推察しています。

そして、戦国期に活躍したのは、六角義賢(よしかた)ですかね、13代将軍・足利義輝よしてるを助け、三好長慶ながよしと戦ったり、北近江で影響力を増してきた浅井氏と戦ったり。この辺りは、また別の機会に整理しようと思います。

ちなみに、浅井氏の祖は、第8代将軍・足利義政の従弟で、やがて、尼子氏の娘を側室に迎えていますので、近江でも下剋上が起きたということですね。

六角氏は戦国期を経て、歴史から姿を消してしまいますが、その血脈は、現代でも、ひっそりとどこかに続いているはずです。


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