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■【より道‐64】戦乱の世に至るまでの日本史_足利一族の内輪もめ

鎌倉幕府末期には、モンゴル帝国が日本に2度攻めてきて、防衛戦に勝利することができましたが、恩賞である領地を与えることができませんでした。

さらには、北条平氏一族に権力が集中してきらびやかな生活をしているのに、民たちは貧しく乱れる世を正すために、大覚寺統の後醍醐天皇を旗頭に源氏の武士たちが立ち上がりました。

そして、倒幕を果たした建武新政権では、「朝廷」が人の上にたつ公家一統の体制を後醍醐天皇がつくりあげようとしましたが、公家への依怙贔屓や、戦や内裏工事のための、増税などで人心が離れ、源氏の棟梁、足利尊氏への期待が高まり「建武の乱」がおきました。

そして足利尊氏は、光厳こんごう上皇の院宣のもと、後醍醐天皇を京の都から追い出し、室町幕府が開かれます。これで、公武一体の体制を築き、各所領は武家が守り、朝廷は道筋を示す役割となりました。

しかし、今度は、その「やり方」で衝突が生まれてしまいます。それは、活躍した武将に正しい論功を与えたいと考える足利尊氏と、北条平氏の鎌倉幕府をモデルにした権力集中体制をつくりたい足利直義ただよしの考えの違いです。

兄の足利尊氏と、弟の足利直義は、幼いころから仲が良く、志を一つに死線を乗り越えて、鎌倉討幕や公家一統の建武新政権の瓦解がかいを成し遂げました。

それでも、天下を分ける大ゲンカをしてしまうわけです。それだけ、人と人は「わかりあえない」という真理なのかもしれません。

「わかりあう」のではなく「みとめあう」ことは、昔の人も思い悩んだ、人類が生きのびるための重要なテーマなのかもしれません。


■ 足利一族の内輪もめ

1338年(暦応元年)室町幕府は、光厳上皇が弟である光明こうみょう天皇に即位させて、武家の棟梁である足利尊氏が武家の長として取りまとめをおこなうことになります。しかし実際には、執事の高師直こうもろなおが足利尊氏を補佐し、政務は弟の足利直義が行うことになりました。

足利尊氏はかねてから、政事まつりごとは、直義に任せると告げており、自らは、征夷大将軍の地位につき、武家たちをまとめることに専念します。

1339年(暦応二年)に後醍醐天皇が崩御すると、足利尊氏は、都に後醍醐天皇を祀る、天龍寺を建てると独断で決めてしました。これは、南北朝の争いを、柔和させる目的がありましたが、足利直義は、自分になにも相談せずに決めたことに苛立ち、「敵に塩を送る必要はない」と、ふたりの意見は、対立していたそうです。

足利直義は、鎌倉時代の執権政治を目指し、家柄の高い足利一族、具体的には、桃井氏や細川氏、斯波しば氏などで政事まつりごとを進め、外様の高師直や佐々木道誉など婆娑羅ばさらとよばれる大名たちには、南朝との最前線の戦に駆り出すように仕向け、外様たちの不満がたまっていきました。

婆娑羅とは、派手なふるまいと、権威や上下関係を気にせず、自由な言動を行う人たちのことをいい、戦国期に「うつけ」とよばれるの元祖になったといわれています。また、婆娑羅の思想が、下剋上という考え方につながったといっても過言ではありません。

婆娑羅の代表的なエピソードとすると、高師直は、神仏の罰も天皇の権威も全く恐れず、「天皇というものがどうしても必要なら、木か金で造って、本物は島流しにでもすればよいと」言い放ったそうです。

また、佐々木道誉は、妙法院という、後白河法皇が開いた皇族が住職を務める寺院に見事なカエデの木をみると、家来に「枝を1本持ってまいれ」と命じると、若い僧(伏見天皇の代九皇子)が、無礼者と止めに入り、佐々木道誉の家来をボコボコにしてしまいました。それを聞いた、佐々木道誉は、兵を連れて妙法院に火をつけてしまったそうです。

しまいには、酒に酔っ払った土岐頼遠ときよりとおが、光厳上皇の行幸ぎょうこうに遭遇すると、立ちふさがりました。すると、行幸のおつきのものが「院の行幸であるぞ」と告げると、土岐頼遠は、「院といったか、犬といったか。犬ならば射ってしまおう」と弓を放ったそうです。


このような婆娑羅のふるまいに、政事や法をつかさどる足利直義は頭を抱えますが、しかし彼らは戦に強く、輝かしい功績を残している婆娑羅大名たちを足利尊氏は甘やかし寛大な対応を取り続けました。

それには、理由がありました。婆娑羅大名たちは、世を変えようとして鎌倉討幕や「建武の乱」を戦ってきたのです。幕府に入って政事に参画したいと思っていたのです。しかし、足利直義は、彼らに政事に参画させず、南朝との戦にばかり駆り出されて命を懸けて戦わせている。それが、腹ただしかったということです。

この亀裂が、やがて大きくなり足利一族を二分する戦に発展していくことになります。

自分の気持ちに素直に、心行くままにやりたいことをやった、高師直や土岐頼遠は、傍若無人な行いから、やがて命を落とすことになりますが、血のつながりのあるご先祖さま、佐々木道誉は、人生を全うすることができました。

ひと言に、婆娑羅と言っても何かの加減があるのだと思います。それは、現代を生きる自分にも何かのヒントになるはず。いつか、詳しく調べてみたいなと思いました。

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