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【202日目】帰心道入禅定門

ご隠居からのメール:【帰心きしん道入どうにゅう禅定門ぜんじょうもん

>>長牛之助が秀吉の感状を理由に菅生村西谷の地をを主張したのが、1626
>>年(寛永三年)だから、三代将軍・徳川家光の時代。

ーー1626年? それは想定していたよりもずいぶん遅い時期だな。


>>「新見太平記」では、牛之助の父である、長野又左衛門信治が新見玄蕃
>>丞の被官として菅生の地をあてがわれたとあるね。このあたりで、一世
>>一代の大勝負があったのは間違いない。

ーーそれは『新見市史』の記述に基づいているはず。


>>「陰徳いんとく太平記」の出版が1717年(享保二年)。金風きんぷう妙露みょうろ信女しんにょが亡くな
>>ったのが、1735年(享保2二十年)。長谷部絢光あやみつ氏が「当日野郡人久不
>>住事」を書いたのが、1763年(宝暦十三年)。平和な時代になって戦国
>>時代を振り返ることができるようになったのだろう。

ーーたしかに、戦乱はなくなり、平和な時代になった。元禄時代に世間を騒がせたのは赤穂浪士の討ち入り事件。備中松山藩主には板倉氏、新見藩主には関氏が入った。


>>すると、「当日野郡とうひのぐん人久じんきゅう不住事ふじゅうごと」に記載されている、雅楽うた相模守さがみのかみ(元
>>信5代の孫)というのは、戒名、金風妙露信女の旦那さん、もしくは息
>>子さんの帰心道入禅定門のことを指しているのだろうか。

ーー雅楽相模守(元信5代の孫)というのは長氏の雅楽相模守ではなく、関氏の雅楽相模守だと思う。関氏は新見藩ではなく、黒坂藩の関氏だから歴史そのものがまぎらわしいが、高瀬大原の帰心道入禅定門とは関係ないと思う。


>>いや、「長門守ながとのかみ神罰を受けて滅亡することに」とあるから、萩に転封と
>>なった、毛利氏についていった長谷部氏一族のことを指していそうだ。

ーー長谷部絢光は、長元信と関長門守の両方を批判し、長氏と関氏の滅亡は神罰があたった、ざまあみろ、と言っているのだ。隠れ里高瀬大原の帰心道入禅定門のことなど念頭にないと思う。


>>金風妙露信女の戒名は、凄いね。確かに。金風を調べると、「秋風」を>>さしている可能性もありそうだ。

ーーそうか、金風は「秋風」をさしている可能性もあるのか。そういえば、俳句の季語に「金秋」がある。それでも、やはり、金風妙露信女という戒名には「金」のにおいがする。江戸時代も中期になると、米作中心から商品経済発展の傾向が出てきている。伯耆や備中でも、たたら製鉄で金持ちになるチャンスがあったことを示しているのかもしれない。


「自分が死んだらどこの墓に入るの?」という疑問を孫が発したら、きちんと答えることができるようにしておきたいと思う。オレが死んだら浦安市からリースする墓地に埋めてもらうつもりなので、さしつかえなければ、寿命がつきたらみんなその墓に入ってくれ。


返信:【帰心道入禅定門】

都立図書館でコピーをした「続日野町史」に色々な答えが書いてありそうだ。まだ、ちゃんと読み込めてないが以下3点大きなことがわかった。

【わかったこと】

①長谷部元信(享年38歳)
 →厳島の戦いで負傷し翌年に亡くなる

②日野長谷部氏
 →元信の3代子孫が武門を改め社家(神官)になる
 →家名を長氏から雅楽氏に返る
 →元信の5代子孫、雅楽相模守正忠黒坂上下を町割

③ 雅楽相模守正忠の弟が上菅生村の高倉大明神の神主になっている

長丑之助の件は、家系図の年数が1626年(寛永三年)になっている。再度確認が必要。少々、忙しくインプットの時間を設けることができてない。改めて調査して報告するよ。


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