【203日目】雅楽氏
ご隠居からのメール:【雅楽氏】
①長元信の没年が38歳とはずいぶん若いね。それでは厳島の戦や白鹿城攻めでは活躍できたが、大倉山にまで遠征するヒマはないのではないか。子どもをつくるヒマもなかったかもしれないが、備後長氏と日野長谷部氏→雅樂氏にしっかり継承されている。しかし、神官系と武将系に分断されたともいえる。
高瀬大原は第三の系統で、帰農系あるいは農林系とでも称するべきか?
②日野長谷部氏は、元信の三代子孫が家門を改め社家(神官)となる。
これは記憶に残っている。何代目の子孫かわからないが、長谷部絢光の「当日野郡人久不住事」は中世の貴重な史料として無視することはできない。特に元信に対して「おまえの先祖信連が各地に神社を建てるので住みにくくなったのでここを去る」と鬼に言わせたのは、明治維新の際の廃仏毀釈運動につながる思想として注目される。元信だけでなく信連の行動まで批判したのは、長氏というより先住民の立場に立っている。
神道と仏教との思想的対立は現代では話題にもならないが、江戸時代は幕府によって仏教が保護され、コントロールされてもいた。明治維新の倒幕運動の原動力には絢光のような復古神道思想のエネルギーもあった。そのような思想家には本居宣長や平田篤胤の存在があり、津和野藩出身の元田某もいたので、伯耆の厳島神社と亀井氏の津和野ともつながっていたかもしれない。
返信:【Re_雅楽氏】
いやいやお父さん、我々は「尼子の落人系」でしょ。しかし、面白いことに、長谷部信連が伯耆に残した長男「藤太郎実信」の母、つまり信連の妻は、雅楽(うた)氏のようだ。実信氏のことは、家系図にも記されている。
雅楽(ががく)は、皇室に伝わる日本古来の音楽文化芸能だ。現代では東儀秀樹さんが有名だが、改めて、長谷部信連が日本の中心人物だったと思える事例だね。
そして、信連のときから東寺との関係があったと記されているのを発見した。内容は、平家討伐の密書を信連が送ったというもの。800年もの前の書面が残っているとは、さらさら思えないが、鎌倉時代から東寺のつながりがあるという可能性が出てきた。
すると、高瀬の地が長年、東寺に年貢を納めていた、そもそもの背景が信連だという可能性がでてきた。すると、秋末氏や重久氏は長谷部の小作人だったのではないかね。長谷部元信が追い出したということも考えられる。
あの、見渡す限りの山林は、やはり長谷部信連から続いているものだと考えるほうが、理にかなっていると思う。
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