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スクール長ダイアログ <教育と価値①>

10月2日 神戸大学V.School長 國部克彦

 10月1日の価値創造サロンCの第1回目は,「大学教育とは?」でした。玉置先生の司会のもと,小池先生がオルテガに基づいて教養について語り,鶴田先生がデューイに基づいてPBLについて語り,菊池先生がクリステンセンに基づいて大学教育の破壊的イノベーションについて語るという非常に高尚かつスリリングな内容でした。また,学生の皆さんからのチャットでの質問や意見も素晴らしく,その記録があれば,ここで再現して私の意見を述べたいほどですが,今は手元に記録がないので,昨日のサロンの議論をから,自分自身の教育を振り返ってみたいと思います。
 私が大学に教員として初めて採用されたのは1990年ですから,すでに30年が経過しています。自分の人生の半分以上の時間を大学教員として過ごしてきたことになります。私は,非常勤講師は原則として受けないのですが,それでも集中講義や1コマだけの講義も含めれば,北は北海道大学から南は九州大学まで,偏差値レベルでいえば,SランクからFランクの大学まで教えた経験があります。
 その結果私は,教育で一番大切なことは,どのような学校でも同じで,それは「知識」を教えることではなく,その「意味」を教えることであると確信するようになりました。たとえば,「1+1=2」は,それだけなら形式で「知識」にはなるかもしれませんが,受講生にとっての「意味」にはなりません。しかし,エスカレーターに乗っていて,横に人が1人立つと列がいっぱいになると考えれば,そこには「1+1=2」の「意味」があります(正確にはこれは三進法の足し算の意味です)。
 知識を形式と理解すれば,それは断片ですから,勉強しようと思うと,それを記憶しないといけません。10の知識を記憶することはできても,100の知識を記憶するのはなかなか大変でしょう。しかし,100の知識を1つの意味に還元すれば,それは1つの対象として記憶すればよいだけです。私は講義では,1回の講義ではできるだけ1つの意味だけを教えるように心がけてきました。それでは意味とは何でしょうか?100の知識を1つの意味に還元などできるのでしょうか。
 ヴィトゲンシュタインは,言語ゲーム論を確立した「哲学探究」において,意味は使用で決まると主張しました。つまり,意味とは言葉の定義のような形式ではなく,言葉が使用される場面で決まるというのです。この使用とは経験のことです。以前,価値は使用によって生じると説明しましたが,その点で意味と価値は同じ次元の概念です。したがって,意味を教えるためには,実践的な教育が重要で,実験やPBLを含む演習はそのひとつです。しかし,講義で知識を意味として伝えることは,どうしたら可能になるのでしょうか。

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