Hysilのフラスコとノーマンの引退の話

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ノーマンは、15歳でJames A. Jobling社の理化学ガラス部門に入り、同部門が閉鎖するまで25年間つとめあげました。その後も当時の同僚と助け合ってガラスの仕事を続け、定年を迎えるまで理化学ガラス職人でありつづけた大ベテランです。

James A. Jobling社の理化学ガラス部門は、1932年に組織され戦中戦後を通して伸びていました。1970年代に入ると国全体で重工業が斜陽になったために需要が落ち込み、そろそろ仕事がなくなるらしいという噂が立ち始めます。1972年に一度目のリストラがあり、主に年長で給料の高かった職人5人が工場を去りました。ひとりまたひとりと将来に見切りをつけて退職する人が増えました。1982年、理化学ガラス部門はついに閉鎖となり、希望者はスタッフォードシャーにある関連子会社に移籍することになりました。といっても、遠くはなれたスタッフォードシャーへ越した人は実際にはいなかったようです。

それからずっとずっと後のこと、私が出会ったときノーマンはガラスセンターの中に小さな工房を持っていました。実験器具からコミカルな怪獣のフィギュアまで、口笛を吹きながらあっという間に作ってしまいます。おしゃべりが上手で親分肌のノーマンには、技術はもちろん職人の人生訓をいろいろ教えてもらいました。

2016年のクリスマスが近い頃、この日はノーマンの定年退職の日と決まっていましたが、彼はわざわざ人にも言わずいつも通り仕事をしていました。13時になると共用スペースにある旋盤が使えるので、大型工作はこの時間を狙ってやります。これはガラスセンターの観客向けのアトラクションを兼ねているので、作業に集中するには何かと不自由もあるのですが、大ベテランはそんなことは気にしません。自分の頭よりも大きなフラスコを鷲掴みにして、作業場に向かいました。私は、何も言わずにカメラを持って後に続きました。

ノーマンが左手に持った大きなフラスコは、1960年代にJames A. Jobling社で生産されたHysilというブランドのものです。Pyrexと名前が違いますが実質中身は同じです。少し前に地元の方から不用品だと言って、箱いっぱいのHysilが届けられていました。

「歴史が好きなんだろう?」ノーマンは、埃っぽい箱ごとフラスコを全部私にくれて、ひとつだけひときわ大きい丸底フラスコを取りました。「これだけもらうよ。ちょうど特大のウィルスの注文が入ったんだ。それに使うから。」

ウィルスというのは、ウィルスの顕微鏡写真からデザインを起こした模型のようなガラス作品で、ブリストル在住のアーティスト、ルーク・ジェラームさんが手がけているものです(glass microbiologyで検索)。舞台裏を支えているのは、実はノーマンのような腕利きの職人なのです。(これは公式のことで暴露ではありません。)

前の記事で説明したように、パイレックスは後から形を変えたり足したりできるので、ちょうど巡り合ったフラスコを材料として活用して、ウィルスの形を作ろうというわけです。

「ノーマン、これは1960年のヴィンテージじゃないの?使ってもいいの?」と私は聞きました。

「古くたってかまいやしないよ。パイレックスなんだから混ぜても大丈夫さ。」 「そうじゃなくて、貴重な物ではないの?」 「好きにしたらいいさ。この大きいのはこっちでもらうよ。サイズが偶然のようにぴったりなんだ。」

ノーマンや仲間の職人さんたちと話すと、古いパイレックスを再加工することに対するドライさに驚かされることがあります。ボトルシップも、これちょっと壊れているから修理して新しいボトルに入れ替えたら新品同様になるよ、とか。

もともと作っていたのが自分たちだから、手を加える抵抗も少ないのかもしれません。またそれよりも、一部を補修したり必要に応じて形を変えたりという作業は、理化学ガラス職人の仕事そのものであって、思考にしみついているように思えます。

ノーマンは、特大のHysilのフラスコを旋盤にセットして、躊躇なく大きなバーナーで炙りはじめました。首の部分にプリントされていたHysil made in Englandのロゴは、少し焦げて、それから融けたガラスと一緒に赤く光って、消えました。

ノーマンの迷いのない作業によって50年前のフラスコが新しく生まれ変わっていく様子を、まるで彼自身の職人人生の総括を見せてもらっているような気持ちで私は見ていました。

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