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緑の煙

近鉄難波行きの特急列車にのっていて、
喫煙所から出てきた人が通り過ぎると、
かすかに紙タバコの匂いがした。
わたしはiQOSに変えていて、いつの間にか紙タバコの匂いに敏感になった。
ふとした匂いは、体や服に染み付いた匂いだった。
そのとき頭をよぎったのは、母だった。

生まれた時から周りはヘビースモーカーだった。
焼肉屋かと思うほど、いつも家の中は煙たかった。
タバコなど吸わないと決めていた10代。
そんなものはすぐに消え失せ、いつのまにか心の痛みを煙に溶かそうと必死になっていた。
おかげで手首の傷は減ってタバコが増えた。
自分の体を傷つけることほど痛々しく、切なく、愛おしいことはないが、唯一人目に晒すことがどうしても恥ずかしかった。

母はイライラしていても、嬉しくても、タバコを吸っていた。何を考えているか分からない顔で、煙にどろどろした感情を混ぜていたに違いない。
「殺したい人はいるか」
と唐突に聞いてきたことがあった。
「え、」
と固まって答えを探していると
「お母さんはいるよ、ひとりだけいる」
お酒も飲んでいなかったし、どシラフで突然そんなことをぶちかましてくる。
その"ひとり"が誰なのかは分かったけれど、わざわざ言うなよとも思った。

今思えばひとりの人間としての感情を剥き出しにした瞬間だったかもしれない。
そのあとから、たまに見せる母ではないその"人間らしさ"がやけに生々しかった。
長年の怒りや悲しみは煮えたぎり、一方で底無しの愛に満ちていて、強く生きるために常に人を見下していて、娘さえも笑顔でひどい言葉を投げかける。
人間らしいといえば人間らしいのだが、愛情に溢れた母なのは間違いない。
このギャップは、大人になってからずっと困惑している。
母であり女であり人間である、という認識は難しい。ひとりの人間なのだという事実がなぜか怖い。
わがままだけれど、ただの母であって欲しかった。
人間らしさは外で見せていて欲しかった。
母の"剥き出しの人間らしさ"は恐ろしかった。
きっとわたしたちが居なければ、爆発していた何かがある。
蓋をしている役割を担っているわたしたち。
それを、大人になってから実感してしまった。
それがあまりにも苦しく感じるのだ。

そんな母から少し離れて生きていたら、際限なく吸っていた母の毒気もだいぶ抜けて、わたしも普通になれた気がした。
ただ、タバコの匂いは、一気に記憶を引きずりだす。
走馬灯のように、母との忌まわしい思い出、楽しい思い出、悲しい思い出、全てが引き摺り出される。
残り香はふんわりと緑色の煙で、胸がきゅっと苦しく締め付けてくる。
懐かしい、愛おしい、そう感じてしまう。
わたしの体はきっと母の毒の匂いがまだ忘れられない。

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