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【短編】治五郎のこと


 治五郎という名は、伯父から見て曽祖父にあたる人物から取ったものであるらしい。ずいぶん色気のない名前だと思い訊ねたら、誇らしげにそう言った。なんでも当時はここいら一帯の庄屋であったらしく、ずいぶん手荒な真似をしながら自分は巻き上げた金で悠々自適に暮らしていたらしい。現在の一族の基盤も、その治五郎翁が築いたものが元手になっているそうで、伯父が定職にもつかずぶらぶら遊び暮らしていられるのも治五郎翁のおかげにほかならない。親類中から白い目を向けられている伯父にも先祖への恩という感情は存在しているようで、こうしてやりたいことだけやっていられるありがたさを表したのだと誇らしげに語った。正直なところ、センスがあるとはとうてい思えない。
 伯父の家──つまり、今私が居候している一軒家は、その悪名高い治五郎翁だか、その息子だか孫だかが愛人を囲っていた場所であるらしい。もちろん当時の家をそのまま残しているわけではなく、土地だけはそのままに、一族の誰かがいっとき住んでみたり、別荘代わりになったり、借家になったり空き家になったりしているうちに、いつの間にかすっかり近代的な二階建てに建て替わっていた。折よく空き家になったところに、定職にもつかず定住もせずぶらぶらしていた伯父が目を付け、よくわからないうちにごくごく自然に住人の座に収まっていた。私は下宿先が割合近かったこともあって、よく夕飯をたかりに訪れていたのだった。ゆえに治五郎の世話係に任命される羽目に陥り、現在に至る。
 治五郎について語るには、伯父の道楽を抜きにして話を進めることはできない。伯父は人文地理学者を自称している。自称しているだけで本業なわけではない。文化人類学に嵌まり、民俗学に流れ、郷土史家を志した結果としての人文地理学である。いっぱしに名刺などつくってみたりしているが、それで給金を得ているわけでもない。ときおりふらりとフィールドワークとやらに出掛けては小汚い格好で帰ってきて、フィールドノートと地図を目の前に広げ、ずぶの素人でしかない私に向かって旅で得た成果を語るのが、ここ最近の生きがいだったらしい。適当なタイミングで相槌を打ってときおり質問を挟めばそのあとは必ず夕飯を奢ってくれるので、悪い稼ぎではなかった。
 そんな気ままな学究活動のなかで拾ってきたのが治五郎だ。一週間程度のフィールドワークから帰ってくるなり私に電話を寄越し、自慢げに見せびらかしてきた。なんでも、地図片手に南房総の海岸を散策していたところ、気付いたときにはうしろにくっ付いて離れなくなっていたという。仕方がないので自家用車の後部座席に載せ、連れ帰ってきたと言った。伯父の後先考えなさはそれまでも十分見せつけられてきたという自負があったが、このときばかりはさすがに閉口したし、まさかその後、家の管理とともに治五郎の世話まで押し付けられることになろうとは夢にも思っていなかった。

 私の朝は治五郎の餌を餌皿に入れるところから始まる。なにかしらの動物を飼った人間なら容易に想像がつくであろうが、人間など所詮、愛玩動物に奉仕するために生み出された奴隷である。場合によっては奴隷以下だ。
伯父が用意した明らかに小型犬用の餌皿へ、ツナ缶をふたつ半開ける。これを朝九時と夜六時に、雨の日も風の日も繰り返す。この掟のおかげで、この家に居候してから、典型的な夜型人間である私は常に寝不足に悩まされていた。しかし気難しい伯父じきじきの命であるから、なにかのはずみで怠惰が明るみに出た日には筆舌に尽くしがたい罰を受けることになるのだろうな、というのは容易に想像がつく。恐ろしいので素直に従っているだけで、正直そこに、治五郎に対する愛情があるのかと問われると返答に窮するのだ。なにせ彼(なのか彼女なのかもわからない)は、こちらがどんなにツナ缶を盛ろうが声を掛けようが風呂やトイレの世話をしようが一向に私に懐かない。最初の頃は、どんな動物でも、こちらがそれなりの愛情を向ければそれなりの愛情で以て返してくれると信じていたのだが、少なくとも治五郎に関してはその論理は通用しないらしい。だから諦めた。伯父の言いつけを守れて、かつ小遣いを貰いながら家守という名の居候生活を続けられるならそれでいいと割り切った。そう、私とて、定職もなくただ呆けながらその日その日を暮らす人種のひとりに過ぎないので、伯父のことをとやかく言えない。

「治五郎、ごはんだよ」
 呼んでも来ない。いつものことなので悲しくもならない。時刻は午前九時五分前、私は相変わらず寝不足でふらふらであり、二階からは治五郎の元気な足音が聞こえてくる。どうやら起きてはいるらしかった。元気であるならばもうそれでいい。
 伯父からは、本来の治五郎の部屋は二階の奥の一室だけだと聞かされていた。そして基本的に、伯父の書斎に入れさえしなければ、治五郎の好きなようにさせてほしいと頼まれている。妻も我が子もいない反動が治五郎に向かっているらしく、伯父は治五郎にめっぽう甘いのだ。おかげで、本来ならば私の自室として明け渡されていたはずの二階の奥から二番目の部屋は、今ではすっかり治五郎の遊び場になってしまっている。私の居場所は一階のリビングくらいのものだ。四畳半の前下宿から持ち込んだわずかばかりの本や娯楽品をソファーのまわりに配置して、ソファーに毛布を敷いて寝起きしている。
 階段前に餌皿を置いたまま、リビングに避難して朝のニュースを観た。とりたてて悲惨な事件は起こっていないようだと安心していると、しばらくしてから階上の気配が移動し、じきにどたどたと階段を下りる足音に変わった。それから、廊下とリビングを仕切るドアを通しても聞こえてくる、はふはふという鼻息。続いてがっつくようにツナを食べている音がした。余程お腹が空いていたらしく、なんだかこっちが切なくなってくる。
「おい治五郎、やっぱり二食じゃ足りないんじゃないの。量か回数増やそうか」
 標準というものが分からないのだが、無知な自分から見ても治五郎の体はかなり大きいほうだと思う。ほんとうにツナ缶ふたつ半で足りるのかと何度も伯父に確認したのだが、何度訊いても十分だと言われるので面倒になって訊くのをやめてしまった。少なくとも私が来てから治五郎が痩せている様子はないし、恐らくは現状維持でいいのだろう。けれどこの、べちゃべちゃと音を鳴らしながらたかだかふたつ半のツナ缶に食らいついている場面に遭遇するたび、なんだかひどく申し訳ない気分になる。もちろん何度訊いても治五郎が問いに答えることはない。だからふたつ半のまま増やすことも減らすこともしない。

 食事自体はものの数秒で終わるのだが、食事が終わってもしばらくは、治五郎は階段前の廊下をうろうろしている。ときどきふんすふんすと鼻を鳴らす音がするのでそのときばかりは愛らしい。しかしそんな愛らしい時間においても油断は禁物で、治五郎が床を引っ掻いたりしていないか、無駄に高そうなでかい壺にじゃれついていないか、涎をそこいらに撒き散らしていないか、そういうことを音から判断し、適宜注意をしに廊下へ出なければならない。治五郎は二階の奥の部屋に加えて階段前の廊下をいたく気に入っているようで、私がどこかのタイミングで強く言わないと、永遠に階段前をうろちょろし続けるのだ。
 私はというと、治五郎以上になにもすることがない。ぼうっと治五郎の生活音を聴いているうちに、気付いたら朝の情報番組は終わっていて、時刻は昼のバラエティの食レポコーナーに突入しようかという頃になっていた。そろそろ自分の昼食に素麺でも湯掻こうと思い、重い腰を上げた。そうしてついでに、治五郎の餌皿も一緒に洗ってしまおうと思い立つ。できるだけ早く片付けてしまわないと、治五郎の涎が乾いてしまって洗剤でもなかなか落ちない頑固な汚れと化すし、治五郎がおもちゃにして割ってしまわないとも限らない。実際まえに一度そういうことがあって、そのときは私が不用意に廊下に出たせいで階段前が血の海になり、治五郎がパニックを起こした。あの阿鼻叫喚は二度と繰り返したくない。
「治五郎、治五郎、皿もらうよ。開けるからね」
 案外憶病な治五郎のために、できるだけ優しい声を出した。ドアに嵌められたガラスの向こうで大きな影が動き、ふんすふんす、きゅうきゅう、と鼻の音も喉の音もせわしなくなる。階段の数段上まで避難したらしい。それでもなおできるだけ大きな音を立てないよう、静かにドアを開けようとした、そのときだった。
 ──……ンポーン。ピンポーン。
 唐突にチャイムが鳴った。やべ、と思ったときには時すでに遅く、廊下からガシャンと鋭い音が聞こえ、続いてドタドタと階段を駆け上る音が遠ざかっていく。ああ、と思った。突然の音に驚いたのだろう。治五郎は突然の人工音が大の苦手なのだ。恐る恐るドアを開けると、案の定、今朝はあんなに元気だった餌皿は無残な姿となって階段前に散らばり、おまけに治五郎が撒き散らしたらしい涎で壁がぬるぬる光っていた。
 ああ、くそ、と頭を抱えている間にもチャイムは、ピンポン、ピンポンと不規則に鳴り続けている。郵便配達にしてはずいぶん粘るし、回覧板にしては妙に急いている気がして、なんだか厭な予感がしたのは事実だ。しかしこのまま放っておいてはじきに治五郎がパニックを起こして二階を荒らしてしまうだろうし、いつまでも居留守を決め込んでいるわけにもいかないだろう。とにかくチャイムの音を止めるのが先決だと思ったのだ。破片を踏まないように気を付けながら廊下を抜けて、不機嫌なのが相手にも伝わるように、出来得る限りに低い声で、はい、と声を上げながら、玄関のドアロックを外した。

「どうもすみません、あれ、先生はお留守ですか」
 玄関の向こうに立っていたのは小太りの中年男で、顔面は脂ぎっててらてらと光っており、第一声からその猫撫で声のトーンが気に入らなかった。私を音楽準備室に引きずり込んであんなことやそんなことをしようとした中学三年の頃の副担任に似ている。しかしあれから私もすっかり老け込み、同じ理屈でもし仮にまだ生きているのであれば例の副担任はすでに老人になっているはずだ。だからこの人物はあの副担任ではないのだと自分に言い聞かせて、叫び出したいのをなんとか耐えた。
 男は無遠慮に、私と、それから靴脱ぎの周辺をじろじろと見回し、いかにも今思い至りましたといった白々しい調子で、谷口、と名乗った。
「失礼ですが、先生はご在宅ですか」
「すみません、この家には『先生』と呼ばれるような身分の者はひとりもおりませんが」
 どちらか別のお宅とお間違えではないですか。できるだけ丁寧に言うと、谷口氏は大袈裟にも思えるほど短い両手をばたばたと振り回して仰け反り、そんなわけはない、と言った。
 話を聞いて、驚いた。谷口氏は伯父の教え子なのだという。教え子、といっても、あの伯父が教師や講師といった職業に就いていた過去など存在するわけもなく、なんでも伯父が郷土史家を自称していた時分に、そんな伯父に惚れ込んで自ら弟子入りを志願した、ただの変わった近隣住民であるらしい。引きこもりゆえ、近くに谷口氏が住んでいることなど露ほども知らなかったし、谷口氏のほうでも初めて見る伯父の身内にひどく驚いているようだった。
「となると、先生はお留守なんですね」
「ええ、長いこと」
「すぐ帰られるということもない?」
「生憎と聞いておりませんで」
「おっと、それは困ったなあ」
 またも白々しい動作で、谷口氏はべとべとした額を掻いた。
「いやね、先生にお貸ししていた家系図があるんですよ。本当のことを書いているのかも怪しい、ただ古いばかりの紙切れですが、あれがちょっと必要になってしまいまして」
「はあ」
「先生が地理学だか地誌学だかにのめり込んでしまってからは疎遠になってしまったものですから。私がもう少し早くに取りに伺えば、こんなことにはならなかったんですがねえ」
「ふうん」
「いやあ、困った困った」
 どうやら私に取ってきてほしいらしい。ため息を噛み潰して、探してきますよ、と微笑むと、谷口氏は暗かった表情を腹が立つほどに綻ばせ、唾を飛ばしながら再び仰け反った。
「おお、そうですか! ありがたいありがたい」
「どんな紙です」
「いや、見れば分かりますので」
「いえ、私が探してきますのでここでお待ちください」
 しかしまあ、待たせるといってもまさか外で立ちっぱなしに放っておくわけにもいかないだろう、そう思った私が甘かったのだ。今となっては猛省しているのだが、せめて靴脱ぎには上げてやろうと私が大きくドアを開けた瞬間、かの谷口氏はその体に見合わぬ俊敏さで以てするりと私の脇をすり抜け、あろうことか靴を脱ぎ捨てて廊下に上がったのだった。断りもなければ制止する隙もない。
「あ、え、ちょっと」
「いやいや、見れば分かりますので」
「困ります、玄関でお待ちください、私が」
「いやいやいや、先生には何度もお世話になっておりますので書斎の場所も分かります、お気遣いなく」
「ちょっと、待って」
 止めようと伸ばした手が谷口氏のぐにゃりとした肩に触れてしまい、反射的に手を引っ込めてしまった。谷口氏はこちらの声を無視して、いやいや、いやいやいやと連呼しながらずかずか廊下を歩いていく。
「ほんと、ちょっと、困ります」
「ほんとうにお構いなく。家系図が見つかり次第すぐに帰りますので」
「見ず知らずの方を上げるわけにはいかないんです」
「先生はご存知ですから」
「今この家を預かっているのは私で」
「いやいや、いやいやいや」
「書斎には誰も入れるなと伯父に」
「私は何度も入っておりますので」
 日本語が通じない。まさか赤の他人を羽交い絞めにして放り出すわけにもいかず、ただ思いつく限りの口実で以て引き留めようとしたのに、谷口氏は私の言葉などそよ風程度にしか感じないのだろうか、丸々とした体形に見合わない早足ですたすたと廊下を進んでいき、階段前で一瞬だけ足を止めた。
「おや、お取込み中でしたか。わんちゃんですか。元気な子ですねえ」
 知らないうちに先生もペットを飼われたんですね。私、犬は大好きです。二階にいるのかな。
 谷口氏の猫撫で声を聞いた瞬間、背中一面に鳥肌が立った。そうだ、失念していた、二階には治五郎がいる。谷口氏の足元には餌皿の残骸が転がったままで、階上からは微かに、ぱたぱた、ぱたぱたと、落ち着かない足音がしている。せめて私が先に上がって、治五郎を奥の部屋へ隠さなければならない。身内以外の、知らない人間を見たら、治五郎は間違いなくパニックを起こすだろう。図体のわりに繊細で、傷付きやすい子なのだ。だから、もうこの無礼な男が他人の家の中をずかずかと歩き回るのは百歩譲って諦めるとしても、せめて私が先に二階へ上がりたかった。しかし、日頃の運動不足がここで祟ったのと、谷口氏の動きがあまりに俊敏だったのがいけなかった。駆け寄ろうと踏み出したのとほぼ同時に、満面の笑みを浮かべた谷口氏は、餌皿の破片を軽々と飛び越え、とたとたと軽快な足音で以て階段を上り始めてしまったのだ。
「や、駄目ですほんとうに、待って!」
 私が先に行きますから! 久しぶりに上げた大声は滑稽なほど上ずっている。階段前へ辿り着いたときにはすでに、谷口氏の背中は踊り場の暗闇に半分呑まれており、不格好な洋梨のような後ろ姿は、いやいや、いやいやいやと上機嫌な声を上げながら残り半分を上るべく曲がっていって、見えなくなった。
「ああ……ああ……」
 絶望感で、しばらくなにもいえなかった。口からは意味不明な音が出るばかりで、階段を駆け上って彼を止める元気など残っていなかった。階上からはしばらく、いやいや、いやいやいやと小さな呟きとともに、床が軋むギイギイという音が微かに聞こえていたのだが、不意に、おや、という嬉しそうな声がして、それと同時に厭な予感に襲われた私は、次に聞こえてくるであろう大音響に耳を塞いだ。
 直後。
 ──ぎ、ぐやあああああ。
 野太い叫び声が上がった。家全体が揺れたのではないかと錯覚するほどの大声だったが、恐らくそれは私の幻覚で、実際に震えていたのは私と私の鼓膜程度のものだったのだろう。いや、谷口氏も震えていたかもしれない。見ていないから分からない。ともかく、一瞬誰の声なのか判断に困るほど、そもそも人間の叫び声と気付けないほどの大絶叫が家じゅうに響いた。
 そのすぐあとに、どすどすと、運動のできない人間が全速力で走るときの音によく似た足音が、私の頭上を斜めに走り抜けていく。そのあとを、がしゃん、がらん、ばたん、ごろごろ、と、聞いただけで涙が出そうな音が追いかける。自分の全身から血の気が引いていくのが分かる。貧血持ちであったら床に倒れていてもおかしくない気分だった。絶望感が半端ではない。額にてのひらを当てて項垂れている間にも、ぎゃあ、なんだおまえは、ばけもの、たすけて、ころされる、そんな裏返った、獣のような叫びが切れ切れに上がった。
「だから言ったのに……」
 思わず呟いた、その直後。上がっていた野太い悲鳴が裏返った金切り声に変わる。治五郎に飛び掛かられたに違いない。いくら俊敏だからといっても所詮は中年男に過ぎず、そんな中年男が、恐慌状態に陥った治五郎に追いかけられて逃げ切る方法なんて、自動車でかっ飛ばすくらいしかない。当然想像の範囲内の結果だった。あの粘っこい猫撫で声が懐かしくなるくらいに憐みを誘う悲鳴だった。きいいいい、きいやああああ、っごごごごごごごぎぎぎ、子どもの頃毛布に隠れながら観たSFパニック映画に出てきた、蠅型エイリアンの威嚇の声によく似ている。現実逃避のように回想に浸って、不意に我に返った。さすがにまずい。それ以上はいけない。
「治五郎、めっ! ぺっしなさい、ぺっ!!」
 内心、二階の惨状を見るのはできるだけ先延ばしにしたかったから、階段前に立ったまま、張り上げられるだけの声を張り上げた。それでもなお、ききゃきゃきゃきゃよあああ、っごごご、ぎぎぎゃあああああああ、そんな声は続き、治五郎に振り回されているのだろう、どがん、ばたん、がっしゃん、という心底泣きたくなるような騒音が続く。なおも声を張り上げながら、仕方なく階段を上がろうと最初の段に足を掛け、そこでふと思いついて、試しにこう怒鳴ってみた。
「治五郎、いい加減にしないと今日のツナ缶抜きにするよ!」
 その直後、ぐぎ、という不穏な音を最後に、二階は少しの間、それまでの騒ぎが嘘のように静まり返っていた。都合のよい幻聴だろうか、微かにふすふす、きゅうきゅうと、治五郎の同情を誘う鼻息が聞こえてくるような気がする。それから一拍置いて、うううう、ああああああ、地を這うような呻き声と、ずるずるとなにかを引きずるような音がして、ある瞬間を境にその声は、っぎゃああああ、というもとの大絶叫に戻った。続いてどったどた、と足を庇うかのような覚束ない足音が響き渡り、再び厭な予感に襲われた私が階段から身を引くと同時に、踊り場の暗闇に大きな洋梨のようなものが降ってきた。
「あああ、ああああああああああああああ」
 一瞬なにか分からなかったが、よくよく目を凝らしてみると、どうやら谷口氏であるらしい。這いずるように明るいところへ顔を出した彼はというと、もともと心許なかった毛髪は六割がた引き抜かれたらしく、頭部のいたるところから細く出血していて、おまけに咥えられたはずみで呑み込まれかけたのだろう、首一面から治五郎の涎と思しき黄身がかった液体がぼたぼたと滴り落ちている。首もなんだかおかしな方向に曲がっている。胸のあたりには治五郎の下の歯の跡がくっきりと残って、服にはその歯型の通りに穴が開き、そこから覗く皮膚もなんだか紫がかっているから、おそらく何本か折れていた。
 階段のいちばん上から転がり落ちたのだろうに、谷口氏は痛みに悶える様子もなく、家まで共振するのではないかと想像してしまうほどがたがたと体を震わせて、私のほうをじっと見ていた。それから、声もなく這いずって、上の段から私のいる床まで、腹をクッションがわりにずるずると滑り落ちてきた。立ち上がる気力も残っていないのだろう。自業自得とはいえさすがに可哀想になった。落ちてきた谷口氏は無論腹だけで急停止することも出来ず、床に散らばったままの餌皿の破片をまきあげながら正面の壁に激突して止まる。破片で切ってしまったらしく、腹の下に小さな血だまりができていくのが見えた。
「……谷口さん? 大丈夫ですか」
 おそるおそる声を掛けた。飼い主としての責任を糾弾されるかと思って覚悟していたのだが、谷口氏は俯せに床へ貼り付いたまま、舌をだらしなく出して黒目だけをぎょろぎょろと動かしている。私の声が聞こえていないのだろうか。仕方なくぬろぬろとした肩口へ指で触れた。
 その途端に、あがあああああ、おっおごごごごおご、敢えて文字に起こすならそんな感じの、よく分からない声を上げ、谷口氏は海老反りに跳ね上がった。背筋がしっかりしているのだな、と呆気に取られる間もなくすくりと立ち上がった彼は、焦点の合わない目で私を見つめ、もう一度けあ、けああああぐぎぎががが、と甲高い声を上げ、そのまま私に突進してきた。反射的に飛びのくと、そのままリビングのほうへ突進していく。これ以上家を荒らされてはたまったものではない。そんなべたべたした格好で歩き回ってほしくないという一心で、反射的に腕を掴んでしまった。
「待って、そっちはリビングです」
「う、うっごご、うごごごごごごご」
 すでに相当傷んでいたのか、掴んだ瞬間に付け根のほうからなにかが千切れるような厭な音がしたが、谷口氏は特に痛がる様子も見せず、引っ張られるままに体の向きを変えて、先程までの俊敏さにさらに輪を掛けた敏捷さで、玄関のほうへ走り出した。彼の体から変なにおいの液体が飛び散るのを見てしまってぎょっとしている私を残して、谷口氏は相変わらず奇妙な声を出しながら、大きな音で玄関のドアにぶつかりつつ、真昼間の外へ飛び出していく。珍しい鳥の鳴き声のような音がみるみる遠ざかっていくのを聞くともなしに聞きながら、私はただ、その場に呆然と突っ立っていることしかできなかった。

 どれくらいの間そうしていただろう。近くから聞こえる、ふすふす、という鼻息でふと我に返った。日が傾いている気配もないから、呆けていた時間はそう長くなかったのだろう。音のするほうへ目を遣ると、踊り場の暗がりからこちらを窺っている治五郎の、ふさふさとした頭の一部が見えた。頭の中に掛かっていた靄のようなものが少しずつ晴れていく。それから、自分のまわりから異臭が立ち上っていることに気付いた。谷口氏が残していったいろいろから発生しているのは明白で、私は一度、小さくため息をついてから、治五郎に微笑みかけた。
「大丈夫、怒ってないよ。びっくりさせてごめんね」
 諸々悲しくはあるのだが、怒っていないのは事実である。間違いなく引き攣った笑みだろうが、それでも心の底から笑った。治五郎は憶病な子なのだ。愛情があるかどうかはすこぶる微妙だが、大切に想っていないわけでもない。元はといえば私が不用意に赤の他人を家に入れてしまったのが悪いし、治五郎は突然テリトリーを侵してきた不審な存在に必死で立ち向かっただけなのだ。治五郎を責めるのはお門違いだった。
「ごめんね、先にこっち片付けさせて。上はあとでいくから」
 少し居心地悪いだろうけど、治五郎は上にいて。私の声に、治五郎はつぶらな瞳でじっと私を見つめてから、きゅう、と喉を鳴らし、体や頭を踊り場の壁にぶつけながら方向転換し、とぼとぼと階段を上がっていった。相当落ち込んでいる。
「ほんとうに怒ってないんだよ、さっきは怒鳴ってごめんね」
 あまりにも弱々しい足音に不安になり、尻尾の毛が消える寸前に声を掛けた。これは後で目一杯甘やかしてやらないとだめそうだ。このままだと確実に尾を引く。今晩はツナ缶のほかに蜜柑もつけてやろう。この間切らしてしまったからあとで買いにいくとして、その前にこの汚い床をどうにかして、階段も拭いて、二階も片付けて。なんだかさっきから肌寒いのは、おそらく二階のどこかの窓ガラスが割れているのだろう。業者は明日呼ぶとしても今日は治五郎をどこで寝かせようか、そもそも谷口氏もれっきとした被害者なのだから菓子折りのひとつでも持参しなければならないだろうし、ああでも住所を知らない、通院費もこちらが負担すべきだろうか、保健所に連絡されてしまったらどうしよう──。
 考えることが多すぎてもういっそ笑えてくる。すべてがどうでもよくなってきて、大声で笑いながら、とりあえずは素麺を茹でようと、私はキッチンへ足を向けた。伯父にも連絡しないといけないだろうし、あまりにも踏んだり蹴ったりだと思う。伯父の怒鳴り声を思い出して二の腕に鳥肌を立てながらげらげらと笑い、えずくほど私は笑い続けた。やはり人間は愛玩動物の奴隷だ。


初出:同人誌『パラドックス』(落花流水、2019年、第28回文学フリマ東京にて頒布)


ほんとうにありがとうございます。いただいたものは映画を観たり本を買ったりご飯を食べたりに使わせていただきます。