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【短編小説】喝采

 拍手の音が聞こえる気がする。ひとりで階段脇の受付に座っていると、ときおり踊り場のほうから、ぱらぱら、というか、がらがら、とでもいおうか、そんな音がする。はっきりと、ああ、これは拍手だ、そう確信できるわけではないけれど、なにかに例えるならそれがいちばん近いように思えて、誰か来たのかと階段へ身を乗り出し見上げてみても、たいていそこに人影はない。足音にしてはずいぶんと大きく、なにかを落としたにしては軽い音が、ぱらぱらと雨音のようになんの前触れもなく鳴る。無論雨音ではない。このテナントは地下二階で、実際に大雨が降っているときでも、その雨音がここまで届いたためしはなかったから。
「ああ、きっと水道管の音ですよ」
 ふと思い出して訊ねたとき、なんてことのないように店長が答えた。なかの水が管にぶつかって鳴るんだろうね、うえはラーメン屋ですから、とにこにこしていたのを憶えている。店長は私がどんな失敗をしても、頓珍漢な疑問をぶつけても、決して声を荒げたり馬鹿にしたりするようなことはなかった。一瞬驚いたように目を見張って瞬きをし、それから小さく噴き出して笑う。ころころと屈託なく笑うので、嘲笑なんてものにはとうてい思えず、なんというか、いいのか悪いのか、反省しようにも罪悪感がうまく湧かなかった。店長のそんなところが好きだった。それまで会ったことのない人種だった。おそらく、これからも会うことはない。

 ごくごく小さな劇場だった。チケット関係はすべて店長が取り仕切っていたし、きちんと数えたこともないのではっきりしたことは分からないが、百席ほどしかなかったのではないだろうか。たぶんこの地下自体、もともと小劇場としてつくられたわけではない。満足な音響設備もなく、照明もなく、演劇の素人な私から見ても明らかに粗悪な劇場だ。おまけに椅子も、最前列は妙にお手製感の漂う木製のベンチ、それ以後の列はすべて年季の入ったパイプ椅子で、大半は座面の割れ目から薄汚れた黄色い綿のようなものがはみ出していた。私なんかは、こんなお粗末な設備ではいつかクレームが入るのではないかとびくびくしていたのだけれど、アルバイトとして在籍していたおおよそ三年間、私の知る限り一度もそういったことはなかった。店長はというと、まあ仕方ないよねえ、うちは貧乏ですからね、とやっぱりころころ笑った。店長が気にしていないならまあいいかと思った。
 そこの詳しい成り立ちを私は最後までよく知らないままだった。分かっていたことといえば、店長は「オーナー」と呼ばれている人物に雇われた人であること、そしてそこがあまり儲かっていないこと、そのくらいだった。オーナーには一度だけ会ったことがある。アルバイトの面接を受けたとき、じゃあとりあえず明日からよろしくお願いしますね、と微笑む店長と握手をして、バックヤードを出たところでちょうど階段を下りてきたオーナーと出くわした。妙に高そうなグレーのスーツを着た、金縁眼鏡の初老の男性だった。否、もしかしたら眼鏡ではなくてサングラスのたぐいだったのかもしれない。今となってはもう分からない。地元では見たことのないタイプの人だったから一瞬怯んだけれど、印象よりもずいぶんと気さくで、店長の紹介とともにぎくしゃくと頭を下げた私に、おお、よろしくお願いしますよ、と明るい声で言った。そのあとすぐに地上へ出たので、オーナーがなんのために劇場へ足を運んだのかは知らない。けれどそれ以降もときおり、閉館後のバックヤードで、電話越しにオーナーらしき人へ声を荒げている店長を見る機会があったから、なにかと大変だったのだろうと思う。そんなときの店長は普段とは違い笑顔など浮かべておらず、眉間に浅く皺を寄せ、大声とはいかないまでも鋭い声で話しかけながら、左手の指でこんこんと机を叩いているのだった。そうして、バックヤードの入り口でそわそわしている私に気付くと、申し訳なさそうに目だけで苦笑して、もう上がっていいよ、といったふうにひらひら手を振る。ふた月に一度くらいはそんな日があった。
 儲かっていないことはたぶん、そこに一度でも足を踏み入れれば誰にでも分かっただろう。パイプ椅子から飛び出した綿もそうだし、それはキャパシティの少なさにも関わらず常に閑散としている客席であったり、暇そうに受付で文庫本を読んでいるアルバイトの私の様子であったりして、さらに何度か通ってみれば、一向に品揃えの変わらない物販も、その予測を裏付ける証拠のひとつに追加されたに違いない。物販、といっても、劇場独自のグッズがあったわけではない。過去に公演をした劇団の売れ残りのパンフレットや、懇意にしている貧乏劇団の委託グッズなどがいくつかあるだけだ。それも明らかに安っぽいつくりの缶バッジだったり、ただ劇団の名前が印字された手拭いだったりして、とうてい売れ行きは見込めそうになかった。また、公演があるときには、そのときどきの劇団の委託グッズがさらに物販に増え、いつも通り売れ残り、劇団のほうでも在庫を持て余しているものだから回収せずにそのまま陳列しておくことを選び、店長のほうでもいつまで経っても送り返そうとしないものだから、受付横の物販棚はどんどんものを溢れさせていって、私の定位置である受付机にまで雪崩れてきて、どんどん私の居場所は狭苦しくなっていくのだった。

 私の勤務時間はたいてい夕方から夜で、講義のない休日に昼公演が入っているときは、昼の間だけ、あるいはその後の夜公演が終わるまで昼食持参で居座っていることもあった。
この地下の寂れた小劇場が好きだった私にとっては、下手をすると十時間ほどになろうかという勤務もまったく苦ではなかった。いや、そもそも仕事などあってないようなもので、店長はバックヤードでどこかへ電話をしたり、帳簿らしきものを見つめて険しい顔をしたりしていて、恐らくは私が勤務していない間も絶えず公演をする劇団と打ち合わせをしたり、諸々の手配をするなど忙しく働いていたのだろうと思うのだが、単なるアルバイトである私の仕事といえば、劇場の掃除やときどき湧き出る黒光りの害虫の駆除、開場すればチケットのもぎり、ときどき電話の応対や物販対応で、公演が始まってしまえばあとは途中退場していく客を目で追って、ほかの時間は持ち込んだ文庫本を読み、出された課題をこなしていても店長含め誰にも咎められない。店長のほうでも、公演の時間はバックヤードから出てきて、公演が行われている会場へ入ってみたり、そうかと思えばすぐに出てきて物販の在庫を指折り数えて、手が空けば私の傍らへやってきて私が向き合っている課題を覗き込んで感心したようにふんふん鼻を鳴らしたりした。私はそんな店長の気ままな行動を視界の隅で追いかけ、ときおり踊り場のほうでぱらぱらと鳴り出す例の音に耳を澄ませた。店長が傍らに立ったときには、特に手を止めることもせずそのまま課題を続け、店長がなにかを話しかけてきたときには簡単に応えるなどした。私の返答を聞いてまた店長はふんふんと鼻を鳴らしながら頷いて、しばらくそのまま眺めている日もあれば、またふらふらとバックヤードへ戻っていく日もある。不思議と店長が傍で見ているときは、課題の進みが早かった。店長がなにかアドバイスをくれるわけでもない。けれど居心地が悪いと思ったことは一度もない。店長がいなくても、下宿先で机に向かっているときよりは、受付机の狭い空間に身を縮めて、座り心地のすこぶる悪い丸椅子に腰かけているときのほうが、何倍も集中力は続いたし、何倍も良い内容のレポートが仕上がった。階段のいちばん下、その脇の暗がりはいつも黴臭く、視界の隅の床を害虫が通り過ぎるたび作業は中断されたけれど、それでも苛立ちは一切感じないのが自分でも不思議だった。

 劇場を借りる「お得意様」はほとんどの場合、学生の演劇サークルであったり、同好の士で結成されたごく小さな規模の劇団で、借りる期間も最長で五日といったところである。固定客もほんのひと握り、それは劇団のリピーターである場合もあるし、劇場自体のファンも有難いことに幾人かいた。チケットをもぎる私に軽く声を掛けてくれる人の良い老人や、おそらくは店長と話すことが好きなのだろう若者や勤め人の顔をいくつか憶えている。
 たいていの公演では、客席が半分埋まればいいほうだった。八割近く埋まると、ただでさえ明るい店長が明らかに上機嫌そうに見えるので嬉しかった。受付の目の前、短い廊下の突き当りに年季の入った木の扉があり、そこに入ればステージだ。打ち合わせや公演前のリハーサルには店長も同席したが、一度公演が始まってしまえば、音響も照明も、劇団の担当者がどうとでもするので私たちの出る幕はない。すべての客が入って、ステージへ続くドアが閉められると、受付にいる私には役者の張り上げている声と、ときおり客のまばらな笑い声、そしてわざとらしいサウンド・エフェクトが薄い膜を通したような、まるで夢を見ているかのような頼りなさで届いた。
 こんなアルバイトをしているくせに、私は演劇というものにほとんど興味がなく、映画すら一年に一度観れば良いほうだった。だから、どんな公演が行われているのか、演じている役者はどんな人物なのかなど、受付の狭いスペースに乗せたチラシにある情報以上のことはなにも知らない。けれど楽しいものなのだろうな、とは漠然と思っていた。廊下の奥の、扉の向こうで、私の知らない楽しい世界が今まさに繰り広げられているのだと、そう考えただけで心が休まった。
 店長もそんな私のある意味での無関心さを承知していたから、課題を黙々とこなし、古本屋で見つけてきた今にも崩れそうなぼろぼろの文庫本を読んでいる私に、演劇の話を振ることはほとんどなかった。こんな仕事をしていたくらいだから、少なくとも私の数倍は演劇に精通していたろうし演劇への愛情も持ち合わせていただろう。そんな店長は課題に取り組む私の横に立って、私と課題の用紙、そしてステージへの扉をゆっくりと見比べるのだった。
 ときどき私の課題が早く終わって、そんなときに限って本の持ち合わせがなく時間を持て余していると、店長は軽い足音を立てながら受付へとやってきて、扉の向こうへ聞こえるわけでもないのに、ひそやかに声を掛けてくる。
「おひまですか」
「はい」
「見てきたらどう? 今回の劇団さんはわりといいところですよ」
 おすすめです。掠れた声で悪戯っぽく言う。店長にそう言われて断る理由はないから、有難く受付を任せて、扉の向こうへ行ってみた。古い蝶番が軋まないよう慎重にドアノブを引くと、途端に遠い世界のものだったはずのありとあらゆる音声が直に鼓膜へぶつかってきて、私は思わず体を竦ませる。突然他人事から自分事に変わったいろいろに動揺する。薄暗い劇場のなかで舞台だけが黄色く発光している。否、よくよく目を凝らせば、私の入ってきたドアのすぐ脇、青白い光のなかで、小太りの若者が大きめの体を窮屈そうに縮めてミキサーに指を這わせていた。ミキサーと舞台を交互に見比べては、左手に持った台本へほんの一瞬視線を落とす。
 私は、空席の目立つ客席には座らず、ミキサーのあるほうとは反対の壁際のいちばん隅に体を寄せるのだった。黄色く光る舞台のまえには薄い暗闇。そのなかにぼこぼこと、影になった頭が突き出している。舞台のうえには女性と男性がひとりずつ立っており、無論ストーリーなど分からない。女性は半泣きで、男性は怒っている。ああ、女性が男性に掴みかかった。男性が女性の頬を張る、ふりをする。びし、という鋭いサウンド・エフェクト。少しタイミングが遅かったような気もする。女性が悲痛な声で男性を詰る。客席はしんとしている。役者の声だけが暗い空間に満ちていて、私はしばらくそれを眺めてから、足音を立てないようにドアへ歩いた。外の光が劇場のなかへ入らないように、できるだけ細く開いた隙間に身を滑らせる。
 後ろ手にドアを閉める。こちらに迫ってくるような大きな音は、ドアの閉まる音と、どうしても殺し切れなかった軋みの音のあと、またもとの薄くなにかを通したような遠い世界の音へ変わって、私はそれに安心するのだった。そうして顔を上げると、短い廊下の向こう、満足とはいえない照明の下、受付の机に、店長がぽつんと座っている。
「あまり好きじゃなかった?」
 責めるでも、残念そうにするでもなく、いつものように店長は訊ねて、私は、よく分からなかったんです、でもすごいなと思いました、というような、中身のない回答をする。そうすると店長のほうでも、そっかあ、とのんびりと答えて、私に場所を譲るように受付から立ち上がるのだった。
「座長さんからクッキーもらったから食べよ。高そうだったからきっといいとこのやつですよ」
 別にいいって言ってるのにねえ。店長がまた軽い足音を立ててバックヤードへ戻っていく。私は店長が座っていた丸椅子へ入れ違いに座って、なにに疲れたわけでもないのにため息をつくのだった。ドアの向こうから漏れ聞こえてくるくらいで私にはちょうどいい。天井を仰ぐと黄色い裸電球がゆらゆらと揺れていて、ふいに、階段のほうからいつもの、ぱらぱらという拍手の音が鳴る。私ひとりのときに限って鳴るのだ。壁一枚隔てたくらいのくぐもった音で、ぱらぱら、ぱらぱらと鳴った。

 私が勤めているおおよそ三年間で、お互いの公演チラシを置き合っていた小劇場が三軒廃業し、私のいた劇場で公演をしたことのある小劇団がふたつ解散した。解散した小劇団のうちひとつは解散公演をうちで上演し、その日私はアルバイトに入っていた。
 昼夜二公演を三日間行って、私が勤務できたのはその初日公演の夜と、最終日の夜であったのだが、どちらの公演も客は二〇人に満たない程度で、もぎりはあっという間に終わったし、公演中に聞こえてくる扉の向こうからの音も、いつもに比べて小さめだったように思う。最後にまばらな拍手の音が微かに聞こえ、しばらく経ってドアが開き、役者たちが観客を見送るために私のいるほうへ駆けてくる。階段の両端に並んで、帰っていく客を満面の笑みと大きな感謝の声で見送った。私もいつものように、受付の前を通る客に向けて、ありがとうございました、ありがとうございました、とほどほどの声で繰り返した。物販で立ち止まる人も、こちらへ顔を上げる人もいない。役者の張り上げる、ほんとうにありがとうございました、の声に立ち止まる様子もない。顔を上げる人もないまま、二〇人ほどの観客は列をなして階段を上っていき、すぐにその列は途絶えて、あとは生気のない足音の群れが地上一階のほうへ遠ざかっていった。
 役者は皆笑みを崩さなかった。客がすべて帰ってしまって受付前が静まり返ったところで店長がバックヤードから出てきて、いやあお疲れさまでした、と微笑む。座長であるらしい中年男性もにこやかに店長へ頭を下げ、おかげさまで、と応じる。座長に続いてほかの役者や、遅れて出てきた裏方たちも口々に礼を言う。店長の目配せで、私はいつもの通り劇場の掃除へ向かった。モップや箒、ちりとり、ごみ箱など一式を抱えて劇場に入り、後ろ手にドアを閉める。店長と座長の会話が遠くなり、内容などまったく聞き取れないささやきのような音を聞くともなしに聞きながら、私は黙々と席の間を歩き回った。
 誰もいなくなった劇場はすでに煌々と電灯がともっていて、先程までなんらかの物語が繰り広げられていたとは思えなかった。客自体少なかったせいかごみの類いもそこまで落ちていない。幸い忘れ物も見当たらなかった。公演のチラシが数枚、床や椅子のうえに置き去りにされていた。最初の一枚を手に取ってしげしげと眺めてからごみ箱へ放り込み、残りの数枚は手に取ってすぐごみ箱へ収めた。
 ひと通りの作業を終えて劇場を出たとき、受付前にはすでに誰もおらず、人の気配も感じられなかった。訝しく思いながらバックヤードへ向かうと、店長と座長の男性が、向かい合わせにパイプ椅子へ腰を下ろし、落ち着いた声音でなにやら話し込んでおり、私の気配に気付いたのか、こちらに背を向けていた座長のほうが振り向いて、力なく微笑み、アルバイトさんもありがとうございました、と言った。
「ほかの皆さんは」
「ひと足先に帰りましたよ。このあと打ち上げなんだって。ね」
 盛大にやらなくちゃね。ほんの少し目元に寂しさのようなものをのせて、店長が座長へ言う。座長は小さく声を上げて笑った。
「そろそろ僕も行きますよ。もうみんな出来上がってんじゃないかな」
「そうだねえ。主役は遅れて登場するもんだからね」
「そんなたまじゃないよ。じゃあ」
 座長が立ち上がる。店長も立ち上がり、差し出したその手を座長がゆるやかに握った。
「ここでいいよ」
「お見送りしますよ」
「寂しくなっちゃうだろ。お世話さまでした」
 お元気で。ふたりがほとんど同じタイミングで言って、苦笑したのち、手が離れる。バックヤードの入り口に立ち尽くす私にも微笑とともに頭を下げて、座長はすたすたと、階段のほうへ見えなくなった。
「じゃ、今日もお疲れさまでした。上がっていいよ」
 店長に言われ、私も荷物をまとめて一礼する。店長はひらひらと手を振って、私が視線を逸らし切るまえのほんの一瞬、表情を消して両手で顔を覆った。ように見えたのだ。しかし私がそれに気付き、振り返ろうとしたときにはすでに、バックヤードと外を仕切る薄いカーテンは閉じてしまっていて、わざわざまたそれを押しのけて店長の様子を窺うのは気が引け、私はなにも見なかったことにして階段のほうへと歩いた。
 受付横まで来たとき、いつもの拍手の音が聞こえた。ぱらぱら、ぱらぱら、ぱらぱら。なんだかいつもより長い気がする。特に気にすることもなく受付横をすり抜け階段へ向かい合ってから、足を止めた。見上げた先、踊り場に、人影があったのだ。座長だった。
 座長は、こちらに背を向け、踊り場の天井を見上げ、身じろぎもせず立っていた。そんな彼を取り囲むように、ぱらぱら、ぱらぱら、軽く細かな音がする。天井からなのか、壁からなのか、その辺りから私のほうまで、あの音は一定のリズムを成して流れてくる。
 座長の表情はもちろんこちらからは見えなかった。彼はただそこに直立し──ふいに、大きく両手を振り上げ、左腕は胸の前へ、右腕は大きく下方へ振り下ろし、そのままゆっくり、深々と、一礼した。
 ぱらぱら、ぱらぱら、拍手のような音は止まない。座長はゆうに十秒間はそのまま動かなかった。ぱらぱら、ぱらぱら、ぱらぱら。拍手のような音は彼の周囲を取り巻いて、ただひたすらに鳴り続けた。
 私はというと、たっぷり十秒間ほどそんな彼の背中を見つめ、ふと我に返って、なかば反射的に、受付横の、物販の棚の陰へ身を隠した。私のほうから彼は見えないし、彼のほうからもわたしは見えないはずである。ぱらぱら、ぱらぱらという音はそれからも数秒間続き、ある瞬間に徐々に遠ざかっていって、水が流れていくようにフェードアウトしていった。音がしなくなってから少しして足音がし、それも遠くなり、その足音が完全に聞こえなくなってから改めて身を乗り出したときには、踊り場には誰もいなくなっていた。

「寂しくなっちゃったなあ」
 みんな辞めちゃいますね。ある日出勤した際に、挨拶も早々に店長が言った。悪戯っぽい笑顔だった。通話自体は終わっているのだろう、固定電話の受話器を持ったまま、椅子の背凭れに深く凭れかかっていた。そんな店長の格好を見るのは初めてだったように思う。店長の視線は私に向いていなかった。
「まあそうだよねえ。はやんねえもんなあ」
 茶化すような口調で歌うように言う。私がなにも言わずにいると、よいしょ、という掛け声とともに軽やかに立ち上がる。受話器を置く音が大きく響いた。たしか、この春で卒業でしたよね。無論私に訊ねたのだろう。頷いた。
「ねえ、別にいますぐ答えてくれなくてもいいんですが」
 店長がくるりとこちらを向いた。とても真剣な顔をしていた。私も、伝えねばならないことがあったから、姿勢を正して向かい合った。
「卒業したらうちで働いてくれませんか」
「三月で辞めさせてください」
 家業を継ぐという約束なので。店長が言葉を接ぐまえにひと息に言い切った。
 店長は、驚くでもなく、怒るでもなく、悲しそうにするでもなくその表情のまま動かず、そうかと思うと、にっこりと、私の大好きだった顔で笑った。
「最初っから言ってたもんね」
 分かりました。三月まで、どうぞよろしくお願いします。いつもの声色で頭を下げる店長に、一拍置いて、私も一礼した。暖房も入っていない、バックヤードの空気が身に染みた。

 一度だけ、最初から最後まで、ひとつの公演を観たことがある。最後の客が劇場へ入り、店長が扉を閉めようとやってきて、受付に座って課題を広げようとした私に珍しく声を掛けてきた。
「一度しっかり観てみたらどうですか。観たことなかったですよね」
 今日の、いつもと少し系統違うところですから、いつものよりは肌に合うかもしれませんよ。もちろん強制はしないけど。強制でなくとも、店長にそう提案されて断る理由がない。受付に入る店長と入れ違いで劇場へ入り、ドアを閉めた。
 九〇分ほどの物語だった。最後列の一番端に座り、ぼんやりとステージを見つめた。音が鳴り、登場人物が動き回り、会話をする。照明の色が変わったり消えたり、そしてまた点く。
 苦痛だった。物語など頭に入ってこなかった。違う。没入しそうになるたびに、私の頭の後ろのほうをなにかが引っ張ったのだ。比喩であってほんとうに引っ張られたわけではない。けれど引っ張られ、そのたび私は物語の一部から、元の部外者に戻った。それが何度も何度も続いた。部外者に戻るたびに、まるで自分が世界の一部になっているかのような錯覚を起こしていたそれまでの私に気付き、嫌悪感に苛まれた。だから出来るだけ細部を観察しようと思ったのだ。役者が噛んだとか、今の音響はタイミングがぴったりだったとか、この場面でこの照明は些か明る過ぎるのではないかとか、そんなことを考えようと努めた。物語が終わり、周囲から割れんばかりの拍手が起きて、それと同時に私はドアへ走り寄り廊下へ出た。視界の隅に、ステージのうえに一列で並び客席へ深々と頭を下げる役者たちが入り込んだが、ドアが閉まる案外大きな音とともに見えなくなった。
 受付では店長が、驚いた顔で私を見ていた。よろよろと歩み寄る。ありがとうございました、代わっていただいて。声を掛けても目を丸くしていたが、その目がいたずらっぽく細められた。
「どうでした、初めての演劇は」
「うまくわかりませんでした」
「そっか」
「集中できなくて」
「なるほどですね」
 ふふ、と微笑んで立ち上がりながら、店長がこてん、と首を傾げる。
「主人公の子どうでした。あれ高校の後輩なんだよ」
「ええと、皆さんすごかったです、堂々としていて」
「うんうん、ありがと、伝えておきますね」
 明るい笑顔で言って、いつもの通りバックヤードへ戻っていってしまう。
 私は受付へ座り直して、ドアを通して聞こえてくる、未だ鳴りやまない拍手の音に耳を澄ませていた。遠いところで起こることなら安心して聞いていられた。私はそこにはいないし、何事にも心を乱さずにいられる。拍手が少し落ち着いて、最初の客がドアの向こうから出てくるまで、そうして耳を澄ませていた。

 それまでよりも少し薄目の封筒を恭しく受け取ると、店長も少し楽しそうな顔をしながら大袈裟に頭を下げた。バックヤードは相変わらず寒い。店長の頬も少し赤いような気がした。電気ストーブ買ってくださいね、と言うと、でもひとりだしねえ、と眉尻を下げる。あまりにいつもと変わらない帰り際だった。
「ご実家、北のほうでしたよね。寒そうだなあ」
「昨日電話したら、つい一昨日また降ったと嘆いていました」
「あら、そりゃ大変だ。お気を付けて」
「慣れてますから」
「そりゃあそうだ、地元ですもんね」
失礼しました。ぺろりと舌を出して店長が笑う。物販の棚は相変わらず在庫でいっぱいだったが、劇団ふたつ分の在庫はいつの間にかなくなっていた。誰も座っていない受付に一瞬足を止めてしまいそうになって、けれど止まってしまったら後ろから歩いてくる店長がぶつかってしまうと思い、そのまま通り過ぎた。
 階段の一段目に足を掛けてから振り向いて、改めて深々を一礼した。店長は、今度は頭を下げる気配もなく、私の後頭部をじっと見下ろしているようだった。
「お世話になりました」
「こちらこそ。がんばってください」
 今になってみれば、どうしてあのときお互いに、また来させてくださいとか、近くに来たら寄ってくださいとか、そんなことを言わなかったのだろうと思う。分からない。ともかく私は店長へ背を向け、踊り場までは順調に歩を進めたのだ。
 そこで、拍手が鳴った。
 いつものあの音が四方八方から鳴った。ぱらぱらと、間違いなく鳴っていた。ああ、拍手だと思った。何度も聞いたあの音が私を取り囲んで、ぱらぱら、ぱらぱらと鳴る。
 足を止めて振り向いた。店長は私を、無表情にじっと見上げていた。店長のいるあたりから、まるで大きな波が迫ってくるかのように、ばらばら、ばらばらと轟音がした。拍手の音に相違ない。地響きにも似た振動を伴って私へと押し寄せる。店長は、見下ろす私をじっと見つめ、ふいに、ぴん、と両手を上げた。天井まで真っ直ぐに、指先まで伸ばし、一拍置いて振り下ろした。左手は胸元へ、右手は緩やかに弧を描いて、そうして体を折り曲げる。あれほど美しい一礼を私は見たことがなかったし、おそらくこれからも見ないだろう。崩れ落ちるのではないかと思うほどの音をその身に受けて、その人は私へ、深々と頭を下げた。裸電球の黄色い光に浮かび上がって、背後に闇を従えながら。
 どれだけそれを見ていただろう。地鳴りにも似たその音は一向に止まない。私はもう二度と見ることはないであろうその背中と、重力に従って床へと垂れた髪の流れを目に焼き付けた。それから、鳴り止む気配のない喝采に背を向けて、地上へ上っていったのだ。私の出番はそこで終わった。

初出:同人誌『一水四見』(落花流水、2019年、第29回文学フリマ東京にて頒布)

ほんとうにありがとうございます。いただいたものは映画を観たり本を買ったりご飯を食べたりに使わせていただきます。