「我思うゆえに我あり」

後手なニンゲンは気温に降り回されるね(笑)

思考は宝なり。
思考するという得意技を与えられた人間だからこそ
しっかりと、常に脳を動かせいておくことって大切ね~

って、どうでもいいが(笑)

よくわからない言葉集として、二個。
一つが「じぶんをしってらしくなれ」
とタイトルの
「我思うゆえに我あり」だ。

で、時々腑に落ちては、またこれらについて脳みそは駆け巡るのであった(笑)

今回大きく気づいたのは「わたし」を私だと定義付けている「わたし」って自由自在に描けるんだってこと。

誰に気兼ねすることもなく、自由に、好き放題に。


だけれども、出来ない、やらない、知らない、怖い。

ま、現状に満足ならほんとに必要ないもんね。

なんでそんなに「変えたがる」のか?
自分に問うてみた。

「変えられる」と言う自我があるから?
「我」がそれを「期待」しているから?

それって、現状を不満に思っているからだよね。

そりゃもう、殴られながら無理やり生きていたこども時代に「これが満足な世界だ」なんて思うわけがないだろう。

ある意味「しょうがない」と受け入れながら「生きているから」仕方なく生きていたかも。


そんな経験を積み上げると、それが「わたし」なのだと思い込むようになり、違う自分を欲するようになるのかもしれない「わたしはこんなもんじゃない!」と。

では、どんなもんじゃろうか?


イメージをありありとしてみる。


とはいえ、わたしはこどもの頃に病気で人をコントロールする自分を俯瞰していて「ツール」として使ってたことを自覚しているとか、ここまでの現状はかなり「いい暮らし」をしているのだ。

特に、お金に困ることなく生きてきた。
それがコバンザメであろうが、ぶら下がりであろうが。

いるだけでそのサポートを受けられてきたのだ。

なんでまた、これ以上を望むのか?

望むことがダメなのではなく、
その原動力が「現状嫌」からであることに課題があるのだろう。

今も心地よいが
これより、違う風景で心地よくなる場所が他にあるなら体験してみたいなーって感じかな。


がつがつしてきたなー
がむしゃらにきたよねー
うん。
ちょっとここらでひとやすみー

かばくんの絵本だな。
あれは大人へのメッセージだったんだ。


いまね、どんな人が目の前に来ても
どんな、現象が目の前に起きても
それらはすべて「メッセージ」なんだと思えちゃうのだよ。

それに加えて、自分が発することもすべてが「メッセージ」なんだとも思うのだ。

何かしら、いるだけでメッセージの循環は起きているわけだという自覚ね。

それはすべてに共通することなんだよね。

自分への手紙としてこのnoteがある。
これからも長く一番近くに存在する「わたし」のお手紙としてこのnoteを続けていこう。


我思う故に我あり。

ここに「愛」を頭とお尻につけてー

愛する、我思う故に我あり、愛をこめて

意訳が必要ねw

愛するわたしへ
あなたが、わたしを思ってくれるからこそ、わたしが存在している、ありがとう。愛をこめて


そんな感じの日曜日✨

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