「もしわたしが奴隷だとしたら」と考えて見る。

「もし奴隷だとしたら」で、考えてみる。

奴隷と聞いて何をどんなふうにイメージする?

一方通行に命令を聞かなくてはならない。
自分の意思を持ってはいけない
足枷に錘がついている
ボロボロの服を着ている
裸足である
食べ物を自由に口にできない

さて、なんとなく頭の中にイメージしながら書いてみたが、もしかして連想されるこのイメージは、どこで仕入れたのだ?

もしかして、アニメや映画で観たんじゃないのか?

実際の奴隷を観たことがあるか?

もしかしたら
綺麗な着物を着て
靴ももちろん履いていて
足枷も錘もついてなくて
意思を持って
食べたいものも食べ
どちらかといえば自由にしてるんじゃない?

勝手に人がつくった「奴隷像」をしんじこみ、そうでないからわたしは奴隷じゃないって思うことで、実際は心の中で蔑んでいて、でもどうやら「自分は奴隷かもしれない」と心の中で思っていて、でもそんな蔑んだものに自分がなっているなんて思いたくもなくて。

受け入れない。

ちょっとややこしいけど、お腹の中にあった感情を順番に引っ張り出して言葉にしたら、こんなんになった(笑)(笑)(笑)

実際に見たこともないものを「在る」と錯覚しているよね。
で、実際は映像で見たような奴隷ではなく、思考が奴隷になっているんだね。

奴隷マインド

あながちまちがってなかったわ笑

で、この中から事実なんだ?
と分けて見つめて見る。



でね、現実の現状の毎日は、自分が描いているわけで。
そこには「望んだ自分」がいるわけなのね、

言葉以上に腑に落ちそうなところにいる。
それは肌感で分かる。

なんか大きなことを忘れてしまっている!!!
見落としていて
気がついてない!!!


そのヒントは常に目の前に在るのだ。

あっちこっちに転がっていて。
人と話すと、その人のヒントは「あーこれかも」って緒が見えたり。

そのヒントから自分を紐解いてみたりもする。

だから、1人でこもっているよりも人と話すことで「自分の種」を拾い集めることに繋がる。

インタビューする旅ってめっちゃ面白い。
インドネシアでも長崎の旅もどこ行ってもいろんな人と話していたなー。

旅に出なくても実際すぐできる。
人に会いに行こう。うん。

で、昨日ね夫に昨日の気づきを話したわけ。

保育所の童話研修でさーって。
わたしが引っかかったことも何にも残ってないって。
同じ話を聞いて、その時共感したからって、同じものが残るとは限らないんだーって。

でね(笑)
面白いのがね(笑)
覚えてないと言いながらめっちゃ反応してたwww

で、その後、わたしにつよい言葉で注意して来たのね。

あ、もしかしてこれってわたしを束縛してる感じ?って。

日々、こう言う言葉で「わたしは奴隷」を作ってるんだ!!

大きな気づき❤️

それすらわたしが言わしてるんだから、
何かメリットが隠れてるのさ。

さー
ここから
わざわざの挨拶「ここで言うとくと、立場が守られる」と思っていることにフォーカスして辞めていく。

誰に対しても実行するわけだから、新しい違和感に出会うはず。

ワクワクするぞ!

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