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収まりきれんのや、長いからごめんね🦵マグロから教わったこと。

テーブルの下の空間の領域を侵してるんちゃう?

組んだ足を組み替えたら夫の足に当たるのだ。
ほぼ毎朝こんなしょうもない会話をしている。
平常の幸せがここにある。

そんなに遠くない「今日」には、なくなっている会話だろうと、思うと大切に思える。

どんなタイミングでもそう思えていたら、、、全てを大切に出来ただろうな。
と、ふと、忙しすぎた子育て時代を思い出す。

前に前に
先に先に
早く早く

そんなことしようとしなくても、自動的に進むのに。
ただ、影にならないように「お日様」であれば良かったんだよねーって。


照らして
暖かくして
そこにいれば、それでいい。


最近の実際のお日様は「痛い」けどねー

#賑やかし帯

昨日、大泉の大起水産で「マグロのカマの照り焼き」を買った。
デカい。
こんな大きさのもは家のグリルでは焼けない!
高さも長さも、むーりー。

照り焼きのタレがちょっとタレタレしててアレだったけどー
いや、こんなものは他では手に入らない!
食べてみたい!

と、1000円弱する「マグロのかま」を買ったのだ。塩焼きないのよねーと言いながら。

デカさがわからんねー
A4サイズのトレーくらいかな。

お箸では取れない。
手だ、これは手で支えて引っ張って喰らいつくのだ。

と、へばりついている「それ」は「筋肉」で、人間が食べるためにあるんじゃない。。。と言われたか気づいたか湧いてきたか。。。。。


海を
泳いで
こんな大きなえらになるまで
泳いでついた筋肉なんだ。

その一筋ひとすじをほじくっては引きちぎり、時にポロッと取れたりする「それ」を口に入れて噛む。


境界線がまた、溶けた。


なんだろうか。
わたしは人で、
釣られて捌かれて焼かれたマグロは魚で。

状態は変わってしまったけれど、「それ」は「わたし」になっていく?

わたしの中で、混ざっているのか?

いや、マグロはどこまで行ってもマグロ。
舌の上でアミラーゼで分解して、小腸で吸収されて、、、とか言うけれど、どんなに小さくなっても「それ」はマグロであってわたしにならない。

どこまでもマグロはマグロだった。

体の中に入っていく「それ」はわたしに何を伝えたくてその映像を見せてくれたのだろうか。

散り散りバラバラにわたしの中に落ちていく。
混ざってはない。
みんな違う場所を目指している、、、
そして、みんながみんなうんちになるんじゃなくて、目指して行き着いた「そこ」で光を放つ。
その後、見えなくなった。
その時「わたし」になったのだろうか。

わたしの体のあっちこっちが光って
まるで蛍が飛び交っているかのように。

マグロ達に羽がはえたように
足かな?駆け巡って配置に着いた。。。

そんな感じだった。

わたしのサイズはどんなだろう?
そのイメージを見ている時、止まってはいない。
無心にカマに喰らい付いている、166センチの人間だ。(ちょっと縮んだかも)

でも、そのとき、わたしの視点はマクロ・ミクロか、宇宙を見ている飛行士か。
形容できない「もの」になっていたな。

何を見せられてのか。
見て、何を受け取ればいいのか。

そんな、この世的な思考はずいぶん後になってかいししたが、その時はただ認識していた。

マグロに浸っていたわたしは、それを夫に渡した。

夫はずっと何やら言う。
「全然取れへんなこの身。ほぼ食べるとこあれへんな。タレの味濃いな。食べにくいな。これ身や、食べれるんや、分かりにくい」などと、それは文句にきこえたのだ。

文句を言い続ける「ニンゲン」を感じた。


ニンゲンに食われるためにあるんじゃないよ。


暮らしやすい世の中だからさ、なんでも「サービス」的に都合よく切り揃えられていてね、ちょうどいいように与えられ過ぎて「本質」って見えないようにセットされてるんだなー。

言わなかったけど、そう感じた。


マグロ氏。
君を無駄にはしないよ。

ありがとうとか言葉が陳腐過ぎて、なんも言えない。


マグロ氏、君がわたしに命をくれた。
バトンしてもらった。
エネルギーとして「わたし」になってくれた。


食事って、契約なのかな。
あなた、わたしに命預けてくれますか?

イエスだから目の前に届いてんだよ。

だから「いただきます」。
その意味は
「あなたを活かすことを約束します。」
と宣言することなのかも。

そんなことを今朝まとめながら、
食べ物が「自分」に見えてきて
いつも「自分」を食べているのかも?と。

食べるというとグロテクスに感じるが、なんだろ、、、。

喰らうというか、飲むというか、、、、

表現力に乏しいのでこれ以上文字にならないけど、「食事をいただく」ことって、命の交換をする聖域なことなのかもなーと感じているのだ。

だからだろうな、
体のため
栄養価がどうの
という類の言葉や考え方が好きになれない。

食べることに「理由」「条件」は要らない。
目の前に差し出されたその命は「あなたを選んでいる」のだから、そのまま「いただきます」。


それを「仕事」と言うのかも。
「仕える事」。

わざわざ「生きる」ことを考えていた最近。
いや、これまでずっと「自分とは」を追求してきた。

ただ「生きている」と言うだけのことに一生懸命「意味」を見出そうとしてきた。

いや、意味は「生きている」と言う事実のことなんじゃないのか?って感じだ(笑)

生きてるだけで丸儲けの本当の意味がもう少しで掴めそう。。。


トップ画像のマグロのお寿司を見て、一つ食べてみて、母を思い出した。

晩年、赤いものをみては欲しがった。
元気になれそうと思ったのかな。
亡き両親を想いながらいただきました。

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