見出し画像

「HARAI / 祓い」 作品解説と言うにはあまりにも長ったらしい独り言。

「HARAI / 祓い」

これは全人類に向けた、
「イタイノ イタイノ トンデイケ」

幼い頃、私の育った家庭環境は素晴らしいものでは無かったし、お世辞にも「温かい家庭」などと呼べるようなものではなかった。

しかし 記憶の隅っこで、時々思い出したくなる記憶も有難いことにいくつかある。

幼少の私は、親から絆創膏を貼ってもらうことが好きだった。

血も出ていないような小さな傷でも、自分で傷だと認識した途端なんだか やたらと痛くなってくるもので。

そして痛い痛いと 傷口を庇いながら訴えて、
絆創膏を貼って、
「イタイノイタイノトンデイケ」をしてもらう。

すると痛みはスンと治まり、傷口に置いた手を自由に出来る。心も満たされる。

貼られた絆創膏を眺めていると、ムクムクと自尊心が湧き上がる。

特別なおまじないのようだった。


成長するにつれて、滅多に絆創膏など貼らなくなり、貼るとしても自分で貼るし、ましてやイタイノイタイノトンデイケ などと唱えてもらうことは当然に無くなっていく。

その事を寂しく思うなんてことは無かったし、
もう一度戻りたいなどとも思わない。

ただ確かに、
「傷を認めて貰えた」「大切にされた」と
ムクムクと自尊心が湧き上がった あの感覚を得ることは減ったなぁと感じる。

本当に目に見えて傷があるか、深い傷か浅い傷か、そんなことはどうでも良くて

「痛い」と言ったら 「痛いね」と認めて貰えた。
それが私の心を満たしていたように思う。

それを体現するのが、
絆創膏を貼り イタイノイタイノトンデイケ と唱えることで

心のモヤを晴らす一種の【祓いの儀式】だった。


大人になった今、
私は「キズ」について考える。

社会の中では 「痛い」と言った時に
無条件に「痛いね」と応じてもらえることは少ないように思う。

というか、ひとくくりに「キズ」と称してもその属性があまりに様々だ。

痛いね痛いね と応じられやすいキズ もあれば

痛い なんて言っていないのに 痛そうだね!痛いはずだ! と群がられたり

痛い痛いと 言い続ければ もういい加減に痛くないだろう と呆れられたり

誰かの 痛い がコンテンツとして面白おかしく消費されたり

お前には 痛い と言う資格がないと 痛みを感じることすら責められることもある。

誰かの「痛い」が、誰かによって審査される。

そして審査が通らなかった時、自分ですらも
「痛くなかったのかもしれない」
「大袈裟だったかもしれない」
「自分には痛がる資格がない」
などと思い始めてしまったりする。

私は思う。
痛いもんは痛いだろ。

誰がなんと言っても、
どういう理由で出来たキズでも、
どれほど時間の経ったキズでも、

その人が 痛いと言うなら 痛いんだろう。

キズが痛い ことは、
本人の人間性 や、出来事の善し悪し、
被害者か加害者かは関係無いのではないだろうか。

ただ 「痛い」と言ったら 「痛いね」と応じる。
キズの存在 そのものを認める。
そういう 祓いの儀式 が誰しもにあっていいんじゃないだろうか。

絆創膏を貼って イタイノイタイノトンデイケ と唱えてもらったあの頃のように、

キズを キズだと認めてもらうこと。
「痛かったね」と応じてもらうこと。

そうして ようやく キズを庇う手を離すことが出来る ということがあるんじゃないだろうか。

それでもしも 痛みが和らいだなら、
自由になった手で 今度は誰かのキズに絆創膏を貼ってあげてくれたら有難い。

「痛い」と言わずに良くなった その口で
誰かに イタイノイタイノトンデイケ を唱えてあげてほしい。

そんなことは出来ない!としてもそれはそれで構わないけれど、もしまたキズが痛んでしまう時が来たら それでも躊躇いなく再び「痛い」と叫んでほしい。

この作品は 何度でも無条件に【祓いの儀式】を繰り返す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?