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TOEIC300点台の自分が、アメリカのBIG4会計事務所で働き、クライアントのCFOと涙するまで

英語、全然好きじゃないし、テストの点数低いな。
でも、英語話せるの、かっこいいよな。
アメリカに住んでます、って、もっとカッコいいな。
あれ、社内海外駐在プログラムみたいの、あるじゃん。
TOEICのスコアが600点必要らしいから、ちょっと勉強して受けてみよう。

これは、16歳から25歳までの自分の人生をサクッとまとめたものだ。そして、受けたTOEICのスコアは、319点だった…。

こんにちは、公認会計士・税理士として開業している成戸(なると)です。長い文章ですが、これは自分に甘い、そして、どうしようもないダメダメな自分をありのまま文章にすることにより、これから英語を学びたい人に少しでも勇気を持ってもらうために書いた初めてのnoteです!

1. 英語と自分

高校一年の最初の定期テストで、英語で良い点数を取るためには、大前提として単語をまず覚える、ということをいち早く察知したものの、どうにもその作業が好きになれず、気がつけば英語の成績はダダ下がり…。挽回しようにも、過去の単語から覚えなくてはいけないので、いつまでたっても覚える単語量が減らない。みんな、一緒だよね、と自分に甘いという特技を存分に発揮した結果、高校時代の英語の点数はいつも半分に届かず…。

いつか自分は、英語がペラペラになって、外国人(既にこの時点で英語圏の外国人という概念を持っていない残念な夢)と話している自分の姿を見た人が「すげ〜っ!」って言ってくれる、そんなことをニヤニヤしながら妄想して過ごしていたら、社会人も5年目になり25歳をとっくに超えている。あれ、若いって、何歳までだっけ?そんなことを考えていたある東京から自宅への帰りのタクシー(仕事で終電に間に合わず、やむなく)の中。

今日も疲れたな、ちょっと寝ようかな…。

結局、アメリカにも行かず、英語も話せないまま死んじゃうな…。

なんだっ、この頭の中に突然湧いてきた、鮮明に描かれた死に際の自分の思考。こんな風にあの世へ行くのはイヤだっ!

今、思い起こせば、これから続くラッキーの始まりはここからだった。タクシーから降りた自分は、家に帰ると夜中の3時前だというのにも関わらず、父親に電話をかけた。そう、父親はその時、LA(ロサンゼルスと言わずにLAと言いたい、かっこいいから)に駐在していた。

「もしもし、俺だけど、仕事辞めて、親父のところに行って、英語勉強したい!(一世一代の覚悟と思い込み、興奮気味)」

「来れば。」

あまりにもあっさりした父親の返答に、ちょっと鳩が豆鉄砲くらったような、そんな呆気なさを感じながら、次の日には会社に辞意を伝えた。それが2007年2月。LA行きの飛行機のチケットは2007年4月。ちなみに、待望の初めての子供が生まれたのは2006年12月。

ビザの関係で、奥さんと4ヶ月の子供を日本に置いて、渡米を決意!何かものすごい決断をした感じではあるが、奥さんにしてみたら、初めての子育て、それも、生まれてまだ4ヶ月の子供を残して、どういう神経で「渡米を決意!」なんて言えるのか。至極真っ当なご意見です。

しかし、そんなことを微塵も感じずにアメリカに行ってしまうのが、ダメな自分。俺は、ものすごい決断をしたんだっ!よ〜し、人生の第二章の幕開けだっ!そんな気持ちだったのを今、遠い目をしながら思い出している…。

2. アメリカ生活の始まり with 父親 編

さて、LAに着いて自分を待っていたのは、人生で最高のニート生活。ここで、自分の標準的な1日を記しておこう。

・朝、父親を見送る。

・家の周りをジョギング。

・LAに来てから始めたゴルフの打ちっぱなし。

・お昼ご飯を作って、食べる。

・さて、英語の勉強。

・待て、運動して、お腹いっぱいで眠いな、ちょっと、お昼寝しよう。

起きたら、いつも夕方で、父親が帰ってくるのでお出迎えの準備。週に1回は父親と一緒に寿司を食べに行き、家からは太平洋を一望。日本の家族は元気かな?そう、そんな生活をしていても、英語は絶対に上達しない…。

LAに来てからちょうど半年が過ぎたある日、父親からある事実を告げられた。仕事の関係で、急遽日本へ帰国しなくてはいけなくなったらしい。

「お前は、どうするんだ?この家、もう住めないぞ。」

(みんなに、「俺、アメリカ行って、一回りも二回りも大きくなってくるっ!」って言っちゃったけど、全然英語上達していないしな…。)

「えっ、う〜ん…、アメリカに残って働く…。」

かろうじて蚊の鳴くような声で返事をした自分。えっ、英語も話せないのに、働くことは出来るのか?そんな当たり前の疑問が、自分の頭をグルグルよぎったのだった。

さて、ここで2個目のラッキーが降臨。日本で公認会計士の勉強を一緒にしていた先輩が、会社の駐在でLAに。厚かましくもその先輩に連絡し、こんなことを言ってみた。

「先輩の会社で、雇ってもらえませんかね〜?」

何が2個目のラッキーかというと、先輩がLAに駐在していたことではなく、その先輩が本当に優しかったこと。快く自分の無理なお願いを聞いてくれ、早速面談をセットしてくれた。

「成戸くん、最初に英語での面接から始まるからね。」

なんで先輩に言われるまで、そのことに気付かなかったのか。一生の不覚…。そう、英語での面接。TOEIC 319点から、ここまで特に自分の英語力に上乗せは無かったはず。もしかしたら、自分、運がいいから意外になんとかなるのかな?

そう、なるわけない。でも、2個目のラッキーをがっちり掴んで離していない自分には、優しい先輩がいる。先輩が教えてくれた。来月、ボストンで日本語と英語のバイリンガル向け就職説明会があるよ。

自分は、日本語と英語のバイリンガルなのか、そんな疑問を抱きつつ、ボストン行きのチケットを手配した。いや、父親に手配してもらった…。

3. 就職への道

ボストン、映画でよく舞台になる街。ベン・アフレックの映画だっけ?っていうか、就職説明会ってなんだ?やっぱり、英語の面接はあるのかい?

自分は、日本で監査法人に4年、投資ファンドに1年勤めていた。だから、アメリカでよりお金を稼げるのは何かを考えて、4年の経験を活かすために会計事務所に応募した。応募先は、BIG4と呼ばれる会計事務所。PwC、EY、Deloitte、そして、KPMG。どこも世界中に事務所があり、会計事務所の世界では超大手。そりゃ、日本の会社じゃないんだから、英語の面接はあるだろっ!

さて、履歴書を提出するにあたり、いきなりハードルが…。まず、アメリカの公認会計士、通称CPAの試験を受けるためには、大学の単位が大体150単位必要となる。しかし、一般的な日本の大学の卒業単位は120単位。履歴書を提出するためには、この試験を受験するために150単位を持っていることが前提となっていた。

これって、英語の面接以前の問題ですよね?はい、自分、いくら逆立ちしても120単位しか持っていないです。

この流れの場合、またラッキーが訪れます。しかも、2つ!

1つ目、ちょうど日本で新しいルールが出来て、上場企業に新しい規制が設けられた。当然、日本企業のアメリカ子会社にもその新しい規制が適用されていて、どうしてもアメリカで日本語と英語のバイリンガルの人数が足りない。だから、150単位なんかよりも、すぐにでも人を雇いたい。それがKPMGだった。

2つ目、やっぱりあった英語での面接。これを突破しないと日本語の面接に進めない。そして、自分の目の前には、明らかに外国人の女性が御二方。おいおい、LAの二の舞じゃないか!

面接の前に、応募する事務所の場所を決めなくてはいけなかった。全世界に事務所があるBIG4会計事務所は、当然全米にも事務所がある。自分が提示された事務所の候補先は3つ、アトランタ、シカゴ、そして、コロンバス。

コロンバス、それ、どこだ???知らないところに応募はできない。残ったのは、アトランタとシカゴ。アトランタ、昔オリンピックがあったな。それしかイメージがない。シカゴ、一度旅行で行ったことがあるな。シカゴにしよう!

恐怖の英語での面接が始まった。二人の面接官は、自分が提出した履歴書を読みながら、探るような眼差しで自分のことをチラチラ見ている。おいおい、既に自分の英語力を見抜いているのかっ?

一人の面接官が口火をきった。むっ、今、なんて言った?聞こえたのは、「シカゴ」という言葉だけだぞ。そうか、多分、どこの事務所に応募したの、的な質問かな?うん、語尾が上がっていたから、これは質問だ!自分の回答はこれだっ!

「Yes!」

おっ、いい反応だぞ!おっと、もう一人の面接官も話し出した。むっ、今、なんて言った?聞こえたのは「コールド」って言葉だけだぞ。そうか、シカゴの冬は寒かったはずだ。冬のシカゴを旅行した自分、シカゴの冬が寒いこと、知ってまーす。語尾も上がっていたし、「シカゴの冬は寒いけど、大丈夫?」的な質問だろうな。よし、回答はこれだっ!

「Yes!」

すると、2人の面接官が、2人だけで楽しそうにおしゃべりを始める。時折、自分の方をチラチラ見るが、頑張って最高の笑顔で微笑み返しながら、いい感じにうなずいてみたりしてみる。海外旅行で訪れたファスト・フード店で注文している時のように…。

そして、奇跡が訪れる。英語での面接が終わった。次の面接の時間を伝えられる。えっ、「Yes!」を2回しか言ってないけど、英語の面接を突破したの?いや、突破したかどうか理解する英語力がないから、突破したことにして次の面接へ進もう。

ここで、1つイン・ハイのビーン・ボール(野球用語)が来る。英語の面接は1回だけのはずで、それ以降は日本語での面接と聞いていた。日本語での面接、得意ですよ〜。ところが、最後の面接をする人は、KPMGシカゴ事務所のJapanese Practice(日本企業のアメリカ子会社向けサービス部門)の監査部門トップ、メットキャフさん。

あれ、外人さん?最後の最後で、やっぱり英語?そうだよね、今まで順調過ぎたもんね…。

すると、目の前に座ったのは、良く笑い、巧みに関西弁を操る女性。そう、彼女は生まれも育ちも兵庫県宝塚のメットキャフさん。全て日本語だった。

昔から、年上の女性には受けが良い自分は、最後の面接も突破し、KPMGシカゴ事務所への採用が決定。おいおい、英語を話せない自分が、BIG4会計事務所に入っていいんですか?やっぱり、運だけはいいよな、自分…。

4. アメリカ生活の始まり without 父親 編

さて、当然のことですが、ここからは一人での生活がシカゴという右も左も分からない土地で始まります。そう、まずは家探しだよね?えっ、不動産屋さんになんて行ったことないけど。

シカゴという街は、それなりに日本人が住んでいるので、日本人向けサービスも少しだけある。だから、日本語対応の不動産屋さんもあった。家は借りられた。次は、電気・ガス・水道のライフラインだ。

日本語対応の不動産屋さんは、ライフラインの面倒までみてはくれない。自分で電話をして、電気・ガス・水道を通してもらうようにお願いする。電話、ものすごい難しい…。なぜなら、身振り手振りも使えないし、相手の表情から自分の言っていることを理解しているかも判断できない。果たして、ライフラインは通るのか?

通った!次は、仕事だ!この調子で、結構いけちゃうんじゃないの。(笑)

いけるはずはなかった…。Japanese Practiceに配属ということで、少しは日本語で仕事ができるんじゃないかと思っていたけど、お客さんはアメリカ人、チーム・メンバーもアメリカ人、書類は全部英語…。ボスの関西弁だけが時々自分の心を癒してくれるだけ。

しかし、そんな中でも1つのことを発見した。自分は、学生時代に将来の保険として資格を取得することにした。そして、選んだのは公認会計士という資格。別に、公認会計士に小さい頃からなりたかったわけじゃない。難しい資格だからこそ、将来食べるのに困ることはないだろう、って思っただけ。

そんな後ろ向きな気持ちで取得した資格、そして、日本での仕事を通じて得た経験が異国の地で花開く。そう、監査という仕事は、会社の決算書の妥当性を保証する仕事。数字、通称「アラビア数字」が正しいかどうかを確認することが主な作業となる。

英語は出来ない自分だけど、数字や会計は世界共通。だから、やらなくてはならない「決算書の数字が正しいか?」ということは、直感的に判断できる。少し違和感のある会計数値があれば、チーム・メンバーに困った顔を見せ、そこは底抜けに明るく面倒見の良いアメリカ人、「どうしたんだ、ユウイチロウ?」と声をかけてくれる。

5. 訪れた転機

そんなアメリカ人の善意にすがりながら、のらりくらりとシカゴ生活を始めた自分だが、どうしても苦手なものがあった。そう、英語…。

英語が下手な自分が恥ずかしくて、英語で話しかけるのを避け続ける自分。目の前に座っているメンバーやクライアントの担当者に、話すのではなくメールを送る日々。しかし、英語で文章を書くのが得意なわけがない自分は、話せば15秒で終わる内容を30分かけてメールを作成してコミュニケーションを取る毎日。劣等感と後ろ向きなプライドだけが、日々積み重なっていった…。

時間というものは勝手に過ぎていくもので、その場の瞬発力と周りの人に恵まれた自分は、いつの間にかKPMGで昇進していって、気がつけばManager(マネージャー)と呼ばれるチームの責任者的立場になっていた。

相変わらず、つまらないプライドを捨てられない自分の英語力は、4年もアメリカで生活、そして、アメリカの会社に勤めているとは思えないレベルしか上達しておらず、社内の地位だけが上がった状態。そして、チームの責任者になって、前任者から引き継いだ仕事で問題が勃発した!

要は、自分は悪くない。前任者が適当な仕事をした結果、最後の最後でクライアントに決算書の修正を依頼しなくてはいけなくなった。そこで、クライアントのCFO(最高財務責任者)が、「この土壇場で、このレベルの修正依頼を何故するんだっ!もっと早く伝えられただろっ!」

はい、そのとおりです…。全面的にこちらが悪いです…。今回のお叱りはメールで受け取ったわけなんだが、人間それなりに歳を重ねると、メールでも怒りのレベルを推し量ることが出来るようになる。今回のメール、相当怒っていると読んだ!

ということで、早速ボスにメールを送り、問題の概要とCFOの怒りレベルを端的にお伝えする。そう、今すぐに直接会って、謝った方が良いレベル。違う現場にいるけど、車で30分くらいでいける距離。早ければ、早いほど良いはず。自分の経験と直感がそう言っている。

ボスにメールを送ってから15分が経った。30分が経過。そして、1時間が経とうとしていた。返信が無い…。ボス、完全にメールを見なかったことにして、逃げようとしているなっ!自分の経験と直感がそう言っている。

しょうがないので、自分1人で向かうことに。車の中で、色々なことを考える。今まで謝るっていうシチュエーションが無かったので、英語のボキャブラリーが全然ない。「sorry」くらいしか、分からない。あれ、訴訟大国アメリカでは、「sorry」って言って、責任を認めたら、全部負けちゃうんだよね?自分が「sorry」って言って、クライアントに「報酬を払わなくていいんだなっ!」って言われたら、全部自分が責任を取らなくちゃいけないのかな?

ボス、助けてくれよ〜…。

そんなことを考えながら結論が出ないでいると、こういう時に限って道はすいているもので、あっという間にクライアントに着いた。よく考えると、このクライアントを訪問するのは、引き継ぎの時の挨拶に訪れて以来、2回目。そもそも、CFOの顔もあまり覚えていない。

ピンポーン!

入り口のインターホンでCFOに会いにきた旨を伝える。インターホン越しの女性の声は、自分の今の気持ちをこれっぽっちも理解していないほど明るい。その明るさが、自分の心をより一層暗くさせる。

担当者が入り口に迎えに来てくれて、CFOの部屋まで案内する。全くと言っていいほど、社内の風景を覚えていない。そんな自分に縁もゆかりもないクライアントに、今、自分は何の武器も持たずに謝りに来ている。こんな映画、なかったっけ?いや、そんな映画、観たことない。

人生で2度目に会うCFOの顔は、100人いたら全員が「怒っている」というほどの形相。とにかく、契約が無効になって、全ての責任を負いたくなかった自分は、絶対に「sorry」と言わないことを心に誓い、話し始めた。

(以下、全て英語で)

「え〜、今回は本当に…」

「ちょっと待て、今回、なんでこんなことになるんだ!一体うちは、おたくに幾ら払っているだ!そもそも、昔からおたくの会社には幻滅させられることが多々あった。おい、ボスはどうしたんだっ!」

「いや、自分もボスがどこにいるのか知りたく…」

「そんなことはどうでもいいっ!どうしてくれるんだ!(以下、45分間怒りのコメントが続くので省略)」

「sorry」と言うことだけは避けようと誓っていた自分だが、45分間の怒りを受け止めるのに、うなずくだけでは限界があった。もちろん、本当に申し訳ない顔を何回も作った。でも、それでも足りない。何よりも、本当にこちらが悪いので、その気持ちはしっかりと伝えたい。圧倒的な怒りに、気がつけば小さな声で「sorry」を連呼していた…。それ以外の言葉を知らなかった…。

人間、45分間も怒っていると段々と落ち着いてくるものらしい。やっと落ち着いてきたCFOは、今後の対応策を聞いてきた。それを説明し終えると、CFOが言った。

「オッケー、それで頼んだ。話はこれで終わりだから、入り口まで送るよ。会社に来るの、2回目だろ?入り口までの道に迷うと悪いから、一緒に行くよ。」

とりあえず、契約が破談になり全部の責任を負わされる気配が無くなったことに安堵していた時、自分と一緒に廊下を歩いていたCFOが、こう聞いてきた。

「来年も、お前がこのエンゲージメント(年度ごとの契約をこのように呼ぶ)の責任者なんだろ?」

(あれ、やっぱり怒っているのかな?それとも、自分が英語出来ないことがバレたかな?)

「もし、あなたが許してくれるのであれば、また戻ってきたいです。」

「いや、お前じゃなくちゃダメだ、お前が来年もやってくれ。」

この言葉が、その後の自分のアメリカ生活を一変させた。今まで、英語が上手くない自分が恥ずかしくて、出来るだけ英語でのコミュケーションを避けていた。でも、今回、自分のせいではないけれど、本当に申し訳なくて、直接謝りたいから他の現場から車で駆けつけて、少ないボキャブラリーで気持ちを伝えた。そして、その想いが通じたんだっ!

コミュニケーションって、ボキャブラリーの多い少ないじゃないんだな。やっぱり、気持ちがあれば伝わるんだ。あれ、なんでこんな当たり前のことに、今まで気が付かなかったんだろう?

6. 本当のアメリカ生活の始まり、そして、別れ

この日を境に、自分はみずからチーム・メンバーに話しかけ始めた。最初は、あまりに下手な自分の英語を不思議そうに聞いていたメンバーも、自分から話しかけることにより、色々とプライベートの話もしてくれるようになった。

すると、どうでしょう!たくさん知らない言葉を聞く度に、「それって、どんな意味?」という質問をすることができ、そして、それが自分の英語スキルのレベルアップになる。そうすると、またどんどん英語を話したくなって、また新しい言葉や言い回しを覚えていって。そんなループが勝手に回り始めた。

今までつまらないプライドを持っていた自分、これまでの4年間という時間をものすごい後悔したけども、それよりも目の前に開けた世界が眩しくて、その後の4年間は本当に楽しかった。これが、自分が思い描いていた「アメリカに住んでいます」ってことなんだろうな。

そんな大好きだったアメリカだけど、2015年に日本へ帰国することを決めて、2016年2月の飛行機のチケットを予約した。日本から遅れて来た奥さんと息子もアメリカ生活を楽しんでいて、新しい家族も2人増えた。仕事も順調で、新しい友達や素晴らしいアメリカ人の上司、そして、いつも温かく自分を迎えてくれるクライアントもたくさん増えた。

でも、色々なことを考えて日本への帰国を決めて、引き継ぎも兼ねて、自分が担当していたクライアントに帰国の挨拶をしにまわった。

もちろん、自分にとって大きな転機となったクラインアント、45分間怒り狂っていたCFOにも会いにいった。

「そうか、日本に帰るのか。本当に色々と世話になったな。ありがとう。」

「こちらこそ、本当にお世話になりました。引き継ぎはしっかり行うので、4年前みたいなことは起こりません。」

「はっはっはっ、そんなこともあったな。」

「実は、あの件、自分にとって大きな転機だったんです。それまでの自分は、小さなプライドを捨てられず…。」

そこから先は、あまり覚えていない。ただ、あの時と同じように、自分の気持ち、あの時、CFOが「お前じゃなくちゃダメだ。」と言ってくれたことが、自分にとってどれだけ嬉しかったか、あの言葉が無ければその先もずっと何も成長出来なかったこと、そして、「本当にありがとう」と伝えた。

気が付けば、自分はボロボロに泣いていて、CFOも一緒に泣いていた。

「そうだったんだな。お前の人生の役に立てて、本当に嬉しいよ。」

アメリカに9年間住んで、16歳の時に思い描いていた憧れの姿には、少し近づけたかもしれない。でも、そんなことはどうでもよくて、自分の小ささ、まわりの助け、そして、素直な気持ちがどんな時でも大事であることを知ることができた。

英語のコミュニケーションに必要なのはTOEICの点数じゃない、

伝えたい気持ちなんだ。

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