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過激で感情的な言葉を簡単につかわないでほしい。(願い)

日本の学校の厳しい規律について批判的な記事を読んだ。

たしかに、おっしゃるようなことも分かる。

けれども、我々はどこまで自由を尊重されるべきなのだろうか。

日本人の社会的なマナーの良さや、治安の良さはこういった厳しい教育によって培われたものがあるのではないか。

そういうことも感じるからである。

つまりそこにも認めるべき理があるのではないかとも思うということである。

上の記事は以下のような論理展開で記事をまとめている。

例えば2017年に埼玉県のある中学校で生徒による「素手での便器掃除」が行われ、これについて報じたニュースでは、同様のトイレ掃除を8年続けている別の中学校の校長先生の言葉「無言清掃を通じて客観的に自分を見る目と心が育まれ、生徒たちはどうすれば人のために役立つかと自ら考えるようになった」を紹介しています。
しかし、相手はあくまでも「トイレ」です。どんな病原菌がいるかもわからず、生徒が感染症になったりする危険性は誰も考えなかったのかとショックを受けました。一般社会でトイレ掃除がプロの仕事であるのは、「掃除を素手でしない」のは言うまでもなく、適切な対策とノウハウがあるからこそ求められるからであり、そのおかげで私たちも快適にトイレが使えて病気にもならずに済むのです。
ところが日本の教育現場では生徒の健康はどうでもいいと言わんばかりで、ニュースでも「素手にためらいもあったけど、便器がどんどん白くなり達成感でいっぱい」という感想を「生徒の声」として紹介し、この話を美談に仕立て上げているのです。
感染症はもとより、こんな教育を続けていては、素手で便器磨きをやらされ続けた女子中学生が将来大人になり、「セクハラする男性上司」に堂々と「ノー」が言えなくても不思議ではありません。素手でのトイレ掃除に対し子どもに「ノー」と言うことを許さないニッポンの教育。本当にいつの時代のことかとこの手の話を聞くとめまいがします。

トイレにどのような病原菌がいると考えているのでしょうか。排泄物が感染症を媒介するのは確かであるにしても、それは唾や汗とおなじ理由によるものであって、トイレに固有の危険性があるという話はただのイメージによるものだと推察されます。

また、素手で便器掃除をさせられた女子中学生が「ノー」と言えない大人になるという主張もされています。どういうことでしょうか。男子中学生はなぜ問題にされないのでしょうか。

そもそも、学校のトイレというのは自分たちが汚した場所です。自分たちで掃除の仕方を学ばなければ、日本のトイレ掃除はだれが行うのでしょうか。

排泄物が汚い。自分が良いと思う価値観を追求したい。

どれも別に否定するつもりはありません。しかし、イメージでその内容を加速させるべきではないと思います。

トイレで靴を履き替えない以上、学校全体の床はトイレの床と同じように汚いです。そのような場所は素手で雑巾がけをしていますが、それもだめなのでしょうか。つまりすべからく掃除というのは全員がゴム手袋をしなければいけないことになりませんか?

さらにそのゴム手袋の衛生管理は誰が行うのでしょうか。

掃除をした後に、手をきれいに洗う。ただ、その習慣をつけさせるだけで全ての問題は解決される気がしてなりません。

さらに、精神修養の側面は確実にありそうだと思えます。言い方次第ですが。人がやりたくない仕事をやる。それも一見非合理的に見えることを行う。社会でもそのような人々がいてくれるからこそ、全体としてなんとなくきれいに暮らしていけているような気がしているのではないでしょうか。

トイレ掃除を行ってくださる方、道をきれいにしてくださる方、ゴミの処理や下水の処理をしてくれるような方々が、公衆衛生を守ってくれているのです。

さらに言えば、家のトイレ掃除を誰がやってくれているのでしょうか。全ての子供が家でやっているとは思えません。

そのような方への感謝を、どのような形で学べば良いのでしょうか。

トイレは汚い、良く分からない感染症のおそれがある、素手でさわったらどんな被害があるのかわからない。

そのような主張が次の感染症を生みます。潔癖症という名前の。


我々は自然に生かされている動物です。どこまでいっても。排泄物は毎日出ます。それが汚く触るべきではないものだと、必要以上にレッテルを貼るべきではないでしょう。適切に恐れるべきです。

この記事のような書き方であれば、次のようにも言えます。

自分の排泄物の処理を自分で行えない者は、社会に言っても通用しません。

社会にいるセクハラおやじなんかも、排泄物みたいな存在なのだから、トイレを素手で掃除したことによって得た根性でビンタができる大人になる女子中学生もいるでしょうね。

こういう言い方だって、かんたんにできてしまうのです。


ものは言いようですが、何の責任も持たず、何も調べず、批判するだけでお金を稼ごうとする。そしてただ現場を荒らす。そのような言説は正直腹に据えかねるものだなと感じました。

お金をもらって何かを書く以上、自分が間違ったことを言っていないか、ビクビクするべきだ。

とまで思いました。言い方がきつくなってしまっていたら申し訳ありません。


教育における施策の効果というのは目に見えづらいものですが、なんでも子供の言う通りにすることが正しいとは思えません。

我々は相互に影響しあいながら生きているのであるから、大人の知見も子供の意見と同様に扱われるべきだと思います。

先人が行ってきたことに過ちが多い事は、歴史が証明してくれています。だからこそ学ぶことは多いです。

確かに、ただ厳しくすればいいってものではありません。

しかし、一見非合理的に見える行為を批判する前に、そこにどのような意義が認められるか、自分が気づいていない合理性はないのか、そのような可能性を考えた上でそれでも自分の主張が正しいと考えるという話でないのであれば、何も残りません。


さらに驚くのは、日本では素手でのトイレ掃除が「精神も磨かれる」とか「日本を美しくする」などとちょっぴり右翼的な思想ともつなげられることが少なくないことです。その思想自体は自由かもしれませんが、学校でやることではないと思います。

精神が磨かれる、日本を美しくする、というのは右翼的なのでしょうか。私はネット上に存在している9割の右翼的言論に嫌悪感を覚えますが。このような言い方がむしろちょっぴり右翼的で嫌悪感を覚えます。

政治的態度と教育は切り離されるべきです。国を尊ぶというもの全ては唾棄すべきものでしょうか。そうは思いません。唾棄すべきは国を思うがあまり他国を排して良いとする選民思想です。人を殺してでも自分の国を豊かにしようという考え方です。

私は自分の国に誇りに持つからこそ、他国をリスペクトできると思います。

日本はだめで、西洋諸国は素晴らしい、そんな姿勢であるから、東アジアはこんなにもギスギスしているのではないでしょうか。日本は素晴らしい、西洋諸国も東洋も中東もすべからく素晴らしい。そのような出発点に立った上で、さすがにそれはダメだろうということを言い合うべきなのではないでしょうか。

話が少しそれますが、私は言論の自由が何よりも貴まれ、どんなに苦しくとも、民主主義を放棄すべきではないと考えています。

だからこそ、我々がどのようなものの上で自由を享受できるのか真剣に考えるべきだと思っています。

国民の質は教育によって定まります。

日本人の礼儀が世界中から異質なものに映るのは確かかもしれませんが、素晴らしいと考えています。相手を相互に思いやることによって社会を形成し、その上で自由を享受する。そのような姿勢がなければ、あるのはホッブズ的な万人の万人に対する闘争状態なのだと思います。それを乗り越えるための道具として、礼儀を重んじること、規律を重んじること、そこには一定の合理性が認められると考えます。

筆者の方はドイツの教育も受けていらっしゃるようですし、日本の公教育によって育った自分とは別の世界が見えているという部分はもちろんあるのでしょう。そのような方が意見を発してくださるのは本当にありがたい。自分たちでは気づけない部分に気付かさせてくださる部分は多いです。

だからこそ、もっと知ってほしいとも思います。もっと考えてみてほしいです。ニュースで見つけた一文からイメージで発想を飛ばすだけでなく、ドイツではどのような思想に基づいてそのような教育方針が取られているのか、どのような効果とどのようなデメリットが存在すると考えられるのか。

そういうことをドイツ語が分からず調べることのできない阿呆な私にも教えてほしいなと思いました。


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