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幸せの本質


昔、許せない自慢がたくさんあった。

お金を持っていることも、やさしいパートナーがいることも、理解力が自分より優れていて、もしくは何かパフォーマンスを持っていることも、SNSの人気者も、テレビの芸能人も、仲の良い友人の成功ですら、自分が攻撃されたような気持ちになってしまうことがあった。


それは誰かにとっては幸せなことだったのだろう。でも私のことを幸せにはしなかった。

幸せにしなかっただけでなく、私に負の感情を芽生えさせたとも言える。

幸せが一つのケーキで、いつかなくなってしまうのであれば、人が幸せになるのを見て悲しい気持ちをもつのは自然なことで、自分が10枚買った宝くじが外れた時に、自分の買った宝くじ売り場の目の前の人が買っていたくじが当たった事を知ってしまったなら、それはひどい感情を持ってしまうのでないかと思う。

でも幸せはそういったものではない。

幸せを感じるのは自分で、人の幸せを見てもこちらが幸せにはならない。でも幸せそうな人の近くにいて、本当にちょっと幸せを感じることもある。卑近な例だけれど、よくつるんでいた同級生に娘ができたなんて話は、その報告だけでちょっと幸せになれた。


このような特徴をもつ精神的な作用を我々はよく知っている。


笑顔も、悲しみも、怒りも、楽しい気持ちも、共有はできないけれども、共感してもらうことはできる。



幸せの本質は、感情であるという事に違いない。


幸せは感情だから、共有できない。

でも感情だから、相手が共感することができれば相手も少し幸せを感じられる。だけれども少しでも共感できない部分があるだけで、それは妬みにも僻みにも怒りにも何にでも変わる。

感情だから、一過性のもので当たり前。主観的なもので当然。

飴玉をなめて、甘さが口いっぱいに広がることが、どれだけの幸福を与えてくれたか。人の舐めている飴玉をいくら見たとしても、自分の口の中は甘くはならない。



みんなが飴玉を舐められるように、人に飴玉を分け与えられる気持ちをいつでも持てる人間になりたーい。

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