『SSSS.DYNAZENON』11話まで見た感想 自由って、情動って、なに?

 『SSSS.DYNAZENON』を11話まで見て思ったことを書こうと思う。

 怪獣という非日常が終わり、ガウマ隊の面々が現実に戻っていくにつれ、一部を除いてそこで生まれた繋がりがほんの少しの癖の伝播という残滓を残してほどけていく様はなんだか切ない。怪獣がばらばらになりはじめていた怪獣優生思想のメンバーやガウマ隊を再び引き合わせることがその切なさを際立たせる。この世界が実は誰かの夢なのではないかという思いがぬぐえないでいる。


1.シズムの言う自由って、なに?

 怪獣優生思想の一員の中で独特の立場にいるように見えるシズムは、事あるごとに(というほどでもないけれども)「自由」という言葉を口にする。「ここ(蓬と夢芽が通う学校)だって自由な学校に見えても、みんな何かに縛られてる。そういうものから解放してくれるんだよ、怪獣はさ?」(4話)、「自分で自分を縛っておきながら、自由を求める。他人に流されながら、他人を流す。うっとおしくないのかな。(そんな縛られてないと思うと答えた蓬に向かって)それは君たちが自分の不自由に気づいてないだけだよ」(5話)、ガル二クスが怪獣優生思想のメンバーと街を消していくなかで「これでみんな自由になれる」(10話)、「ほんとうは、俺たちは怪獣さえあれば、だれに従うこともなく、自由になれるはずなんだ」(ボイスドラマ10.01話)、「怪獣はどこまでも自由であるべきだ」(11話)。
 10話を見るまで、シズムの言う「自由」は、強制を受けずに気ままに振る舞えること、不安や規範からの解放のことを指しているのだと思ってみていた。しかし、10話を見る限り、ガル二クスによってもたらされたのは、自由というよりもむしろ過去や未来のある時点への囚われであり、束縛のように思えた。どうやらシズムのいう「自由」は我々が素朴に思う自由とは異なるようである。では、シズムの言う「自由」とはなんなのだろうか。
 ここで、「自由」の意味を複雑なものにした10話での出来事を考えてみるのが良いだろう。10話で登場した怪獣ガル二クスは、街の人々をその人がやり直したい過去や未来を再現した/予測した世界に送り込んでいたようである。これは10話での蓬の「消えた人たち、みんな過去に囚われている」といった独白や、ガウマの「この怪獣のおかげで俺たちは過去の世界に戻れた」という発言と、11話冒頭シズムの「あらゆる人間が自分の未来や過去に触れて、これまでにないたくさんの情動が生まれたはずだ」というセリフから推測されることである。蓬たちは過去にしか送り込まれなかったために皆過去に送られ囚われてたと思ったようだが、シズムの発言から推測するに、強い情動を発生させる出来事があった/ある時空にその人を飛ばすといった方が正確そうだ。
 では、強い情動が生じる時間に閉じ込められた状態が「自由」なのだろうか?私はそうは思わない。自由という言葉がふつう意味する状態とはかけ離れているからである。したがって、こう考えなければならないのではないだろうか。シズムにとって「自由」とは、そういった強い情動を生じさせる出来事をくぐり抜けた先にあるものなのであり、シズムは「自由」へとつながる情動のトンネルとして、ガル二クスを「自由」をもたらすものとみなしたのである。シズムは、情動を強く生じさせる過去や未来の出来事を(再)経験することで人々が自由の感覚を得ることを期待したというわけだ。
 情動のトンネルの先にある「自由」とはなんなのだろうか。気持ちや思っていることを自分の中で押しとどめずに、素直に表現し、場合によっては行動へと移すこと、といってよいのではないだろうか。これについては論拠というほど強固なものではないが、「自由」なシズムの振る舞いから推測できるだろう。例えば、盗んだ暦のダイナストライカーをめぐって奸計めぐらす一幕。盗んだダイナストライカーをうまく利用する方法を考えようという雰囲気の中で、空気が読めないといってもいいくらいほど率直にシズムは、返しなよ、と提案する。こういった場面では、多くの人は空気を読んでしまい、自分が思っていることをそのまま主張できないのではないだろうか。もちろん、対話相手との権力関係によっては、その後の相手との関係のことを考慮にいれるとそのような「率直さ」が不可能になる場合もあるだろう。だからこそ、「ほんとうは、俺たちは怪獣さえあれば、だれに従うこともなく、自由になれるはずなんだ」とシズムは言うのである。シズムはここらの日常では不可視化されがちな権力関係についても視野に入れている。
 このような「自由」が情動・感情のトンネルを通して得られるものであるのはなぜなのだろうか。これについては、3つの理由が思いつく。一つに、感情・情動のしこりに折り合いをつけてはじめて「率直」になれるから、ということ。第二に、感情・情動のトリガーなしに自由を目指す行動は開始されないということ。最後に、そういった感情・情動にたゆたうことがそもそも自由の感覚に転じる場合もあるということ。これらについては作品中から推測したわけではないため、ここで詳細に説明することはしないが、二つ目の理由については、フランシス・フクヤマ『IDENTITY』の、アラブの春と憤りの感情の関係を論じた章を、最後の理由については、ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』において語られる、フランツ・カフカ少年時の至高の躍動、幼年期の自由をみれば十分であろう。
 さて、考えは一周周り、シズムの言う「自由」がそれほど我々の思う自由とは異ならないことが分かった。いや、むしろシズムの言う通り、「君たちが自分の不自由に気づいていないだけ」なのだろう。


 そのような「自由」で「率直」なシズムが、本作においては最後の敵となる。このことは一体何を意味するのか?これについては、時間と気が向けば、他日稿を改めたいと思う。

2.感情、情動って、なに?

 怪獣は人の情動・感情が育て、作り出すものだ、ということが繰り返し提示されていたと思う。「君たちから情動を感じたんだ。そういったものが怪獣の好物なのかもしれない」(5話)、「その発生源に人間の心、感情が作用することで怪獣は生まれ、成長する」(8話)、ちせの必ずしも前向きとは言えない思いから生まれたゴルドバーン(9話)等々。
 ここで私は、シズムが怪獣発生の機序や怪獣の好物を説明する際に情動という言葉を使っているということが気になった。感情と表現すればいいところをなぜ情動と表現するのか。というのも、感情と情動は似て非なるものだからである。
 ここで情動について確認しておこう。『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求』(東京大学出版会)によれば、外界の刺激が、神経系(信号)と血管(ホルモン)を通じて脳の偏桃体に感応され、前帯状回に届くことで、その刺激がなんであるかを知らないまま、また意識しないまま生起する現象、それが情動だという(p15-p16)(※)。これだけだとわかりにくいと思うので、同書の例を借りて具体的に説明しよう。ある危険な状況に遭遇したとする(山道で草をかき分ける音とともに熊らしき影に会ったといった状況を思い浮かべてもらいたい)。その時、人は危険をもたらす事物を具体的に意識することなく、意識する前に、その危険から逃れようとするだろう。そういった状況では、おそらく、怖いという感情を感じる前に、強い身体的な”感情”とでもいうべき圧迫感を感じているはずだ。そして同じような状況に再び直面したとき、極度の緊張と鼓動に見舞われるだろう。あるいは、サッカーの試合で劇的なゴールシーンを見た時、思わず立ち上がり感性を上げるだろう。嬉しい、怖いといった具体的な感情が表出する一歩手前で生起し、強度として経験される現象が情動なのだ。その一方で感情とは、「経験の内容」として感知されるもの、つまり、具体的な出来事や経験と関連付けて感知されるもの、それが感情だ。
 さて、なぜ私が突然情動の話をし始めたかというと、情動というキータームを介することで本作の怪獣や怪獣優生思想に新奇な象徴的な意味を与えられるからである。同書において、情動は現代のデジタルネットワーク(インターネットやSNS、ソーシャルメディアなど)の特徴を分析する言葉として用いられている。本作の内容から直接推測したわけではなく、また私の手に余るので、ここで同書の内容については詳細に説明することはせず、ところどころ説明を省略しながら私が言いたいことにつながる内容に絞って概念を借用することにする(したがって正確性を欠く表現になっているかもしれない)。その概念とはブライアン・マッスミの概念として同書で紹介されている「情動のハイジャック(hijack of affection)」である。
 現代のソーシャルメディアに特徴的な点は、メディアの物質性を通じた身体的に「快」と感じられる情動の組織化の試み・情報の流れに瞬時に反応する技法の要求と、メディアを流れる記号の「象徴的能力の低下」である。前者は、机に向かい文字を書いたり、本を読んだりする時間性とは異なる時間性をメディア利用者に経験させ、能動的とは言い難く、だからといって誰に強いられるでもなく、スマートフォンのスクリーンをスクロールし、情報を瞬間的にチェックする行為を行う主体として利用者を構築するように作用する。後者は、現代のソーシャルメディアに内在する構造(いいね!やリツイート的な機能など)によって「なにが言われているか」という象徴的な次元よりも「何かが言われている」という遂行的な次元が焦点化されることで、語の組み合わせ方や語の近接関係の強度が言葉の「意味」を意味するようになった事態のことを指している。その核心にあるのは、そうしてイメージとなった言葉が感情刺激的となる事態である。
 さて、そのようにして個人化されたソーシャルメディアの利用者が、否応なくメディア空間を流れる、通常では使用されないような挑発的な語句の反復によって情動や感情を刺激され、自身もまた情動的、感情的なメッセージの流れに参入ないしは、情動を刺激されずにはいられないという事態、それが「情動のハイジャック」である(といってしまうと不正確な気もするが、私の不勉強のせいで本当のところどうかは何とも言えない)。
 この話がどう『SSSS.DYNAZENON』と関わるのか。情動・感情によって育つ怪獣は個人個人が有する情動・感情の象徴であり、怪獣優生思想はそういった個人個人の情動をハイジャックするソーシャルメディアのプラットフォームの象徴と読み解けるのではないか、と思うのだ。確かに、作劇レベルではSNSをはじめとするメディアはしばしば登場し、そのシーン象徴するかのような情報が流れていることも多く(作中のテレビなど)、本作はこういったメディアがもつ利用者構築作用に対して独特の視線を注いでいるように思われる。また、怪獣優生思想に操られた怪獣の登場がしばしば夢芽と蓬のコミュニケーションを妨げているということも印象的だ(11話最後のシーンとか)。これは言葉の象徴的価値の低下による伝達不能性に対応する。主人公たちが怪獣出現の情報やそれによる被害、街のニュースを知るのは常にSNSを通じてである。そして怪獣は人の情動によって育つ。そう考えると、怪獣優生思想が怪獣を操る際の決め台詞が「インスタンス・ドミネーション(instance domination)」なのも、ソーシャルメディアが個人の情動を乗っ取るという事態を象徴しているのだろうか、と思えてくる。つまり、怪獣優生思想による怪獣の支配とは、個人が有する情動がソーシャルメディアによって支配されることを象徴しているのだ。彼らに操られた怪獣はさながらSNSの命ずるがままに情動をハイジャックされ、暴走する個人といったところだろうか。
 とすると少々興味深い怪獣がいることが見えてくる。そう、ゴルドバーンの存在である。ゴルドバーンはちせの感情・情動から生まれ、ちせの通っていた学校を攻撃しそうになったが、ちせは「これじゃ、怪獣優生思想とおんなじだ……」と言いながら、それを押しとどめた。そしてその後、ゴルドバーンは夢芽を助け、シズムによる「インスタンス・ドミネーション」を拒絶、ギブゾーグとの戦いに加勢するのである。ここからいったい何を読み取ることができるであろうか。自分の情動と同じような情動をのせた情報がソーシャルメディア上を流れていった時、一歩立ち止まり、自分の理想と照らし合わせて、本当にそのフローに乗ることが自らの目標につながるかを考えることが大切であり、感情・情動はその使い方次第である、ということだと私は考えている。
 さて、ここまで読んできて、感情・情動は常に冷静な判断を妨げ、世界に悪影響しか及ぼさないんだなと思う人もいるかもしれない。では、情動や感情は社会で生活する上で常に悪いものなのであろうか?いや、そうではないと私は言いたい。ここで見落としてはならない重要な点は、怪獣に立ち向かうのもまた怪獣(ゴルドバーンやグリッドナイト同盟の二人)や強い情動を有する個人(夢芽と蓬など)であるという点である。そして、ガウマ隊の面々が過去と訣別するきっかけになったのも怪獣のおかげであったことを忘れてはならない。夢芽と香乃を取り結んだのは怪獣優生思想に操られたガル二クスである。夢芽を閉じ込めていた世界との壁を破ることを可能にしたのは、蓬の夢芽への強い思いであった。これは本稿の論調でもあるのだが、感情や情動がSNSなどの作用で暴走する危険をはらむものである一方で、現状を変える力の源泉となるものも感情・情動なのだ。自らの気持ちを大切にして、そこから行為を紡ぐこと、それが大切なんだというメッセージが本作からは伝わってくるような気がする。
 



 まあ、グリッドナイト同盟の二人は怪獣発生の機序の説明の際(8話)に、普通に感情という言葉を使っているので、情動という言い回しはただのシズムの趣味なのかもしれない。


※ヤン・プランパー『感情史の始まり』用語解説の「情動」の項には、「通常は、自律的で、言葉や身振り手振りを介さずに現れ、無意識的とされる身体的出来事(人によっては強烈さとして受け止められる)。このように定義される情動は、意図性、評価、意志、イデオロギー、認知作用一般に先立ち、それらに影響されない」、とある。つまり、情動は理性と感情の二項対立の枠組みを超え出る概念である。

※この節とは関係がないが、部屋にグランドピアノがあるあたり、ちせって結構良いところ育ちなのだろうか、と思ったりする。11話で制服(規律権力の象徴)を着て、やっぱ似合わないよなあ……、と言っているあたりその反骨精神は筋金入りのようである。シズムの言う「自由」を理解することができるのは彼女かもしれない。

※情動・感情をソーシャルメディアに乗っ取らないようにしつつ、そこから行為を紡ぐことが大事だ、ということが作品の一つのメッセージなのであれば、きっと蓬と夢芽がくみ上げた感情から育ったシズムの怪獣ガギュラは二人の手で倒される、ないしは鎮められるのだろうと思っている。とはいっても、やっぱり最後はみんなの力を合わせて敵を倒したほうが気持ちよく終わるような気がするので、そんなことはないのかもしれない。12話を座して待つのみ……。


=======追記=======
最後まで見た感想を書きました。

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参考文献
[1]伊藤守 編『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求 ポスト・ヒューマン時代のメディア論』(東京大学出版会)

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