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『地獄が呼んでいる』の次回作が決まったらしい

『地獄が呼んでいる』の次回作が決まったらしい。本作はイカゲームに続いて日本でも流行った作品だが、イカゲームよりも遥かに面白い作品だと私は思っている。その理由を以下で述べる。

1. 不条理な死

物語の序盤から登場する三体の怪物はとても印象的だが、あれが怪物である必要性はないと私は考えている。あくまで怪物は、不条理な死のメタファーであり、例えば自然災害や交通事故(自分には責任がない部類の)、通り魔殺人のようなものと理解すると話が分かりやすくなる。それはまだこれといった罪を重ねるはずもない、産まれたばかりの赤ん坊に「お告げ」が下されることからも明らかである。

2. 不条理な出来事を意味づけようとする欲望

この作品の面白さは、人間には、不条理な出来事を意味づけようとしてしまう、意味づけせずにはいられない傾向があるというところを、一見キャッチーな設定で比喩的に表現していることだろう。
この、端的に不条理で、そこに何か意味や理由を求めても仕方がないことすら、意味づけせずにはいられないというのは現実の我々人間にも当てはまる困難な問題だ。例えば特定の宗教を熱心に信仰する人が多い国や地域には、地震などの災害とそれに伴って起きた津波の被害を「神の試練」として捉え、肉親の死に宗教的な価値を持たせる人々がいる。一方でそれが防災教育の観点からは障害になってしまうため、比較的世俗的な人々によって、そういった解釈を改めようとする動きもあるようだ。しかし、ここには大きなジレンマがある。地震や津波、それに伴う肉親の死が偶然の出来事だとして、遺族は次のような思いに悩まされる、すなわち、「なぜ私の息子だったのか?なぜ私の妻や夫だったのか?」という思いだ。これを、偶然だったから仕方ないと諦められる人はそう多くはないだろう。まだ「神の試練」として意味づけをした方が、楽になれる場合があるわけだ。性的暴行の被害者が「自分に落ち度があったのではないか?」と自責の念にかられてしまうというのも、同様の例かもしれない。特に理由も原因もないのだとしたら、「ではなぜ自分が被害に?」と自問し、最終的に自分を責めてしまうということはよくあるそうだ。いわゆる「セカンドレイプ」は、それを助長することだろう。
このように、人間は特に理由や原因のなさそうな不条理な出来事に対して、時にそれが自分を苦しめることになろうとも、意味づけをしようとする傾向がある。それは「なぜ自分が?なぜ親しい人が?」のような問いに対して「答え」のようなものを提供し、ある種の「安心感」をもたらすからではないか。人間は理由や原因、法則がないことになかなか耐えられないのである。この作品の中でも、「神の試練」言説やそれを牛耳る宗教団体は、理由や原因のない不条理な死がもたらす不安定な感覚から人々を解放する役割を果たしている。物語の中で宗教団体が力を持ったのは、人々が信心深いからでも、科学的なリテラシーがないからでもなく、「少しでも安心したい」という素朴な感情にマッチしたからではないか。宗教団体幹部らが自分たちを、社会に安定をもたらす存在として認識している点からも、このような理解が妥当だと言えそうな気がする。そういう意味では三体の怪物だけでなく宗教団体も、宗教団体である必要は必ずしもないのかもしれない

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