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マケアレ

大豊町は大田口あたりのお話。
主に大豊町史など参照。

マケアレについて


嶺北の地方では現在でもマケアレという土地があり、この地には大きなが居ると云われている。
そしてマケアレには祟りがあるとされ林業や農作業の際、掟を守らねばならなかったという。


船戸の薬師橋から500mほど下流の附近に
くるめぎ(車切り)の淵」と称する底無しのように深い淵があり、この淵から更に100mほど下流へと降れば水田の中に畳五帖敷ほどの真黒い石がある。

この石の上にある祠を土地の人々は「黒石様」と呼んでいる。

また、そこから山道を2kmほどのぼったところにある庵谷地区の山上は黒石山と呼ばれ、ここも
マケアレとされ小さな祠が祀られている。

この三箇所の忌み地にまつわるお話。



山焼き




時代は江戸時代。
黒石様の隣に「いたや」いう豪農の屋敷があった。

この屋敷に花さんという気丈な婆さんがいた。

ある夏のこと、山焼きをするため十三名の日傭人を雇い、それに奉公人をひとり付けて山焼きに入った。

花ばあさんは一人残って人足たちの弁当を作っていた。
できあがると弁当を背負い、山を登って行った。

途中、庵谷の鳥居のあたりまで登ると一人の白髪の老人が静かに鳥居の下に立っており、ばあさんに行先を聞いた。


「今日の山焼きは止めたほうがえい」


と白髪の老人はすすめたが、気丈なばあさんは返答もしないで山を登って行った。


目的の山の下まで 行った時、目玉一つ、足一本の不思議な小坊主が降りてきて


「この山に火を入れてみろ。そうすれば、お前の家でお前の帰りを待っているぞ」


足は一本


との小坊主の脅しにも耳を貸さず山を登ったばあさんは弁当を渡して帰路についた。


気丈夫ながらも今までの不思議な出来事を考えながら家に帰ってみると、なんと茶の間の囲炉裏の自在かぎに、長さ一丈余りもある大きな蛇が巻きつき、かまくびをもたげてばあさんをジロジロと見ているではないか。

驚いた花ばあさんは

「さっきの小坊主か!」

と声を荒げ、近くにおいてあった大工のハツリ手斧(ちょうな)で蛇を切りつけ九つの輪切りにしてしまった。

ハツリ手斧(はつりちょうな)

ところがその切り口が次々とヘビの口になってしまった。

さすがに驚いたばあさんは飼い犬のクロを呼んで、流れ出た血を


「クロねぶれ、クロねぶれ」


となめさせてしまった。そして何食わぬ顔で夕食の用意をして、奉公人や日傭人の帰りを待っていた。 


日が暮れて山から帰った人々に五目めしと地酒を振舞い、良い気持ちになって帰る日傭人たちに、庭に置いてある「フゴ」の中のものを下の川に捨てるように頼んだ。



日傭人達は「フゴ」の中の巨大な蛇の輪切りに腰をぬかさんばかりに驚いたが、酒の勢いも手伝って皆でかついで下の川に捨ててしまった。


ところが、この日から四日目に飼い犬のクロがコロリと死んでしまった。
不思議に思いながらもクロの死骸を黒石の下に埋めた。

これをはじめに「いたや」には不可解な不幸が次々と起り、富み栄えていた「いたや」は数年を経ずして死にたえてしまった。


いたやが亡びると今度は周辺の部落にも怪異が及び出した。


困り果てた人々は、神主に頼んで祈って貰った所、すべては氏神の教えも聞かず黒石山の蛇を殺した祟りであるということが判った。


以来、土地の人々は黒石山を「黒石荒れ」と呼び祠を設けて周辺には手をつけることを禁じ、クロを埋めた石を黒石と呼び祠をつくって祭ることにした。


歳月が経つにつれ、住む人も変り、黒石様の祭りも怠りがちとなったが、不思議なことに、祭りを怠ると山の持ち主の家に病人やケガ人が出て黒石部落の稲は全滅の不作に見舞われた。


黒石山の持ち主は転々と変わったが、山の神祭りの二十日には酒肴を供えて手厚い奉仕をおこたらないようである。

終戦後、黒石様の祭りを三年間止めてしまったことがあった。

すると部落の稲作に不作が続き、再び祭りをはじめ、十月の亥の子には今も尚祭りをかかさないようである。


蛇を捨てた川原は今は「車切り」から転じて「くるめぎの淵」と呼ばれ、気味の悪い底なしの淵と化している。

登場する地名で「黒石」は「船戸」の東にあります。
また、「いたや」のあった場所は、「イタヤ屋敷」との小字が黒石に残っているようですが、現在は水田になっているそうです。

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