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わたしは、資本主義の産物だ。

森さんと話していると、ふわふわする。

「どういう風に生きていきたいの?」「趣味は何?」

「……し、しごと、かなぁ………」

なんてつまらない人間なんだろうと自分で自分のことを認めてしまう。


元々、私は無駄が嫌いな合理主義な人間で。大学生のときに友達に「無駄が嫌いな人」と紹介されたことがあるほどだ。

この前、「今までどんな風に生きてきたの?」と聞かれて私の口から出てきたストーリーにとても驚いた。

幼少期は、ピアノやお絵かきの一人遊びが好きだった。お勉強も好きで、小学校に入る前にはひらがなを全部覚えていた。

それをお父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんは「すごいね」と言う。

褒められることがとても嬉しいことを覚えた。

ピアノはずっと好きだった。3歳から習い始めたピアノは、高校を卒業するまで続けた。唯一の自己表現の場所だった。

でも、勉強をすることや良い成績をとることが私をもっと評価してくれた。

「好きなように生きれば良いんだよ」と言われても、良い成績をとって、良い高校や大学に入ることがなんだかんだ周りの人を喜ばせていた。

高校卒業後は音響の専門学校に行きたかった気持ちは「大学に行ったほうが良いよ」という声にかき消されて、私も認めてもらうことを望んだ。

「えらいね」「すごいね」と言われることが気持ちよかった。

大学生のときに、引きこもって何もしない無の時間を過ごしたことがある私は、働いたりお金を稼いだり価値を生んだりと「生産的なこと」をしていないと、生きる価値がないと思うようになった。

"無駄なことが嫌いだった私"と"社会で生産的なことをする"は、とても相性が良い。

生活に必要がないと思うことを削ぎ落として、利益や価値を生み出すことが最も目指すべき道。余暇の時間なんて「余っている暇な時間」なんだから、一日中ずっと仕事をして価値を生むことが正義だ。

そんな考えが、ずっとずっと私の脳みそにこびりついていた。

世間一般の評価軸にずっと自分をおいてきたのも、よく分かる。

大学は5年通ったし、フリーランスになってみたし、世間で評価されることから少し外れた部分に向かっている気になってたけど。全然そんなことなかった。別の軸で、評価を気にしていた。

私という人間を掘れば掘るほど、無趣味で無個性で、欲のない人間だと感じてしまう。

これがまさに、資本主義社会の産物なんだろう。


「趣味は何?」

と、聞かれる。あれ、小さいときにピアノやお絵かきが好きだった私はどこに言ってしまったんだろう。

音楽や美容が好きだったけど、何にしても私より語れる人がたくさんいて自分の好奇心を満たす意欲がどんどんと失せた。知的好奇心を満たすよりも、自分自身のスキルを高めたり効率を上げたりするほうが、ずっとずっと意味のあることに思えていた。

だからふと、今の私には好きなものなんてないなと思うようになってしまった。語れるものが、ない。

喉から手が出るほど欲しいものや、渇望するものがない。自分がやりたいことを、主張できる人間が羨ましい。

好奇心を、どこかにおいてきてしまった。


だから、森さんと話してるとふわふわする。

「どんな暮らしがしたいの?」「これからどうする?」「好きなことは?」

「他人が見つめる、あなたではなく、あなた自身が求めていることは何?」

そんな言葉に私の頭は混乱して、ぐるぐるしてしまう。

「そういえば、小さな頃はピアノとお絵かきが好きだった」「大学時代はたくさん本を読んでいたし、趣味は読書と言っていた時代もあった」

いろんな私を思い出す。私の中でいろんな当たり前が当たり前じゃなくなっている。子どもの頃の、お絵かきが好きだった私を必死に取り戻そうとしているかのように。

適当にラベリングするのは簡単だ。「こうあったらいいよね」がつくる理想の私をつらつらと並べて、それっぽい答えを出すこともできる。

でも、たぶんそうじゃない。私が求めていることも、今聞かれている質問も、そういうことじゃない。

私自身の皮をちゃんと剥いて、本心で思っていることを言葉にしていきたい。


無趣味であることが、欲がないことが駄目というわけではないはずだ。

自分を持っていることが、果たして良いことなのかも私にはわからない。

ただ、無欲であることは心地いい反面、自分の存在をないがしろにしている気もする。

最初から欲しいものがなかったわけじゃない。欲しい物や自分らしさを消そう消そうとしてきた。少し前に流行っていたミニマリストであろうという姿勢も、実は私という存在を、どんどん薄めてきたのかもしれない。


これからどうやって生きていくのだろうか。

感覚的に生きている人達と比べると、私は圧倒的に資本主義社会の産物な気がしてならない。

それはそれで生きやすい面も多くある。だけど、もっと自分を取り戻してあげたい。

自分の小さな声を聞いて甘やかして、私自身を喜ばせてあげよう。


でも、こんなこと書いているのも、人から言われて影響を受けた結果だろうから恥ずかしい。

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