三十一文字全通り一列に並んでこれは短歌の死骸

サークルのイベントに参加しようと思って家を出た。サークル員に「今日行きます!」とLINEしたら、「8日です…」と言われた。間違えていた。
恋人から「どこかで降りて散歩してみたら?」とメッセージが来た瞬間、たまたま停車していた駅で降車。しばらく歩くと、博物館などが近くにあるようだったので、行ってみることに。
博物館に入ると「プラネタリウムですか?」と訊かれたので、最初からそれが目的だという演技をして入場。そういえばゴールデンウィーク期間で、家族連れが多かった。大人の男、プラネタリウムで寝過ぎ。
プラネタリウムはかなり久々だったが、しばらくは行かないかもしれない。嘘すぎる。外に出れば本物の宇宙があるのに。
でも本物の宇宙は怖すぎるから、プラネタリウムが丁度いいのだろう。そういう日に来たいと思う。
その後、「岡本太郎美術館」に入場。まず野外に置いてある巨大な作品がすごい。常設展もすごい。芸術だった。「食」についての企画展では、最近読んだ『ダンジョン飯』を思い出した。食は、永遠に続く生命の饗宴である。
帰宅し、映画『太陽の塔』を鑑賞。最初と最後がヤバすぎる(悪い意味で)。監督は、本当に岡本太郎を理解しようとしたのか? この映画における唯一のフィクション・つまりどんな表現をしてもいい部分を、何故これほど陳腐なものにしてしまったのか。若く美しい女を使うな。どうして土器を投げたのか?(割れるだろ! 岡本太郎の芸術は、割ることじゃないだろ)ただの破壊は、芸術ではない。
荒川修作に近いものを感じ、調べると、やはり荒川修作は岡本太郎に気に入られていたらしい。何故今まで知らなかったのだろう。その流れで色々見ていると、私の解釈していた「死なない」理由が間違っていた可能性を発見。「天命反転住宅」に住むと、自分の肉体などに対して新たな可能性を見出せるから、天命が反転する、つまり死が生になって、死ななくなるらしい。「天命反転」って、そのままの意味だったの? 荒川修作がそう考えていたとしても、私は自分の解釈の方が好きだ。全ては原子であることを思い出せるから、人間にはそもそも死などないということを思い出せるのだ。

他人の作品を「くだらない」と窓から投げ捨ててみたい。本当は何をやってもいいんだよ。本当だよ。私は今、あなたを殴ってもいいし、キスしてもいいし、道路の真ん中を歩いたっていいんだよ。全部ウソなんだから!!!!!
原子以外の全てはウソ。

まだ夜は明けそうにない。
私にとっての夜明けとはきっと、愛に執着するのをやめることなのだ。
早く、愛されなくても大丈夫になりたい。でも永遠になれないかもしれない。
ずっと愛されないことがコンプレックスだった。周囲にはなぜかモテてきた人が多いので、まずこの前提を理解してもらうことが難しいのですが、本当にモテない人は存在するのです。最悪なことに、私は信じられないほど惚れっぽいうえに、信じられないほどモテないのです。人生のほとんどの期間に好きな人はいたけど、私を好きになった人は一人もいなかった。いい感じになった人、付き合ってないけど付き合ってるみたいな人(そういうことがあるらしいが、理解できない)もいなかった。約20年の人生の中で。
だから、私を好きになってくれた人が初めて現れたとき、絶対に私を一生忘れられないようにしてやろうと思いました。
次のチャンスは40歳かと思うと、絶対に手放せない。私は愛に飢えすぎているから。
愛は通貨。
フィクションであると分かっていても、無いと生きられない。できるだけたくさん欲しい。あった方が生きやすいから。
誰かを好きでいることが嫌だった。絶対に叶わないから。片思いは、台風が終わるのを家でずっと待っているような時間。
でも今付き合っている人が現れてから、誰のことも好きにならずに済んでいる。今のところ。
本当に助かる。
今までは一方的に好きになるだけだったから、これが恋かはわからない。でもその人のことは本当に好き。

先日、その人が言っていた。
「好きな人ができたら教えてね」
私は訊いた。
「そしたらどうなるの?」
「そしたらバイバイ」

バイバイじゃないよ。私を繋ぎ止めてよ〜

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