仏教って科学的だなと思ったこと

 人間は何も無いところにも因果関係を結ぶのが得意で、それは物語を受け入れやすいということだ。例えば高校野球なんかみんな好きだけど、事実だけ見たら金属の棒で玉を打ってるだけだ。そこに勝手にストーリーを見出して感動している。そんなこと言い出したら大概のスポーツはそうなんだけど、実際そうなんだよな。
 他にも神話というのは人間がどうやって生まれたのか、という想像上の説明であるけれど、神話を持たない民族はいないと言うくらい人間はその想像が大好物だ。共通の神話を持つことで、私達はこういうルーツを持った仲間であるという意識が生まれ、我々はこういう民族だと納得しやすいし、納得できれば団結しやすい。相手も自分もこういう人だとわかった状態に何となくなると、その中で共通の善悪判断みたいなこともできて、不思議な文化の誕生になったりする。
 しかし、現代文明は科学で成り立っている。科学というのは、神話のようなこうやって万物が誕生したのだというストーリー仕立てではなく、ただモノが存在する、というだけだ。事実を見つめることになる。青春の高校野球ではなく、年端もいかない男たちが金属の棒で玉を打っている、ということになる。遺伝子の生存戦略でホモサピエンスに進化してたまたま我々が生まれた、ということになる。でも人間の脳はどうしてもストーリーを見出していまう。物語としての神話があるわけではなく、法律という無機質な神話がある。文明は科学という事実で成り立っているが、みんな好き勝手な因果を結んで軋轢を生んでいく。

 つまり、みんな根本的には科学だとわかっていて(分かっていないのかもしれないけど)、人間社会はその前提でできているけど、人間の脳というのはそれでは腑に落ちないから、おかしな事になっているのだ。

 ここでブッダの言う原始仏教というのか、その話を少しすると、ブッダの言っているものは、宗教というよりも哲学である。生きていく上では、怒りや妬み、欲求や不安、妄想など悩みは尽きず、現代社会でもストレスが問題になり、心を病む人も多い。生きるのは苦しみであるというのは、誰しもそういう心に振り回されて苦悩することはあるよね、という共感からの言葉である。そういう苦しみから抜け出すための心の持ち方を、とても実践的に示したものがブッダの哲学である。宗教ではなく、心穏やかに生きるための術だなあと思う。その仏教的に言えば、人の心が勝手に作るストーリーは妄想である。ただそこに在る、という事実のみを正しく理解するのが妄想にとらわれない心の持ち方であって、その点で仏教は非常に科学的だと言えそうだ、と思いました。

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