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『雪国の春』 柳田國男が歩いた東北

*2021年4月朗読教室テキスト② アドバンスコース
*著者 柳田國男

東京の桜が開花間近、昼間は20度を超える予報の日に仕事で鶴岡を訪れました。新幹線で新潟へ、特急いなほに乗り換えて2時間近くかかる移動時間にうつらうつらしていると、列車の窓に雨があたり外の景色がぐにゃりと歪んで見えることに気がつきました(上の画像がその時のものです)。粒というよりは襞のように流れる雨の隙間から、波のしぶきがこちらへ向かって襲いかかってくるようにも見えました。そのとき、自分が「海」をイメージする場合のその「海」が常に太平洋であったこと(しかも凪のとき)、同じ「海」でも目の前の日本海とは姿がまったく異なることに気づきました。

本を読んでいればしだいしだいに、国民としての経験は得られるように考えてみたこともあった。記憶の薄霞の中からちらちらと、見える昔は別世界であったが、そこには花と緑の葉が際限もなく連なって、雪国の村に住む人が気ぜわしなく、送り迎えた野山の色とは、ほとんど似もつかぬものであったことを、互いに比べてみるおりを持たぬばかりに、永く知らずに過ぎていたのであった。

文字を追いさえすれば書かれた言葉を理解していると思っていたのが、そもそも自分が用いている言葉には生まれ育った土地の記憶が大きく作用しているのです。朗読をしていると「作者の意図」という言葉をよく目にしますが、作者の意図通りに文章を朗読することはこの場合不可能で、朗読する者の言葉、聴く者の言葉が、一つの文章を何通りにも広げてゆくのだと思います。

雪が解けて初めて黒い大地が所々に現れると、すぐにいろいろの新しい歌の声が起こり、黙して草むらの中や枝の蔭ばかりを飛び跳ねていたものが、ことごとく皆急いで空にあげり、または高い樹の頂上にとまって四方をみるのだが、今まで見かけなかった軽快な燕が、わざわざ駆け回って、幾度かわれわれをして明るい青空が仰がしめるのを、人は無邪気なる論理をもって、緑がこの鳥に導かれて戻ってくるもののごとく考えたのである。

滞在している数日のうちに鶴岡の天気は目まぐるしく変わり、山にかかった薄霞はその都度濃くなったり、流れていったり。羽黒山の随神門にふきのとうが花開いているのを、案内くださったMさんが見つけてとても喜んでいました。その本当にうれしそうな顔を見ていると、自分もつられて笑顔になっていました。

朗読教室アドバンスコースの始まりは、『雪国の春』を選びました。
自分の言葉が持つ土地の記憶、楽しい思い出、もしかすると悲しいことも含まれるかもしれませんが、ひとつひとつを「自分」の記憶として、これもまた「言葉」で解いてゆけたらいいなと思います。

*大正十四年一月「婦人の友」
*文中の太字は本文より抜粋

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