退職するまで転々と

相変わらずかの徳川施設長は、そのままであった。


終業時間の過ぎた真っ暗な外は、カーテンで覆われていたが隣の事務所とつながっている。今から言う事は数人には確実に聞こえるし、致し方ないと思わなければならない。


本当はこんなに冷静に言えなかったのだが、


「勉強と演奏と仕事の並行が難しく、一旦集中できる環境に身を置きたい」

「結婚準備も考えているので期間が欲しい」

「この度今年度をもって退職を考えている」

事を伝えた。


勿論の事だが資格とる勉強に一旦集中したらええじゃないかと言われた。その通りであるが、このときの私は「本番から一度でも逃れるともう舞台には立てない」と本気で思っていた。

学生ばりに下手したら舞台に立っていたし、酷いときは3日連続本番だった。当然上手くいくはずもなく、後悔は溜まっていった。

社会人には練習する時間が限られたものしかないのだ。舞台なんて全く関係ない職種からすると、無理しないと出れない。一度でも離れたらもう読んでもらえなくなるかもしれない事が怖かった。

おまけに土曜も出勤があれば遅出で疲れきったまま弾く日もある。練習が終わる頃には寝落ちかぐったりしばらく動けない。

土曜の休みがとれれば13時から16時半まで弾きっぱなしの伴奏が待っている。


とにかく休みたい一心だった。


そして、もうひとつ。結婚する説が濃厚になりそうだったからだ。それまでには本当にやりたかった事を、自由にする時間を作りたかったのが本心だった。結婚すればそんな時間はなくなるのだと思っていたから。


知人の医者からは「もったいないと思うけど」と言われたが、資格をとる道筋もこのすっとぼけのせいで伸びる事になった。教科を落としてしまったのだ。

おかげで儚い夢だった人生設計は上手くいかず、寿退社は無理だった。


どうとかこうとか、「お世話になったので申し訳ない気持ちで沢山だ」とか「勉強させて頂いて」とか「いらない所を雇ってくださって」とか色々付け加えて退職の意思をなんとか見せると、息子と同じ事を言った様に育児手当てとか言われたが、
「そうか...」とついに許可を得た。


純粋に、ほっとした。もうここから離れられる。



もっと自分の担当する施設にいた同僚を大事にしていたり贔屓にしていると思っていた。変わりはしないが意外にも何となく覚えてくれていた様だ。

「ああ、そういえばあの件はどうなった?◯◯さんの」

「あ?!はい、体調があまり宜しくなかった様で手術される事になり、お話が流れました。」

「ああ、そう...まぁ、幸せになりなさいね。何となく噂は聞いてるけど」


結婚の話してんのに今そのお見合い手前食事した人の話がくるとは思わず、驚いた。

残念だ残念だと言ってくれた言葉さえもう耳に入らない状態だった。




「言えた?」

「はい、無事許可貰いました」


「そっか〜〜〜〜〜〜ついにやな〜〜」


緊張感の欠片もない緩い感じで先輩方は椅子をギイギイ鳴らすと、ま、残り楽しんだらとか言われる。そうだな、仲が悪くなっても別に関係ない。こうなったら逆に積極的にかかわってこ。


どこかで退職前がいちばんイキイキ働けると書いた記事をみたがめっちゃ分かる。思い残さなくて良いし、思いきって喋るからハキハキした人とは喋りやすくなる。
てな訳で、退職を決めてから働くのは普通に楽しかった。


気が変わって退職する3ヶ月前を、勿体ないのを承知で非常勤にしてもらい、合唱の定期的な伴奏に務めた。


非常勤になって良かったのは、給料に目をつぶれば自由に働ける事だった。その上契約上、時間になると残業にならない様に帰りやと言われる。
とはいえ、仕事の量は変わらないのでキツキツではあったが気持ちは楽だった。

常勤という土台は揺らいでしまったが、沢山の人のおかげで私の役割は確かにこの施設に作られていたのだった。


詳しくは書かなかったがこの退職を決めてから、施設長(息子)の無茶b、提案や入居者の希望で曲を作る事になったりコーラス練習したりした。録音してフロアに流してくれたりしたが恥ずかしくて大きい独り言を言ってしまった。マダムに申し訳なかった。

短期記憶が段々失われている人が、私の顔だけは覚えていた。職員が困っているとよく呼ばれたし、宥めたり一緒にどうにかした。

色んな人の部屋にお邪魔したり、気難しい人が「あなたがやってる事、あれにこうしたらどうやろう」と助言をくれたり、「ありがとう」と言われる事が増えた。ただな、機材の持ち込みまで大がかりな事は出来ねぇんだすまねぇ...何故だかそういう提案する人は孫がすごかったりするんだよ何でだよ...

違う施設にお邪魔すると、「あ!うつぼちゃーん!」「元気?」とか言われるのは結構嬉しかった。因みにほんとに辞める1週間前辺りに、一旦破棄になった見合い話が戻るのではという瞬間があった。


「もう..良い人いるやろか?」

「はい、おかげさまで。その節は良い経験をさせて頂きましてありがとうございました。お加減良くなったみたいで良かったです。宜しくお伝え下さい」


そう、幸せにね、という会話を終えると、次の日にはトップの次の次に偉い人に頼んでギターを弾いて貰ったりした。音楽出来る職員を巻き込んだりした。

冗談も言えるので、エヴァ好きな上司に話す事も増えた。
因みに面接で救ってくれた人は慰安旅行でフィギュア代わりに見てくるわ、と写真を撮ってきてくれた。神かよ。

慰安旅行というとまた色々と問題はあったのだが、どん底2年目に行った慰安旅行で「先輩がこういくならついていくとか」「勝手な行動をするな」「先輩をたたせる」とか言ってた主任とは、逆に恐々話しかける事もなく普通に好きになった。口調キツいし怖かったけど。
前述同様、メガネ先輩曰く「仲良くしたかったんやよ」らしい。知らねぇ。

因みにその時は流石に嫌すぎて別ルートで行動したり、主任をガンガン避けた。おかげでお局様と行動出来たし、当時ガンガン強かったパートのおばちゃんとニコイチで回ってた。平和だった。


話を戻して、退職が近づくにつれて、同僚が担当している入居者さんにもその話は届いていた。同僚が担当しているのはまた別で、年齢がバラバラである。中でも歳が近い子がいたので、よく喋っていた。研修の時から知っているのである。

とはいえ、多分直接言った方が良いのは分かっていた。思春期真っ只中の繊細な子だったからだ。

お昼に時間を作ってもらって話をすると、何となくシュンとなっていたが、次の日にはいつも通りだった。


それから何日か後、「好きな曲ある?」と聞かれる。

うーんこの子のやった曲..いや、ここは

「糸かなぁ」


「そっか」と言われると、そろそろ部署に戻る時間も近づいて、その場を後にした。

あの日研修にきた自分がこちらに来ていて良かった。おかげで2つ分の施設の入居者の名前を覚えられたからだった。


月一で行われる対30人ごえも満員御礼で増え、日曜日というクソ提案も最近はなくなっていた。時々運動部的ノリノリ先輩や黒しゃべり先輩が通るので心強い。そういえば昔は新郎が通ったっけ。


1年目は枯れて声が出ず、ほぼ2年目すぎてストレスで喉が腫れ、通り越してよく通る声になった今、「歌の先生」と呼ばれる事に抵抗はなかった。実質歌唱指導も少しした。

認知が酷くても文字は達筆にかける人もいた。職員が驚いていた。

この人の、この人たちを、介助方法は変えたって入居者さん達をいっしょくたに見る瞬間を作りたくなかったし作ってほしくなかった。

他の同僚にも沢山助けられた。沢山人が辞める中、たくましく育ったのはほぼ私たちの代に入社したメンツであった。過ぎれば良いことも沢山あった。

多分どこかに書いたが、私はここの入居者も、部署も、先輩も、同僚も好きである。人がわかればマダムも課長も、主任も好きだ。全然働き続けられる。


唯一反りが合わなかったのは、頑固で現場に対して無知な施設長たちとこの絶対的支配下におかれてねじまがって変わらない環境だった。



非常勤になって2月になると、徐々に職員に辞める事を告げた。割とよくしてくれた先輩や後輩、非常勤の人達は驚いたり、寂しいと言ったり色々だった。

3月になると、理解が難しい入居者から辞める旨を分かりやすくなるべく繰り返し伝えていった。しっかりした人は1週間前にした。

良くしてくださった方ほど、私が辞めるとしても、どうしようも出来ない状況をあまり感じてほしくなかったからだ。

と、ここで話をまだ続けたい所で一つ問題と、出来事が生じた。




問題とは、後継ぎのことである。





私が退職願を出した事を最もお世話になった同職同僚に伝えると、一番先に後継ぎの話が出てきた。と、同時に同僚からも


「私も実は1年前に辞めようとしてて、というか辞めますって伝えてて」


と驚くべき事実を聞く事となった。え?!聞いてない!!


何となく予想はしていたが、やはり新郎が抜けたのは痛手だったらしい。その辺りに一度施設長に話に行った所、後継ぎが見つかるまではダメだと押し切られたらしい。彼女も人が良いのでその通りに出身大学から後継ぎを募り、見学に来て決まるかと思った所に音信不通になったそうだ。あ、あの人か。マジか。見学来てたわ・・・

ちょっと考えられなかったので彼女を不憫に思う他方法はなかったが、それ以降募集は募っており、加えて私の分も募ってくれる事になった。私の出身からも2名ほど出たのだが音信不通になった。


ようやく募集者が同僚の後輩から出た所で、3人見学に来てくれた。最初は同僚の施設へ行きその後は私の所へ来たが、同僚の様な専門学校も出ていなければ完全に私はたたき上げである。マニュアルとは・・・!!?


と考え付いた先に急いでマニュアルを作り、後にそれを他職種に自分のやっている事は何なのかという発表をさせて頂く資料にもさせて貰った。

流石に専門知識をかみ砕いで渡した資料を他職種のトップが発表を終わったと同時に「ね、うちの●●君もこんな事を頑張っていて」とレクリエーションの話をしだしたのには正直大丈夫かと思うしかなかった。


そんなこんなで一応後輩になるであろう子たちに仕事内容を見て貰うと、その系列の先輩にその情報が入ったらしく、何と同僚の先輩がこっちに見学に来られた日には恐れ多すぎて何も発揮すらできなかった。そのうえ避難訓練で待たせるだけの申し訳ない事をした。


一応順番に見学して貰って3人とも面接を受ける事になり、同部署の先輩方も混じって何度も話し合いをした。

正直言ってしまうと、3人中普通に頑張り屋さんなのは1人だけだった。あとの2人どうした。私より癖が強すぎないか。さしずめ昔の自分がそのまま大きくなってしまった人と、ディズニーの世界に置いてけぼりになった天然姫である。普通に1人は良いとして2人決めるとなるとかなりの覚悟がいりそうだった。

とはいえ、個人的には自分の跡継ぎに似た様な子を推薦はしたかった。逆に飛躍してそうなのは個人的に選ぶ対象から外れていた。何をするか分からないから迷惑をかけるリスクが上がるからだ。

3人の来る日が増える度に、その違いはハッキリと見えてきた。良い所も悪い所も、歳をある程度取ればこんなに客観視できるのかと思いながら見ていたが、それは挨拶から違ったことにも驚きであった。というか、今の子はあいさつもしない子もいるの?何で?損しない?


時は流れ試験と面接やらいろいろあったが、正直他人の評価は苦手だったので甘くつけていた事が後から分かった。だが、実技だけは譲れなかったのか、講評は辛く言う事にした。

個人的な要素で申し訳ないが、私がこの職で一応やってきた上で芽生えた信条として、決して自分本位でやってはいけないという事があった。全ては対象者に合わせ、寄り添って行う業種なのだ。てかそうでないと困る。

そこから見た目線でも、本質的に一番選ばなかった人がやはりそうだった。この子は多分、自分で表現する演奏者タイプだ。それは何よりも演奏してきた自分自身が確信を持っていた。この子と話していても集中していない。取り留めがない。確信をつけなければまず文章の書き方が物語でしかない。普通記録に絵を描くやついる?これ施設に提出するやつなんだけど、監査で読まれるんだけど!!??ってな感じである。

にも拘わらず、自分以外は同僚も先輩も「成長しだいで新しい風が吹くかも」と言った。


徳長施設長は一番良い人材を選ぶ。


結局普通の子はこっちを希望してくれていたらしいが同僚の後輩となり、私の後継ぎにシンデレラが迷い込んでしまったのであった。




さてシンデレラにガラスの靴のありかや作り方を教えるにも時間がないと思ったのは面接前の先輩方の評価を聞いた時からだった。


せっかく作っていた後継ぎ資料を簡素につくりかえ、先に作れる資料は全部作った。この子のスピードじゃ慣れても絶対間に合わない。打ち込むだけの資料の形を完成させておいた。名もない残業である。


早めには来て欲しかったがなぜか早く研修に行きたくてなるだけお世話になった自分の考えとは全く違いしぶしぶの形でそれまでに1度と1月から研修に来る事になった彼女であったが、何せ曜日ごとに違う事をしていたのにも関わらず、頑なに来て欲しい曜日に来てくれない。え、4回生だよね?

聞けば「レッスンは行きたい」だそうだ。



ごめん。分かるけど分からない。ここで働きたくて来たんじゃないのか?レッスン時間変えて貰えないの?


私の感覚でしゃべるからおかしいのか?不安過ぎていけるだけ研修見て貰ったけどなあ・・?そうかこの子のペースがあるかもしれないが、私は3月でもうここからいなくなるし、そうなると1人になるんだぞ・・・

そして焦っている理由がもう一つ、運動部的ノリノリ先輩が辞めるかもしれないという話が入ってきたからであった。後ろ盾がいなくなる前に、職員とこのシンデレラを少しでも関係性を気づいてつないでおきたい。でないとしんどくなる。この子就活で病んでたとか言ってたしな!!!!!


色んな気を回せば回すほど、仮採用された後の方が先輩方から「どう?」と姫について聞かれる様になった。これならまだ発言が強気でもお調子者でも、過去の自分みたいな子の方が良かった。ああいうタイプは頑固だけど、一度プライドを折れば時間はかかっても再生する価値はある。

でも、このタイプは掴みどころがない上に理解が独特でよく誤解するタイプであった。

日本語が通じない・・・というか、独特すぎて理解に時間が非常にかかるのである。

と同時に、言葉を丁寧に使おうとしている割に配慮がない。というか、他人に興味がない気すらする。入居者に嫌な思い少しでもさせて欲しくないのだが。


頑張ろうとすればするほど空回りしている私に「まあ落ち着け」「あの子が理解するやり方を考えるには、疑問形で意見を引き出してみたら」などアドバイス下さった大先輩方の言葉で何とか蘇って、そのまま指導を続けていく。

私の悪いと心と言えば、物事を簡単に理論立てて言えない所だろうか。彼女には沢山の量だったらしい。


なら、もっと、研修に、来るべき、だった、かな?


とかはもう言わない事にしたので、しまいには施設長にも心配されながら続ける。同僚は後輩のために既に退職を延長したが私はしない。言われたがしない!!!!!


と、職員に紹介しつつも限られた時間を何とか使って、あとは資料を呼んで分かる様に完成図のコピーも入れて他の職員にも声かけして貰う様に頼んでおく。無理なら先輩や同僚に頼むし、「何か絶対やっとかなあかん事あるか」と流石に先輩も声をかけてくれたのであった。退職前の一番の大仕事だったのである。


と、やっとこさ何となく意見も言ってくれる様になったかな?と言った所で、何となく嫌な気配がしているのにも気が付いていない訳ではなかった。明らかに覇気がないのだ。何しに来ているんだろう。というかそれで「研修費は」とか言うんだねびっくりいや出るけど待って。


そんなこんなで一応研修を終えた日には、一応は業務外も相談や話をたまに連絡する様になった。大丈夫だろうか。自分の退職が近づくにつれて、待ち望んだ開放感はちっともない。


それなのに「いなくなるので心細い」と言われた時に突っ込まなかった私をほめて欲しい。

根は、良い子なのだ。



さて、バタバタの研修もさながら3月に入ったと同時に、

「送別会するか」という話を先輩がしてくれた。


ありがとうございます、と答えると、とりあえず肉食うかという流れのまま、また日が決まったら連絡するわ。と言われる。


この時期は仕事以外に、コンサートの練習やレッスンも本番3か月前で詰まっていたが、これは行きたい。ごめん。と思うも、その合わせも中々色々あったので丁度良かった。


その晩、電話で新郎に送迎会の話をすると「じゃあ帰り迎えに行くわ」と言われる。基本自分はずるい頭なので「あ、じゃあそのついでに同僚の家に泊まったていでそっち泊まれるな」とか思いながらお願いしようか迷っていると、じゃあ行くからと決められて終わる。


翌日、「そういや帰りどうやって帰る??送ってこか?」と言ってくれた運動部的ノリノリ先輩に、

「いや、あの、迎えに来てくれるので」と言ってしまったのも運の尽き、


「じゃあ呼ぼうや」と言われ、新郎も参加する事になった。

前の部署メンバーが集結する事になり、まさかのここで黒しゃべり先輩と同僚の前で二人で登場する機会を作る事になり、過去の話にも花が咲く。

いや普通に楽しかった。


そんな楽しい時も一瞬で過ぎ、いじられながらも名残惜しいほど有意義な時間を過ごさせて貰った私達は、お開きになると予定通り新郎の家に向かう。

何というか、普通にしゃべってゲームしてといった具合であったが、これは正解だったと思う。そして、私は完全に油断していたのであった。


時は2020年。3月11日には付き合って2年目を迎えていたのだった。



翌日はお互い休みを取っていたのでゴロゴロしていた私達であったが、いつも通り遅起きするとまだ眠たいすっぴんのまま、目をこする。

新郎の家に行くとたいがい新郎がご飯を作ってくれるので、何か手伝おうかなとまだ床の季節外れのじゅうたんに座り込む私であったが、そこである事が起きる。




「あの、うつぼさん」


「ん?どしたん」




新郎の手には、真っ白い箱があった。


「はっ!!!???!!!??えっ!!今????あっすっぴん!!!どうしよこんな顔で頭で服・・・」


眠気が一気に覚める。もしかしなくても直感はそうだと言っている。

いいよ、そのままの日常で渡したかったからとロマンチストが顔をだすと、



「僕と、結婚してください」




開かれた箱からは「星に願いを」がオルゴールで流れ、リングを引っかけるもの思われるキラキラの棒と、可愛いピンクのバラがドライフラワーになって飾られ

「Do you married me?」

と書かれていたのであった。



婚約指輪は元々いらないと言っていたので、箱だけだと言われた。充分だった。


だとしても、私は顔をしばらく挙げられなかった。

結婚はしたかった。プロポーズも望んでいたはずなのに、中々返事が出来なかったのだ。


それは一重に、自分の人生を一生この人に捧げる覚悟があるのかという大いなる決断を迫られたプレッシャーからであった。

ご飯を作れるだろうか、洗濯やお金の管理、子どもが出来るなら子どもの世話、それを親を気にしながら出来るだろうか。住居は?伴奏は?退職したけど?年齢的に考えたら逆算して・・など、色々考える事は一気に降りかかった。


それでも、やるしかない。この人なら、見捨てはしないだろう。


ここまで来たんだ。腹を決めるしか、ない。



「よろしく、お願いします。」




2020年3月12日。大きなプレッシャーへの決断と幸せの絶頂を味わったその日は、偶然にも私が思うに親友の誕生日であった。




とにもかくにもどうもにもいたたまれなくなった私はとりあえず、告白された後の様にお誕生日おめでとうに付け加えてついでにプロポーズされた事を伝えたら、ついでどころじゃない的な返事が返ってきて笑った。



どんな時も連絡出来る友人がいるのは、とてもありがたい事である。

あ、迷惑な時は返さなくて良いからね。




テンションが上がってしまって先輩にその旨を伝えた後は、時が過ぎるそう度も上がった。


退職1週間前。


今日から最後まで通常勤務なので、入居者さん全員に日ごとにお別れの挨拶をしに行った。

中には「まあ寂しい」と言うマダムがいたり、涙ぐんで「そうですか」「またいらして下さいね」と言ってくれる遥かな先輩や、「そうでっか」と割とあっけらかんな人もいた。男性の方は背中が寂しく見えた。

印象的だったのは、ゆっくり喋れば理解できる麻痺の人や何となくぼやけている人がボロボロ泣いた顔だった。この人達だった、よだれはたれてても元々クソ賢い知識人である。「ありがとうございました」と丁寧に言われた。認知が一気に進んでしまった人ですら「ああ・・・ああ・・・いやや」と言われてしまったので、さようならがいけなかったのかと思い、「またね」と言ったら落ち着いた。既に話せなくなった人ですら、涙だけ零れていた。


その中でも特に印象に残ったのは、言葉を喋れなくなったマダムだった。


1年目から必ずこの人は話を理解していると思って、話しかけながら一緒に歌っていた。行動で多分こうかな、とか本人に聞きながら接していた人だ。返事はしてくれる。

「私、今月で辞める事になりました。今まで長い間ありがとうございました」

と伝えると、その人は声を上げてイヤイヤと首を振る様に号泣したのであった。


やっぱり、会話が完璧に伝わっていた。と、確信した瞬間だった。



自分まで泣きそうになりながら、その人の手を取って肩を叩いて、「私の後継ぎが4月からは来ます。また、仲良くしてあげて下さい。よろしくお願いします。お元気で」と言うと、マダムは泣き顔のまま握手してくれた。

ずっと一緒に歌ってきた、失語症の方だった。


ちなみに言うと、もう一人の失語症のマダムも「さようなら」で涙していて、単語の理解はしているのだと判明した。



この1週間は泣きそうになりながらも今までより心を込めて業務に努めた。


そして最終日が近づくにつれて、職員全員に小さいメモだったがメッセージを書いて机に置いていった。主任たちには手紙と挨拶を無事終えて、お世話になった別の部署にも挨拶して、やれる事はやった。


ふうと一息ついて部署に戻り、「ようやく、終わったな」と運動部的ノリノリ先輩から言われ、机の整理を始める。

「後継ぎの子を、どうかよろしくお願い致します。何かあったら連絡下さい。」


あとは無事に続いてくれれば。と思いながら、退職も迫る最終日の昼休憩の事だった気がする。


同僚から呼び出されたのだ。



「はーあーいーー」

なんて緩く登場すると、そこには思春期ガールがいるではありませんか。研修からお世話になってるね。ありがとう。

何て思っていると、どうやら手紙を読んでくれるらしい。

その内容には寂しいとか、楽しかったとか、色んな感情が混じっていてとても素直だった事を覚えている。後からその手紙もくれたし、今でも仲良くしてくれている。

そんな彼女が、私の好きな曲を必死に練習して、演奏してくれたのだった。



自分だけのために、こんなに必死になってくれたのか。


ただ、ひたむきな気持ちに思わず泣きそうになった。この職場に勤めて、一番心が温かくじんわりとなった瞬間だった。

ガールはいつもこんな気持ちで人を送り出しているのか。とも思った。


演奏を終えて、また一言言ってくれると、私は非常に何かお礼がしたくなった。そして誰のためでもない、彼女だけに捧げる、彼女の好きなSMAPを自分勝手なんか1ミリも思わないで弾いた。

彼女は少し泣きそうだった。とても幸せな時間だった。


そんな幸せな時間も、あっという間に過ぎた。



さて、あとは記録を書いて退勤するのみだ。


施設長からは、職員が書いた色紙と花束を貰った。ありがたく受け取った。どこからか結婚の噂が流れ、上司からお布施を貰ってしまった。

職場の他部署ではあったが、お義母さんやお義父さん的な存在、そして心を許していたマダムとは未だに連絡を取っている。お義母さんは最後に手紙をくれて、「コンサートに行くからまた連絡してね」と言ってくれたし、実際お義父さんも来てくれた。ありがたい。

職場で見た姿ではなくて驚いたとただひたすらコメントしていたが、片方は墨絵も芸術にたけているお方である。またすごい人物と出会えた。


気分も良い所でこのまま、さあ退勤するかと書類を確認し終わった所で


最後のお茶濁しが起こる事なる。



指名で呼び出しがあったのだ。






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