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4年間の現場から

どの仕事も、どの職場も、働く上で何も楽しいことばかりではないと思うし、大変だったからこそ喜ばしいこともあるのかもしれない。





今はもういない所の話をいつまでもしている自分にも嫌になってくるが、今でこそ分かる視点もあったので・・・と言いたい。




今はある意味同じであり真反対の現場にいるものの、高齢者介護の仕事に曲りなりに、たったの4年だけれども関わっていたことがある。


長年携わってきた方より勿論視野は狭いだろうし、慣れていない事もあったから浅くしか伝えられないかもしれないが、それでも感じたことや分かった現状が沢山あったので書いていこうと思う。




これを読んで下さっている方は、自分の家族を施設に入居させることを選んだ人に対して、どう思ってらっしゃるだろうか?そして、自分の家族が認知症になった時、施設入居を考えておられるだろうか?


色々な考えがあるのだと思う。介護従事者で自分の親を自宅で見ておられる人も職場にはおられたが、何とも大変そうだった。かと言って、いざ現場を見ると自分で頑張りたい、と思う方もいるかもしれない。

あくまで私が働いていた現場からの視点なので違いもあるだろうが、ハッキリ言って現場は常に人不足で質の低下が否めなかった。そして何と言っても施設の方針と上司の質にギャップがありすぎた。いわゆる「昔ながらの職場」が故にその原因もあると私は考えているが、それは少しずつ話そうと思う。


施設に入居される方は認知症が主であったが、フロアによって軽度と重度の方で分かれていた。

何故かというと、動ける人は脱走する事案も大いにあるので、フロア移動の際にはオートロックを随時確認して施錠しなければならない。本人自身に入居している理解があるか、何となくでも部屋からは出てはいけない理解があるか、危険予測が可能か等によって対応が変わってくるからだ。


認知症にも色んな症状があって特徴や、種類がある。

正直軽度だからといって油断は出来ないし、重度だからといってどうとか言うのは介助方法だけだろうか。軽度のフロアでも重度のフロアでも、フロアを出たい人の対応に追われた時も勿論ある。立っていても車いすでも関係ない。そして出たいがあまり気持ちのコントロールが効かないので力も鬼ほど強い。


両者には「出たい」思いは同じでも、決定的な違いがある。

「出たらダメな理由」が分かっているか、分からないかだ。


入居者やご利用者について

中でも毎回身構えるのは、急遽来られた方だ。

大体そういう人は何故施設に来たのか分かっていない人が殆どだったりするし、家族が困っていたり何等かの問題を持っている。家族と絶縁状態や環境が悪化して人間不信みたいな人もいる。


故に、介助させてくれなかったり、下手すれば怒号と手足がとんでくる。


そして、何よりも対応で精神的にくるのは言い方がキツい方と、立って歩ける方と、精神病を併発した方である。

表面だけで言えば、どの人だって各性格があって、話し方が語彙の増加と人間、地域含め置かれた環境の中で確立されていく。だから、症状に関係なく「どんな人か」と観察していく事は大事なのだと個人的には思っている。

今更ではあるが、介護に関わるものの所属はリハビリ寄りの思考だったので、対象者として分析し、関わっていたにすぎない。

そしてそれが分かると、「元の性格」「どんな人」かイメージが立つにつれて、「今の状態」がその性格のままなのか、認知症や施設での生活があれば、何が原因でどこが変化したと考えられるかが分かってくる。


その人の本質が見えて初めて理解して、キツイ言葉が受け止めながらも感情部分を受け流せるようになるのだと自分は思っている。

介護の現場で、1年目に「話は真剣に聞くだけじゃなくて、適当に聞き流す箇所も必要」と言われたが、人間関係を構築する職種でもあっただけにそれだけでは納得いかなかった自分がいた。浅い関わりにか求めてなくてそれで大丈夫な人もいれば、私だって人間なのでキツイ言葉を言われると普通に傷つく。

おそらく、そのショックを和らげるためにも「何でそんなことを言うんだろう」と考える様に癖つけたせいだとも思うが、その時にカッとなって怒ってしまうよりかは数億倍良いし、「アンガーマネジメント」よりの思考に近いのでは?とか思っていたりする。6秒で収まらない感情もあるとは思っている。


と言いつつも、人によっては根気よく関わっていると覚えてくれて不愛想でも返事をしてくれる場合がある。何となくの経験ではあるが、何を言われても「ああ、今怒ってるのか」「今の言葉はキツいと感じたな」と自分を客観視することで感情的になりにくい。感情や表情を崩しては、相手にも影響を与えてしまうからだという考えからだった。

どんな時も穏やかに。落ち着いて話す事は、興奮したり不安を抱える高齢者の方々と関わる上でとても大事な事であると考えている。


長くなったが、「立って歩ける方」はいつ、どこにいるか、何をしているか、外に出てないかと常に介助側が視野に入れ場所を把握しておく必要があるため、気が抜けないが故に、介助者側の負担がデカい。

このタイプの人にも色々いるが、喋れて歩ける人、認知症の進行で怒りっぽくなっている人、元々言葉の荒い人、体格、歩けるがおぼつかず転倒の恐れがある、理解力が低下しているなどのデバフがかかる事で介助レベルが上がる。

「立って歩ける」という事は本当に素晴らしい事であると思う。だからこそ、油断が出来ない。足が達者なのは良いと思う。健康的で。


さて、それに認知症の特徴が出るとどうだろう。まず、短期記憶が低下していた場合に、今所持している昔話を繰りかえしたり、聞いた事や会った人を忘れてしまう。


すると、まず「ここはどこだ」と尋ねられる。

何故来たのか。俺は家にいたはずだ。仕事に行かないと。バスで帰る。電車がなくなる。遅れてしまう。妻が待っている。と、声を荒げられる人もいる。


想像してみて欲しい。

私たちが、何も知らされずに知らない場所に来て、出たらダメだとか、帰れないと言われたらどうだろう。家に帰りたくなるし、家族に会いたいと思う人もいるだろうし、不安になるのではないだろうか。


認知症の方の「ここはどこだ」「帰りたい」は、そんな感覚だと思うのだ。


さて、対応に入る。入らなかった場合や曖昧だったり、理解できにくい返事をしてしまうと、余計に混乱や不安を読んで「ここから帰る」「出せ」となってしまうからだ。そういう人は重度のフロアにいらっしゃるのでむろん、鍵は開かない。閉じ込められた状態である。

「ここを開けてくれ」

鍵をガチャガチャ力づくで壊そうとされる方もいるので、それは体格の良いおやじ様であろうが力の強いマダム車いすのであろうが止めないといけない。先に言ってしまうと、車いすの人を止めるのは結構物理的に痛い。


そんな時に、「ここは〇〇で」と言っても、施設と分かる人もいる。分かった上で「何でこんな所にいるんだ、まだボケてない」と地元出身の方で分かる人もいる。相手がどこまでわかっているか、動けるか、現場は常に情報把握と先読みで対応の仕方を瞬時に考えなければならない。

が、短期記憶は無慈悲にも消えることを忘れてはならない。

対応は1回ではない。同じ対応を1日に、下手したら30分対応にかかっても1分もたたない内に1から再びしなければならない。


大抵の対応は「お電話したら、今来てくれてるみたいです」「今日はもう夕方でバスがなくなったみたいだから、泊まっていかれたら?」「美味しいご飯ができたのでよかったら召し上がりませんか?」「お部屋を用意したので待っていただけますか」「お待ちの間、〇〇しませんか」とか、帰りたい気持ちを受容しながら別のものに注意をそらせるか試みる。

「今じゃないとあかん」


と言われる方もいる。力では勝てないし、無理にとめて転倒もダメだ。そんな時はまず一人で対応しようとしない。職員に代わって貰ったり、私の場合は職種特有で「歌」を活用したり、昔の本や写真を常に持ち歩いていた。

不思議なことに、その時の気分はあれど、「歌」自体を拒否する人はいない。字が読める人なら歌詞カードを持っていき、若さもフル活用して孫の様に「これ作ったんですけど、分からないので教えて欲しいです!」とか言いながら一緒に歌ったりしていた。


一瞬だけでも、歌に触れる人の顔はとても穏やかだった。その人の職業を聞いた日には仕事の話を聞いたり、よく乗った電車を聞いたりして話した。昔話は、認知症の方にとって思い出の宝箱の様に沢山希望にみち溢れていた。

話が終わると、また顔つきが険しくなっても、その瞬間は対応に入ってない職員、介護従事者にとっても貴重な業務出来る時間にもなるのだった。


フロアに複数いる介護従事者でも交代して対応にあたっているのに、これをお家で介護してお世話されている家族の方は本当に大変だと思う。「自宅介護を推薦」という人は、私から見てよっぽど介護に慣れているか、元々よく動く人か、お世話が上手な人であると思っている。


が、まがりなりにも介護に関わっていた身としては、家族の介護が必要になった時には、父以外は自宅介護が可能であれば短期入所だけ利用はして、自宅でと考えてしまう。

というのも、部屋の個室や集団部屋利用は金額やなんやによって変わるにしても、施設は基本集団生活として介護が入る。


という事は、手厚い介護が受けられないことが殆どだと考える。というか、私がみた現場は介護者によって差が大きく、自分はここに家族を入れたくないと思った他大きな理由がないからだ。

業務に入る範囲では個人の願いも聞き届けてくれるが、基本施設によって介護の質がどうかはかなり変わってくるかと思っている。介護の仕事にも、着替え介助、オムツ交換、入浴介助、食事介助、シーツ交換、洗濯、食器片づけ、掃除、見回り・・の他にも書類や、書ききれない業務がこまごまとあったりする。イベント制作やその介助も入る。各人の要望が来ても、対応しきれないのが現状だと思う。そこに褥瘡予防の体位変換や、誘導、職員の質の向上として指導のなんちゃら・・・となるとパンパンである。


あと、個人的な意見ではあるが、介護者には絶対的な優勢な立場がある。下の世話をし、お世話をして、重度の方で寝たきりだとそのまま体重増加になる人もおり、車いすへの移乗は完全な肉体労働。ただでされはがれやすい皮膚に毎日の風呂ではないし汚れの溜まる身体。衛生にも気を遣う日々。

そして、介助される自分が理解できずに入居者に介助拒否されるとあれば、仕事と言えど傷つきながら働く方もいるのかもしれない。

それが職場の人手不足で相談も出来ず、愚痴となって溜まり続けばどうなるか・・・・・絶対的な優勢の立場から、入居者に優しく出来なくなってくるのである。


これは介護だけの問題ではないと思うが、結局けがをしたって認知症になったって入院したって大事にされるのは「感謝できる人」と「自分で動ける限りは危なくない範囲で動こうとする人」なのである。介助者の目線から言うと、「介助が軽くで済んで、何かしてあげようと思える人」でもある。

介助者からして一番しんどいだろう事は、拒否されて怒号を飛ばされながら暴れられる中で介助する事だ。認知症の進行で何をするのか分からなくて怖い、とそうなる人が殆どなきはするが、まれに分かっててされるのが嫌という人もいる。軽介助の人で見かけた。


「何のためにやってるんだろう」と呟いた職員が、印象的だったのを覚えている。


出来る限りは、命続く限り自分らしく生きて欲しいというのは勝手な願いでもあるが、関わっているのは他者である。怒号はやめてあげて欲しいとは思っている。(病気や症状の進行で急激に動けなくなった人は別にして)


あと、「趣味」は強い。趣味は自分らしさにつながる。何だって良い。自分が熱くなれるものがあれば、それだけでただ歳をとって老いて毎日が流れてむなしくなることがないので、本当に趣味を楽しんで欲しいと思う。


ただ、プライドがある人もいる。理解も出来る。恥があるという事はまだ「自分が女である」「自分が男である」とか、「理性」が働いている証拠なのである。だから、配慮する必要があるが、逆に出来るのにしない人や、して貰う事に喜びを感じる人すらいる。うちの父の傾向だ。そういう人は忙しい現場からすると「怠惰」に見られてしまうのが現状である。


オムツいいなあ、なんて言われた時にはゾッといて思わずドン引きしてしまった娘である。介護者に謝って欲しい。


しかしどんな形であれ、昔の元気な姿を知っている身内ほど、精神的にもしんどい事なのだと理解もしているし、そういう人の為の支えになる機関がある事ももっと知られて欲しい。



さて、まだお話していなかった認知症に精神病が併発するケースだが、流石にこの方に関わるのは知識を得ながら関わっていった。薬を飲んだ日、周期、どの種類をどの程度飲んだか、調べながら聴きながら関わっていったが、私がいた施設でのそういう方は、入院して薬が入ると落ち着くというよりかボーっとして帰ってきた印象だった。

職種からの目線でいくと、正直介護に手はかかるだろうが飲まないで欲しかったと感じてしまう時もあった。何より、その人らしさが一切失われて帰ってきた気がした。でも、本人としんどさと家族のしんどさを考えると、良かったのかと考える他なかった。

が、久しぶりに見舞いに来た家族に何の反応も示さないその微妙な空気を感じ取ってしまった時が、一番嫌だった。個別で関わってきたからこそ、車いすから怒って立ち上がったり少しの音でも怒り散らしていたり、話がつたなくてまとまりがなくても昔の小さな子の話をしていたり、やっと小さな音量に慣れて少し上げてみたりしたあの瞬間の方が、もっとその人が「生きて」いた気がしたし、歌を歌ってくれた。

それでも、自分の出来る事をしたつもりではあった。取り留めもない同じ言葉をつぶやいて徐々に寝たきりになった彼女が、ようやく笑って少し『ふるさと』らしき歌を一緒に歌ってくれたのを、今でもハッキリと覚えている。


もう一人の方も、認知症軽度ではあるものの、言葉が出ないために叫び倒す人だった。車いすで隙を見て出ようするが、頷くものの理性が働いていないタイプである。

身体的にもバランスがとりにくく危険で見守りが充分出来ないため、ベッドに寝ころぶ時間が増えたために機能が低下したかたではあるが、大体このパターンはあったりする。


「見守りが充分に出来ない」


つまり、介護現場がそれだけ充分に回っていないという事か、危険予測のため介護側にとって安全策をとった結果である。

けがをさせてしまうと施設側の責任になってしまうので、先に予防線を張る。別にそれが悪いとは思わない。でも、頑張れば出来た事を出来なくさせてしまうリスクがあるという現場の意識はそこになかった様に思えた。

「安全に見ていられる」そこ一点である。


そこにいち早く気づくのはリハビリの先生である。と言っても、先生だってずっとその人を見ていられる訳ではない。それどころか一日で多い時は全入居者のリハビリをしてノルマを越さなければ施設の利益にならなければ仕事していないとされる。国の方針もある。実質同等に忙しい。

だからこそ、生活を見ている介護側で、介護の際にリハビリで行った動きの「復習」という形で行えれば最高なのである。が、そこまでの余裕と、重要な「実行意欲」がなければ達成されない。


結果的に、それをよし、としか出来なくなってしまう。


他職種連携。業務遂行の向上を目指し入居者と職場の環境を快適にするにはこれ以上にない大事なことだと思っている。報連相もその類である。


が、それがなされないと当然、機能の維持は望めない。故に、介助量が増えて余計に介護従事者の負担になってしまうが、そこまでは気づかないらしく目前の仕事をこなして新しい事は中々しない定着させないのが私のいた現場で同じ部署の先輩も同期も新入社員もやめていった原因の1つだと思っている。


そして、何より上司が長年凝り固まった「絶対施設長」みたいな派閥だった事も、原因だと思う。会議という名の施設長の語り会か、上司の「私は絶対」とか、威圧と感情のふり幅が凄かった。意味がないし気分に付き合ってられない。


ハッキリ言って、現場が回ってない介護施設に行っても認知症や他症状が悪化して寝たきりなってそのまま・・・と言ったことは容易に想定出来てしまうが、(年齢やそれに応じた老化も勿論あるが)そうなる人は大体家族が面会に全然来ないか連絡がつきにくい、絶縁状態にある人が多い気もするので、将来施設を利用されるにしても、多くはなくていいので定期的に会いに行ってあげるのは大事だと感じる。

その際に、お洋服や下着はシーズンに合わせて着替えやすいものを持参いただけるとご本人様のQOLが劇的に上がる。服装を見れば、家族にとって大事にされているか、介護者にとって大事にされているか、案外すぐに分かってしまったりする。

なお、その際は介護者が着替えさせやすい下着や服装の特徴がある。どんなのを買えば良いか聞いて頂けるととても、超ありがたがられると思う。着せ替えにくいものは不評であるし、多分洗濯機で回せられる素材の方が良さげである。間違って毛糸を普通に洗ってしまう職員を見たからである。


介護現場の話は、時々介護従事者の記事からいくつも見られるが、同意出来るものが多い。浅い経験の自分でも特に認知症高齢者の対応に関しては、今日はシモの話は軽くだけにしたがもっと壮絶である話も同意しかない。


時々家族様からもっとちゃんと見てくれとお叱りを頂く事もある。


が、そういうのは本当に時々しか面会に来ない人が多い様に思う。



私が思いつく限りでも、


歩けないがふいに立って歩こうとする人(絶対にこける)

椅子を持ち上げようとする人(絶対こける)

知らない間に歩いている(歩けるが途中で止まって危ない)

椅子をずらす人(絶対落ちる)

体幹がなく、車いすからずってくる人(定期的に上げないと落ちる)

ずっと文句を言ってる人(軽度の人から怖がられる)

叫んだり急に何か言う人(他の入居者も不穏になる)

耳が遠くてもの凄い声量の声で話す人

外に出ようとする人、出る機会を伺ってうろうろしている人(捜索願対象)

怒り続けている人、静かすぎて生きているのか時々確認しにいく人

知らない人の部屋に入る人(行く部屋が決まっているサイレントアサシン)

部屋をトイレだと思っていたしてしまう人

ベッド柵を抜いて起き上がろうとする人(力持ち)

拒否が激しくて声だけ聴くと虐待に聞こえる人(介助困難)

手足が動かしにくくてものを零す(手や服が常にベタベタ)

異食(糞尿関係なし)

親切という名の事故(飲み込めない人に自分のおやつをあげようとする)

暴言、暴力(いきなりとんでくる)

糞尿を触る

よだれが止まらない(口が開けっ放し)



まだまだあるが、こんな感じの人が同じ30人ほどいるフロアに集結されている。それを、職員が足りない施設は2人や夜間は1人で見る時間もある。介助者のせいだけではない。環境の問題だし、方針の問題だし、もっと大きなものだと思うのだ。


介助者は常に、転倒リスクのある人が立った瞬間にそばにいって「どうしたんですか?」と声をかけて座って貰ったり、柵を外しそうな人を見に行ったり入居者の仲を取り持ちながら、配席も考えてそこに短期入所の人が楽しめる様にも時々お話したりしている。外に出そうな人がいる時は、オートロックから視線を外している間に外に業務に出る。


私の4年間でもこれだけ濃密な内容が、今後少しでも従事者にとって、家族様にとって、何より認知症の方々にとっても良い環境になる様に願っている。






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