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2021年夏愛知北陸周遊旅行(2日目/大垣→敦賀→福井→金沢)

1日目の行程はこちらから

2日目の行程

宿泊地の大垣を出発して、まずは戦前には日本海側の玄関口として賑わった敦賀市内を観光。それから北陸新幹線の開業で特急街道もとうとう余命いくばくかという北陸本線を最後に見届けようと、普通列車で乗り継いで金沢駅まで向かう行程になる。

敦賀市へ

朝6時に起きて、まともに朝飯も食べずにそのまま大垣駅へ。大垣から米原までの東海道線の本数はそこまで多くはない。北陸本線との連絡を考えて敦賀まで10時よりも前に到着する列車は実はそこまで多くはない。

311系を引いた

たまたまだが運良く311系に乗ることができた、主力の313系が登場する前に、新快速を中心に充当することを想定した車両で、117系の後継に当たる車両として開発された。最近は専ら普通列車運用ばかりらしく、とうとう315系が導入され313系も徐々に置き換えられる車種も出てくるとなれば、この車両の余命もそんなに長くはなさそうだなと思われる。

117系、2011年12月、米原駅にて撮影

あいにくの雨であるがギリギリ敦賀は曇で留まってくれる予報である。
そんな期待を胸に米原駅で乗り換える。

交通の要衝、米原、東海道本線と北陸本線の交差点

もっとも、すぐに長浜駅で乗り換えとなってしまう。長浜駅も、鉄道の歴史を語る上では外せない街で、その昔鉄道がまだまだ官設鉄道と呼ばれていた明治時代、名古屋から京都の間で全通していなかった鉄道を補完するべく琵琶湖に鉄道連絡船が設定されたことがあり、一旦は長浜まで名古屋方面から線路を伸ばし、長浜~大津間は琵琶湖の水運でしばらくは鉄道の代替をさせようとしたのである。その当時、長浜まで伸びてきた鉄道駅舎が、長浜鉄道スクエアの建物として現在も長浜駅のすぐ近くに佇んでいる。その長浜鉄道スクエアでは、琵琶湖の太湖汽船の歴史はもちろんのこと、日本の鉄道の歴史、それから北陸本線の開業から電化の歴史までを取り扱っている。一度高校生の頃に立ち寄ったことがあったので、今回の行程上ここに寄っているとどうしても崩れてしまうので、またの機会に再訪しようと思う。

2両編成に乗り換え

北陸本線を乗り継いで行く。近江塩津駅に到達。ここからトンネルを抜ければ敦賀に出られるが、県境を越える普通列車は案外少ない。

爆速で通過するしらさぎ

特急列車や貨物列車の通過をやり過ごして福井行きの始発列車に乗車。一路敦賀へ向かう。途中で長めのトンネルを貫き、新疋田という駅を通る。この駅のホームでは行き交う列車の撮影にうってつけだったりする。筆者も10年以上前、部活の合宿で寒い中ここまで撮影に行った記憶がある。とてもその日は寒かった。
当時はコニカミノルタとして合併する前に販売していた親のお下がりのコニカ製のデジカメを使用しており、シャッターを下ろしてからの撮影までのラグが強烈だったり、中学生故撮影技術が拙かった。そんな時代の写真を少し紹介しておこうと思う。

683系しらさぎ
223系
EF81 114号機、トワイライトエクスプレス

そうだ、昔は寝台特急もこうして普通に走っていた。撮影をしててとてもおもしろい路線だった。曲がりなりにも最後の黄金期を自分のカメラで記録できたことは一生の思い出である。

新疋田といえば、無印の疋田駅があったんじゃないかと感づく方もいるだろう。そのとおりである。現在の新疋田駅を通るルートは新しいルートであって、もともとは近江塩津から敦賀までの区間は険しい山越えの区間で、山を迂回するルートを取っていた。それでもなお勾配はキツく、碓氷峠ほどではないにせよ、そこそこの難所だったそうだ。その難所を越えるべく、DD50という重連前提での運用を想定したディーゼル機関車が製作されていた。そこらへんの歴史については、この後訪れる敦賀鉄道資料館の展示が詳しい。

敦賀市内観光

敦賀駅に到着した、実に11年ぶりだと思われる。あの頃は寝台特急から特急、新快速までバラエティ豊かな車両がやってくる駅だった。今では特急はサンダーバードとしらさぎに限られている。おまけに新幹線の高架まででき始めてきている。

特急列車の編成案内、新幹線ができれば無くなってしまうのだろう。
まだまだ特急街道としての貫禄を残してはいる

今回の敦賀市の訪問の目的は、敦賀鉄道資料館・赤レンガ倉庫がメインである。そして昼にソースかつ丼を喰らって出発しようと考えていた。
市内循環の観光バスがあることにはあったが、少し早めに到着したので、徒歩で鉄道資料館に向かうことにした。

駅前に動輪がある
道中にある公園では小浜線で使用されていたC58 212号機

氣比神宮のあるところまで只管アーケードのある商店街を練り歩く。正直自転車を借りるべきであったと後悔したが、まあ時間には余裕があるのでゆっくり廻ることにした。観光客向けの案内板には、ロシア語も混じっている。

敦賀は、戦前には大きく賑わった日本海側の玄関口であった。特に、蘇聯の浦塩に向かう玄関口は、今でいう新潟ではなく、こちらだった。今では北朝鮮の領土に編入されてしまった元山・羅津にもここから行くことができた。戦後もソ連からの北洋材を輸入する港としての役目はあったが、日本海側の国際港としての地位は相対的に低下していった。

敦賀港駅舎、現在の鉄道資料館

港のあるところに鉄道は伸びていた。列車から降りてすぐに乗船できるようになっていた。その昔の敦賀港駅は、資料館に転用されていた。ここは無料で見学することができる。

かつて北陸本線で活躍していた機関車のプレート

在りし日の北陸本線の軌跡、敦賀港の支線と米原~敦賀までの険しい山越えの区間を中心に、北陸本線の開業から現在までの歴史についてを扱っている資料館である。

こじんまりとした資料館の見学を終えて、次に赤レンガ倉庫の見学に向かった。横濱ほどではないにせよ、国際貿易港であった敦賀は、石油会社の倉庫も抱えていた。その倉庫を再利用してレストランやジオラマの展示室に改装したのがこの赤レンガ倉庫である。

この中にジオラマがある
電化前の北陸本線のジオラマが広がっている。だいたい昭和20年代が終わって30年代あたりだろう
旧線区間の様子も再現されている

昭和時代の敦賀、昔懐かしい銀行の建物や東洋紡の工場、敦賀港、氣比神宮、敦賀市の名所がリアルに再現されている。動くジオラマとして、解説付きで当時の生活や鉄道風景も含めて上映されている。鉄道好きなら少し立ち寄ってみる価値はありそうだ。

外にはかつて小浜線や宮津線、山陰本線で活躍していたキハ28が静態保存されている。野ざらしだがしっかり手入れされており保存状態はかなり良い。

何故かJR四国風の丸いヘッドマーク

赤レンガ倉庫の近くには、JR貨物の敦賀港駅の跡地がある。そこまで少し歩いてみることにした。

もう列車が通れないように踏切が廃止されている。
なんだか古めかしい建物がある

敦賀港駅は、かつては日本海側の国際的な玄関口であったことは先に述べた。ここまでやってくる列車は、海外に用事がある人達を輸送し、また海外から日本へやってくる人たちが乗るものである。極めて重要な路線であった。すなわち、今ではその面影もないが敦賀港駅も立派なターミナルだった。当駅を発着する蒸気機関車のライトも、今でこそ電照であるがかつてはカンテラに火を入れてということをしていた。古典的なオイルとランプだ。そのランプを閉まっておく場所がこの小さなレンガの小屋である。

中に入るとランプっぽい光り方をする

敦賀港へ伸びていた線路を跨いだところにひっそりとランプ小屋が佇んでいた。

ひととおり鉄道要素を堪能してまだまだ時間があったので、少し港の方へ足を運んだ。

ヘブライ語?
ちょっとおしゃれな建物があるじゃないか

その昔、第一次世界大戦があった。サラエボの銃声で始まった戦争はヨーロッパ中に拡がった。ロシア帝国もセルビアとの同盟を理由にドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国等の中央同盟国と開戦し、甚大な死傷者を出していた。もっとも、ロシア革命によって戦争どころではなくなり中央同盟国と休戦し、内戦に突入した。当時のロシア帝国は三度のポーランド分割でワルシャワやルブリン周辺のポーランド領土を自国の領土として抱えており、当然領内にポーランド人を抱えていた。帝政時代には容赦なく独立運動は弾圧され、ポーランド人らは遠いシベリアまで政治犯として収容される者もあった。そうした虜囚も内戦という非常事態、ひいてはポーランド第二共和国が独立しソビエト政権と戦争に入った(ポーランド=ソビエト戦争)状況においては、祖国のポーランドが独立しても陸路で帰ることなど到底かなわず、極寒の地で飢餓に襲われ、政治犯収容所内で生まれた子供たちは孤児となってしまったわけである。
ロシア革命に列強諸国がシベリア出兵という形で介入はしていたものの、そのソビエト政権と新興の独立国のポーランドが戦争を始めた状況でシベリアに残されたポーランド人に肩入れすることは政治的事情からも困難であったし、第一次世界大戦が集結したばかりで欧米列強もそれどころではなかった。
そこでシベリアに設置されたポーランド人の互助組織であるポーランド救済委員会は日本政府に対して救済を求めたところ、政府は日本赤十字社に指示を出し、ポーランド孤児の受け入れ態勢を構築した。その子供たちがやってきたのが敦賀港だった。孤児たちは手厚い保護の元シベリアでの栄養失調状態から回復し、日本国民からの寄付や貞明皇后からの御下賜金もあって平穏に日本での滞在を終えることができたそうだ。

先程の話は第一次世界大戦後の話だが、第二次世界大戦が始まる直前にも敦賀に難民がやってきたわけである。独ソ不可侵条約の秘密議定書であるモロトフ=リッベントロップ協定でバルト三国はソ連の勢力下に置かれることが決められ、スターリンは軍事的圧力をもってしてバルト三国にソ連邦への編入を迫った。当然リトアニアという国も例外ではなかった。この当時リトアニアの首都はカウナス(ヴィリニュスはポーランド領であったため、現在とは異なってカウナスに首都機能が置かれていた)だったが、ドイツのユダヤ人迫害を逃れて東へ来たもののワルシャワもドイツの占領下に置かれいよいよまずいことになったとユダヤ人が出国を求めていた。
カウナスの日本領事館にユダヤ人が殺到する前から、ドイツの膨張と共に迫害を受けたユダヤ人が欧州を脱出しシベリア鉄道で浦塩まで向かい日本経由で米国へ亡命するという事象は見られており、当時の外務省の対応として、ユダヤ人に限らず、すべての外国人について、避難先の国の入国許可を得ていない者には通過ビザを発給しないという方針を採用していたそうだ。
当然、最終入国先である国のビザを持っているからと偽って日本行きのビザをくれという者も出てくるわけで、外務省としては人道上の観点から受け入れようにもそうした形で日本において旅費も使い果たして素寒貧になって不法に滞在されることもまた問題であるというのでかかる方針を取った。
しかしそれでも人道上の観点からビザを出さねばならない、ソ連の占領が迫り領事館からの退去も時間の問題である。そう決断し独断で杉原千畝はビザを発給した。これで日本行きの切符を手にしたユダヤ人難民がたどり着いたのがこの敦賀港だったというわけだ。

だいぶ長く書いてしまったが、こうした二度の世界大戦を契機とした難民を受け入れることとなった歴史について解説しているのがこのおしゃんな建物の博物館こと人道の港 敦賀ムゼウムである。館内では、当時のエピソードや敦賀市民の反応、ユダヤ人のビザのアーカイブといったものを見ることができる。また、当時はオリンピック期間ということで、ポーランド代表を応援し、ポーランドの国の文化についての展示もあった。

ひととおり見学を終えて、駅前に戻って腹ごしらえをする。残念ながらヨーロッパ軒も開いておらず、レビューもそこそこ良いソースカツ丼店も開いていなかったので、魚を出してるような店のソースカツ丼を食らう。

高校生くらいなら多分余裕で食えた、衰えを感じる。

想像以上にボリューミーで濃厚だった。福井名物らしく、とりあえずソースカツ丼をしっかり食べたいとなれば、多分ヨーロッパ軒という店の方が有名なので、もし観光で訪れたならばそちらの店をおすすめしておく。

福井で少しだけ寄り道して金沢を目指す

奥に新幹線の高架が見える
北陸特急街道が見られるのももう時間の問題

敦賀駅に戻ってみて改めて新幹線開業がもうそう遠くない未来であることを実感させられる。開業すれば、北陸本線の敦賀から金沢までもが石川県と福井県それぞれで運行される第三セクターに移行されることになる。米原から直江津までの北陸本線は、その幹線としての貫禄をまるで失ってしまうだろう。寂しいものである。

2両編成の普通列車に乗る、顔は225系だが交直流電車の521系に乗ってまず福井を目指す。

いずれは第三セクターに譲渡されるんだろう。
世界のSABAE

そうこうしているうちに福井駅に到着する。

北陸新幹線のモックアップ、まさかのE2系だ

福井駅の歓迎は、まず北陸新幹線のモックアップ、E2系のままで、つまり長野新幹線が開業してからまだ長野よりも先に伸びる前からここにあったのだろうと推察される。本当に新幹線を待ち望んでいるのだなとわかる。

恐竜の街

福井県では、恐竜の化石が見つかったというので恐竜をアピールしている。この大きな像は啼き声も出るしちゃんと動く、豪雪地帯でこれを維持管理するのはとても大変だろう。
列車の乗り換え待ちで駅前周辺しか散策できていないが、ひとまずお土産用に羽二重餅を買って金沢行き普通列車に乗り込んだ。

久しぶりの金沢へ

新幹線が開業してからの金沢は初めてである。前に来たときはまだまだトワイライトエクスプレスがやってきてたり特急はくたかで越後湯沢まで行ってから新幹線で東京に帰っていた。すっかり北陸新幹線が開業して長野と東京が近くなった。劇的に東京方面のアクセスが改善し、金沢まで行くのに小松空港から向かうという飛行機ルートはさぞかし戦々恐々としていると思う。

富山方面はもうJRではない

その昔北越やはくたか、寝台特急もやってきていた金沢も、今やサンダーバードとしらさぎが折り返していってしまう。かつて光る乗車位置案内だったものも、テープが貼られてしまった。新幹線ができればただの在来線ホームになってしまう。

駅員が立っていた記憶だったんだけど、自動改札になったんだな
これが新幹線改札。本当に伸びてきたんだなと実感
大きな金沢の鼓門、でかすぎるッピ

金沢駅といえば、このとてつもなくデカい鼓門、新幹線開業前からある。
もう既に17時を過ぎてしまったので、市内観光をするにはさすがに遅すぎたので、駅の土産物店をひたすら物色してホテルにさっさとチェックインしてゆっくりと一日を終えることにした。

本日のお宿

今回宿泊したのは、北陸地方の都市で展開しているマンテンホテルだ。金沢のマンテンホテルには大浴場が付いている。おまけに今回宿泊した部屋は幸運なことにトレインビューだった。

貨物列車
8番ラーメン

夕飯は北陸地方にしかないらしいチェーン店で8番らーめんをいただく。関東でいう日高屋的なポジションのお店のようだ。ちなみにちゃんとゴーゴーカレーも飲食街に入っていた。

金沢の土産といえば、きんつば、加賀棒茶、お麩、のどぐろを始めとした魚介諸々ある。結構うまいものが揃っていると思う、あんとという金沢駅直結の土産物店に行けば一通りは揃っているので探索してみよう。

ちょうどオリンピックシーズン

お土産を一通り揃えてホテルの大浴場で整って一日を終える。もう明日には東京に帰らなければいけないのが寂しいばかりだ。

3日目に続く


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