表現者としての死

祖母が亡くなったらしい。
といっても107歳というびっくりするほどの御長寿で、特に病気してるという話も聞かなかったから、大往生だと思う。
というか100歳なったくらいだと思ってたら107歳と聞いて驚いた。

祖母とはもう何年も会っていなかった。
そもそも私は親戚とは関わりが浅い。
昔は毎年新年会をやっていたのでよく連れられて行ったが、最近はそんなものも無かった。
いまだに親戚と会っても敬語を使うか考える、そのくらいの関係だ。
祖母との記憶も、小学生の頃母と私と祖母で熱海に行き、急な階段を降りる時のあまりの健脚っぷりに驚いたとか、そんなエピソードがあるくらいだ。

まあ何にせよ祖母は亡くなってしまった。
だが関係が浅かったので、知っている有名人が亡くなったとかそんな感覚である。
悲しいは悲しいけど塞ぎこむほどではない。

葬儀は来週らしい。
もともと「祖母はもうそろそろかもしれない」と言われていたので、実家に帰ると葬式の話もちらほら話題に出ていた。
オレンジ髪の私は「その頭で葬式に来るな」と言われたりもした。
染めて1年くらい経つのに、実家に帰る度に母親には毎度髪色で文句を言われる。

オレンジ髪。
30歳にして私が手に入れた揺るぎないアイデンティティーだ。
たかが髪の色だと思うかもしれない。
別にドンキで1日黒染めの染料を買ってやり過ごせばいいじゃないかと。
1日やり過ごせばまた元通りなのだから。
TPO。世渡り。

しかしその場しのぎの黒染めでも、表現者としての私を、揺るぎない個性を否定されている気がする。

話が飛ぶが、母親との買い物は昔から嫌だった。
私が何か選んでも「これは派手すぎじゃない?」とよく言われた。
結局自分の好みを口にしなくなった。
「もう何でもいいよ…」となるのだ。
だって自分の感覚を否定されるのは辛いもの。

自分のオレンジ髪は気に入っている。
揺るぎない個性の一つだと思っている。
自分でいいなと思って自分で選んだのだから。
それを全く受け入れてくれない両親。
私は両親の何なんだろう。
ここまで考えてとても悲しくなった。

結局私は葬儀前日に黒染めするのだろう。
私が我慢して丸く収まるならそれでいいじゃないか。
せっかく手に入れた自分の個性も、結局は世の中の慣習の前にはひれ伏すしかないのだ。

表現者として死んでいるのではないか。

ぼちぼちコミティアの準備もしなきゃなのに、クリエイティブな事を一切やる気にならない。
そもそもコミティアが無事開催されるかもわからない。

これが大厄か。

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