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正義の行方

渋谷のユーロスペースで「正義の行方」という映画を観てきた。
1992年に発生した飯塚事件(福岡県飯塚市で2女児が誘拐殺害された事件)を扱ったドキュメンタリーで、「警察」と「地元新聞社」と「弁護団」——三者の証言を軸に、事件の経緯とその後の展開を追った骨太の作品だ。
一瞬たりとも目が離せない158分。いつになく集中して観てしまった。

まず知っておかなければならないのは、以下二つの事実。
1.1994年に、この2女児殺害事件の犯人として近隣に住む男性・K氏が逮捕されたこと。
2.裁判によって2006年にK氏の死刑判決が確定し、その2年後に刑が執行されていること。

ただ、K氏の犯行を裏付けるとされたDNA鑑定の精度はきわめて低く、証拠能力としてはかなり脆弱。さらに、本人は一貫して容疑を否認しており、刑の執行直前も、教誨師に潔白を訴えていたという。
少々雑な言い方ではあるが、この作品に登場する人びとの証言を聞いた私の印象は、K氏が犯人である確率って3割程度に過ぎないのでは?……というもの。
本来であれば、その3割程度の心証に自供等が加わることで容疑が固まっていくのだろうが、この事件の場合、そのあたりが完全に抜け落ちてしまっていて、全貌は霧の中。動機を含めたすべてが推量の域を出ていないのだ。

だが、警察と検察は、弱い情況証拠を複数積み重ねることによって、(合わせ技一本的に)K氏を逮捕起訴した。
そして裁判所は、決め手を欠いたまま、警察や検察が主張する「K氏が犯人である蓋然性」を元に死刑判決を下した。

私自身はこれまで、死刑制度は凶悪犯罪抑止のために存続やむなしと考えてきたが、それは司法に対する信用があればこそ。
もし仮に警察が誤認逮捕をしたとしても、裁判で真実が明らかになるはずだし、地裁→高裁→最高裁……と三重のチェック体制があるのだから、間違えて死刑判決を出すことなんてあり得ないでしょう、と。
でも、この事件のように、これだけふわっとした証拠を元に判決が下されるのだとしたら、司法に対する信頼性は根本から揺らぐことになると思う。
濃度30%程度の薄いグレーであるにもかかわらず、この色は濃度100%の黒なんですよ——と断定するようなジャッジについては、その是非が問われてもよいのでは。

これまで「疑わしきは被告人の利益に」とは、近代法治国家における司法の大原則だと思ってきたが、法の番人がその原則を軽視しているように見えて、少しこわくなった。
これが司法の常態だとするなら、過去に、証拠不十分のまま死刑を執行された人がいたのでは?——という疑念も浮かんでくる。

弁護団は再審請求を出したが、一回目は却下。現在は第二次再審請求が出されているという。
刑は既に執行されているけれど、疑義が生じてしまった以上、裁判所はこの一件と今一度しっかり向き合ってほしいと思う。

作中では、終盤になって思わぬ展開が訪れる。
事件発生時から警察寄りの事件記事を載せてきた新聞社の内部で、自己批判の動きが出てきたのだ。
この新聞は、早い時期からK氏が犯人であるとの見立てでスクープを連発。当時の記者はそれが正義だと信じていたわけだが、はたして一連の報道は公正を期していたといえるのだろうか?——そうした自問と検証の過程が描かれる。
客観性を保つために、事件当時に部外者だった記者たちを起用し、過去の報道をゼロベースに戻して事件を再調査。当事者たちによる証言からは、新聞というオールドメディアの良心が垣間見えた。それは、重いテーマを扱ったこの映画に差した『一筋の光明』ではなかったか。
過ちては改むるに憚ること勿れ、という少々古めかしい言葉が浮かんでくる。

そして……
人気のない峠の暗い森に遺棄された少女たちが抱いたであろう恐怖と苦痛を思うと、激しい怒りと悲しみで胸が張り裂けそうになる。
おそらく、K氏を逮捕した警察官たちを突き動かしたのもこうした想いであり、「彼女たちの無念を必ず晴らす」という正義心だったはず。それ自体は人としてたいへん立派なことだし、至極真っ当な職業意識の発露だ。
ただ、その熱を帯びた正義のベクトルが正しい方向を向いていたのかどうか——そこに残った疑問については、しっかり胸にとどめておきたい。
自供なきままK氏を刑死させてしまった以上、真相は藪の中だが。

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