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不適切なことって

クドカン脚本のTBSドラマ「不適切にもほどがある!」が最終回を迎えた。
ジェンダー問題に造詣が深いライターらの間では批判的な意見も多かったと聞くが、私は最後まで楽しく視聴した。

登場人物たちはタイムマシンで昭和(1986年)と令和(2024年)を行き来するのだが、観ているうちに、昭和という時代の空気を断片的に思い出した。
個よりマスが重視され、根性論が横行し、人を傷つける乱暴な言動も多かったなあ、と。
令和の作法を体得した今の私があの時代に戻ったら、昭和の常識に唖然とするだろう。
そう、やはり38年で社会は進化しているのだ。

ただ、あらゆる物事には作用反作用の法則が働くもの。

昭和は総じて人の扱い方が雑な時代だったが、逆に、令和は他者に対して神経を使いすぎて不寛容な時代になってしまった。
今はルールを少しでも逸脱すれば、オンラインでの集団リンチ=炎上が待っている。自らの発言と行動について、常に緊張感が強いられる社会って、かなりストレスフル。
昭和的な生きづらさを解決しようとしたら、別の意味の生きにくさが生まれてしまった——という感じか。

現代に生きる人間は、ともすれば、歴史という舞台の最先端に立っていると錯覚してしまいがちだが、我々の現在地は、社会が絶え間なく流れる長い河の中間点に過ぎない。
そして、社会的動物である人間の思考は、河の流れに応じて進化してきたし、今もその途上にある。

今は絶えず『アップデート』が求められる時代だけれど、人間が、PCやスマホのように数秒で思考や認識をアップデートさせるのは難しい。
「あなたの考え方は古いから、今すぐこの場で改めなさい」というような上から目線のお仕着せは、(その主張がいかに正しかったとしても)結果として反発を生むことになるだけだと思う。
なぜなら、言われる側の人間にも感情があるからだ。

いつのまにか私も中高年と呼ばれる年齢になり、『言われる側』に回ることが増えてきた。
「いい時代だったなあ」などと昭和を懐かしむこともあるが、ここでいう昭和とは、記憶に改竄を加えたファンタジーの世界。
だから私は、本気であの時代に戻りたいなんて思わないし、今ここにある現実社会がよりよく変わっていくことに賭けてみたい。
ただ、早急なアップデートを促す『圧』に対して、モヤモヤ感を抱いてしまうのもまた事実。

ドラマ「不適切にもほどがある!」では、そのあたりのジレンマが描かれていて、クドカンと一歳違いの私は、大いに笑い共感した。

作中、昭和の親子は、令和の社会の(いい意味での)進化を吸収して昭和に帰ったし、令和の親子は、昭和の社会の(いい意味での)大らかさを体験することができた。それぞれの時代の空気に触れ、はじめはその違いに愕然としながらも、柔軟に理解を深めていく。
振り返れば、「不適切にもほどがある!」は、昭和と令和の邂逅と対話の物語だった。
どちらかを一方的に悪者にするのではなく、また、どちらかを一方的に礼賛するのでもなく。

そして、最終回で登場人物たちが歌ったのが「寛容になりましょう!」という曲。
タイトルの通り、今こそこの精神が大事だと思うのだが、時代の最先端を行く(と自負する)人たちは、こういう穏当な考え方であっても『老害の言い分』ととらえるのだろうか?

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