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ライブに行く意味 2023/01/12

2022年は、映画だけ観た後に感想をまとめていたが、思い返してみると本や漫画、ドラマ、アニメもちょこちょこ観ていたことをふいに思い出した。記録しないと、すぐ忘れる。

今日はライブへ行った。
ライブへ行くときは、いつも憂鬱だ。身長が低いので、ステージがはっきり見えないことが多い。ステップを踏むために多めに場所を取っていると、高確率で誰かが前に割り込んできて不快な思いをする。アーティストにもよるが、東京で行われるライブは洒落た人が多く集まる。カルチャーが服を着て歩いているみたいな状態で、しかも下北や原宿、渋谷なんかよりも濃い密度で洒落坊主たちが集まるので引け目を感じる。
なによりライブに行くことの価値を感じられないときが怖い。
ライブに行く目的は人それぞれだ。生の演奏が聴きたい、生のアーティストが見たい、会場の一体感を味わいたい、騒ぎたいなど、人それぞれだと思う。お金のない十代の頃は、1枚のチケットが貴重だった。噛みしめるようにライブを楽しもうと思うのだが、見えなかったり、音響が悪くてあんまり楽しめなかったり、実はライブが下手なアーティストだったりと、払った分の楽しみを得られないという印象が強く、現場へ行くのが次第に億劫になっていた。
いまもその印象は変わらない。ただ、人並みに稼げるようになり、年間数本のライブなら気兼ねなく行けるようになったことで、余裕が生まれたことは考え方を変えるきっかけとして大きかった。
まず、ライブはそれほど期待しないようになった。相手も人間なので、その日の調子や気分がある。サンボマスターみたいに、毎回を伝説のライブにしようという意気込みでもないと思う。箱の大きさやその日のプレイスタイルでテンションも変わる。環境に合わせたその日その瞬間の奇跡を味わうというスタンスに変わってきた。ハズレのライブもあるが、あまり期待しなくなったことで楽しめる余白が増えたように思う。
例えば、くるりのライブはフェスで何度も目にしてきたが、赤レンガ倉庫の野外ステージで行われたステージは抜群によかった。海の向こうが夕焼けに沈む頃、しっとりしたナンバーを歌い上げ、200か300くらいしかいない客が夕日に照らされて静まり返って聴き入ってるような状態。それはとても感動的なシーンだった。曲も何をやっていたか忘れたが、私が観たくるりの演奏のなかではベストアクトだった。ゆったりした音楽祭だったので、客がせせこましく密度を高めようとしてないのも心象が良かったのかもしれない。
今日は新鋭の海外アーティストの来日公演ということもあり、東京中のカルチャー小僧たちが集結していた。我こそは尖端カルチャーと言わんばかりに息巻いており、場内には異様な緊張感があった。アーティストグッズを着用する人が少なくて、個性的なファッションの人が多かったし、それぞれ目立っていた。そういうエネルギーが密集していた。満員ということもあり、中型のライブハウスはコロナの規制もなかったためか、数年前の活気を取り戻しており、1月なのに半袖の客が目立つ。
開演10分前に前列後方にいい場所を見つけたが、オープニングアクト終わりにサラリーマンカップルが割り込んできた。私の細切れのステージビューは私より10cm以上背の高いスーツ男の頭に阻まれた。せめてもの抵抗と手に持った荷物を彼の足に当てるような形で仁王立ちしていたが、時間をかけてズイズイと隙間に入り込み、本命のアクトが始まる頃には私の前にその男は鎮座していた。悔しい。その心理状態を相まって、今日はもう楽しめないと心が沈んだ。
しかし、ライブはそれを超える素晴らしいものだった。ただのバンドかと思いきやユーモアを交えた演出に、映像を駆使した曲つなぎ、ライブならではの多めのMC、そして音源とは印象の違うボーカルの歌声。音源を聴いていて、まさかこんな激しい歌い方をする人だとは思わず、終始感銘を受けていた。「歌がうまい…。」プロなので当たり前なのだが、別に個性やボーカル以外で売れているアーティストなんて山程いる。私もボーカルに特別期待を寄せていなかっただけに、感動が上回ってきた。
ライブをお金に換算するのもいかがなものかと思うが、学生のときの自分でも満足する内容だった。こんなライブを半年も前からチケットを買える自分の先見の明を誇らしく思った。同時に自らもまた自己のカルチャー眼を誇る気持ち悪さを自覚し、自己嫌悪になりながら帰路についた。ディスタンクシオン、ディスタンクシオン…。

お金をサポートすると、水平を失った傾いた家から引っ越す資金になります。水平な家に住むと健康になれる気がします。