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時には他人の話をしようか

ここ最近、自分についての文章を書きすぎている気がします。

そもそもなぜ自分のことばかり書くのか?
おそらく僕の自覚の中では、自分が一番おもしろいからです。毎回面白いことを書こうと思って、自分の経験や発想にたどり着いています。

ことあるごとに自分を否定し、気持ち悪い、嫌いだと馬鹿にしてはいても結局、自分が大好きなんでしょうね。その上誰かと群れて行動することも好まないので、自分ひとりの力だけでおもしろいものを作ろうとしている。

一方で現状は残酷です。悲しいことにたくさんのスキがつくのはネットの情報をまとめたものばかり。僕という人間の考え方を気に入ってくれる方も中にはいますがごく少数ですし、そもそもnoteで自分の考えに共感する熱血な読者を集めている事例は周りを見てもほとんどないと言ってもいいでしょう。


自分のことを記事にするのは別に悪いことでもないと思いますが、何か書こうと思った時に毎回自分についての話題が浮かぶのはちょっと考えものかもしれません。

思考のベクトルが自分自身にだけ向いていると、どうしても思考が偏ります。自分ひとりでは曖昧だったり、思い込みを含んでいる考えが、他の人の助けを借りることによって定義できることも珍しくありません。

僕は最近自分の人生哲学をひけらかしますが、そのほとんどが、数百年も前に偉大な哲学者によって示されてきたものです。他人の話を聞くこと (ここでは、事前に哲学者の書いた文章を読んでおく、ということになりますが) ができていれば、ぼんやりしたままでなく明快に論理を展開できたのかもしれません。

周りを見渡すと、自分が読んできた小説やエッセイを引用して自分の主張や考えに説得力を持たせているような投稿者は案外多いものです。大学の論文でも参考文献を用いた箇所には引用元を示すという慣例がありますが、あれをよりカジュアルにしたものと言っていいでしょう。
これまでほとんど読書をしてこなかったので、ぶっちゃけ「なんでそんなに面倒なことをしているのだろうか」としか思っていませんでしたが、今になってその重要性に気付かされました。かといってこれから急激に本を読む人間になることもないような気がするので、あの手の記事をあげることは今後もないかもしれませんが。


他人のことを考えることは良識でもあると思います。何かをしてもらった時自然と「ありがとう」の言葉が出るのは、他人に自分がやるべきことをさせていることへの感謝、ないし後ろめたさがあるからでしょう。自分のために何かを為してくれた「誰か」のことを思いやるという思考回路が、少なからずあるはず。

noteでも同じ話です。たくさんのフォロワーさんに囲まれ、スキをしていただいて今の「うつろの雑談部屋」があります。フォロワーさん一人一人のことを記事にするのは流石に厳しくとも、時には周りに目を向けて、新しい考え方を吸収していきたい。

自分にだって少なくはない友人や知人がいます。友人が自分のことに言及してくれたり、褒めてくれたりすると嬉しいのは誰でも同じでしょうが、振り返ってみると友人について意見を述べたり考えたりすることが極端に少なかったことに気づきました。
今のような自己中心的な考え方では、周りとの協調性が、グループで活動していくための基礎的な地肩が、身につかない。一匹狼になることは必ずしも格好いいものではありません。


というわけなので、来週いっぱいは趣向を変えて、自分の知人や友人の話、または誰かがしていた話をしてみたいと思います。現段階では書けそうなものが1つ2つくらいしか浮かんでいないのですが、これも周りに目を向けていない自分の悪癖が原因だと思います。土日でしっかり考えを巡らせて、まともな記事がいくつか書けるようにしないとです。

子供時代の回顧文が続くかもしれませんがご了承ください。


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