考えること


自分のこと考えるのって楽しいよなぁ……。

いきなり何言ってんだと思われるかもしれませんが、え、楽しくない?
大人になってから、その行為を「内省」というと知りましたが。
内省とは、自分の心と向き合い、自分の考えや言動について省みること(引用:kaonavi)。

それでは、私の内省の原点はなんなのか?

私が覚えている限りでは、高校生の頃だと思います。もしかしたら、もっと前かもしれないけど。
高校2年?内省したときに、感じた快感をよく覚えています。

その日は現代文の授業があり、担当の先生がキレやすい男性だったのです。
よく授業中に怒鳴る人だったので、私はその先生が嫌いでした。

しかし、その日の帰り道、自転車に乗りながら考えたのです(頭の中が暇だったので)。
「私はなぜあの先生が嫌いなのか」

ふむ。怒鳴る人だから、はもちろんある。私は自分で言うのもなんだが、耳が良い。だから大きい声を出されるとストレスが尋常じゃない。怒っている人がいると段々イライラしてくる(ちなみに5年後、HSPであると判明。HSPはその場に居る人の感情に引きずられやすい)。
ではなぜあの先生は怒鳴るのか。……怒りっぽいから?

そこまで考えたとき、ハッ!となりました。アハ体験ですね。
あの怒りっぽいところ、私によく似ているからだ!!

私は自他共に認める短気(当時はね)。あの先生のようにキレ散らかして怒鳴りまくったりはしないが、家族にも短気さを指摘されていた。私自身もこの短気さはどうにかせねばならぬ、と心の隅で悩んでいた頃だった。

おそらく、怒っているときの自分を先生に重ねていたのではないかと思う。いわゆる、同族嫌悪というやつですね。

怒鳴っている先生を見て、私は何を思っただろう?

「うるさいな」「人の迷惑考えればいいのに」「こっちもイライラしてくる」

それって、私が怒っているとき周りが思ってることじゃないのかな?(怒鳴らなず、静かに怒るのでうるさくはないと思うが)
私は周りに怒りっぽくてめんどくせぇな、って思わせてたかもしれない。

そう考えると、本気で短気な自分をどうにかしないとな、と考えるようになりました。私は昔から周りの迷惑になっていないかを気にする性質で、廊下を塞ぐ人たちや大きな声で騒ぐ人たちに腹が立っていたので。
どうして通行の邪魔になっているかもとか考えないんだろう?
どうして大きな声に驚いたりする人がいるかもしれないとか考えないんだろう?

でもいざ自分を省みると、自分も怒って周りに迷惑をかけていたということに気付いた。もちろん、周りを配慮しない人は今でも嫌いだけど、ここであからさまに怒ってイラついた態度になったら、私も人のことを言えなくなる。

そこから日々、考えました。イラッとするのはしょうがないにしても、態度に出したらダメだ。周りにいる友達や家族に迷惑をかけたくはない。
廊下を塞いでいる人たちがいれば、「はーい、ちょっとごめんよー、通してー」と言うようにしました。なんでこっちが謝らんとあかんねん、とは思いますが、処世術です。わざわざ喧嘩を売りに行って(そんな度胸ないけど)、一緒にいる友達に迷惑をかけたらいけません。それに、慣れてきたらなんとも思わなくなります。
大きい声を出す人はどうしてもそちらを見て睨んでしまいますが、睨むぐらいならOKということにしました。そんな長い時間睨まず、一瞬見るだけです。それ以上を態度に出してしまったら、一緒に楽しく食事している家族を不快な思いにさせてしまうので。それと耳栓ですね。耳が良すぎるので、耳栓しても外の音が聞こえますが、多少はマシです。家族は私の性質を理解しているので、目の前で耳栓をしても特に怒ったりはしません。問題なく会話も出来るし。

ただ、注意事項として、怒らなければならない時もありますね。
セクハラをされたときや無神経なことを言われたとき。
それらの行為はこちらの人権や尊厳の侵害、心を傷つける行為なので、こちらが怒らなければ相手もそれが悪いことだと分からないです。
相手がこれからも自分と関わりがある人ならなおさら。それ以降、自分と関わらないと思われる人なら、自分に心の余裕があるときだけ、注意します。その時しか関わらないのにいちいち注意してたら疲れます。
何よりもまず、自分の身体と心の安寧が最優先。

と言いつつも、一番身近な人に怒れない私がいますが。弁が立つ人で、こちらが正論を言っても負ける気がするので、無駄に消耗して分かってもらえず終わるという未来が見えるので、議論できない。というか、一回それがあったので、何を言っても無駄な気がしてます。これからも嫌でも関わらないといけない人なので、どうしようか悩みますね。

だいぶ話が逸れて恐縮ですが、自分のことを考えるのは楽しいです。
なぜ私はこれが好きなのだろう? なぜ今こう思った? なぜ違和感を感じた?

謎が謎のままで終わることもしょっちゅう。でも考え続ける。ふとしたときに。
だから、自分が言語化出来なかったことを言語化している人がいると「すげぇ!」と思います。
語彙力と頭の回転が段違いのような気がする。どれだけ勉強したらその高みにいけるのでしょう?

外からインプットしたら、その時思ったことをすぐアウトプットしたら身に付くでしょうか?
いざ、本とか読んでても続きが気になりすぎてアウトプットすることを忘れてしまうので、なんとかしたいですが。

「考える」ことが楽しくなったのは、その高校2年の帰り道から、ですかね。
成績表に「思考力」という項目がありましたが、まず「考える」ことの楽しさをその人自身が見出さないと、難しい気がします。
それまでの私は、ただ教科書からの情報を「こんなものか」と全く考えずに暗記していました。その情報1つとっても、どんな人が関わって、当時こういう世界情勢やその人の周りの環境がこんなんで……という背景があります。この背景を知り、納得して初めて「理解」するのだと思います。そしてそこから考える。すると、色んな事が水面下で繋がっていたりする。
自分の興味ある分野で、その一連の出来事があれば、「考える」という行為は一気に楽しいものになります。だから、もっと知って自分の頭で考えたくなる。

その初めての「考える」対象が私は「私自身」だった。他人を通して「自分」を知った。「短気で嫌な自分」を直視してしまったけど、「知った」時は快感だった。決して嫌な経験ではなかった。
だから、それ以降も私は「私」を知りたくなった。嫌なところも良いところも見えてくる。ここは直さないと。ここはめっちゃ魅力的だわ。もっと外に出していこう。そうして自信が付いていく。すると周りに「あなたのそういうところが好き!」と言ってくれる人も増えていく。なんと良い循環でしょう。

たくさん本を読む中で、「実はあなたのことを一番知らないのはあなたである」というフレーズが時々ある。その通りだと思う。
だって、自分のことを知るのが好きな私でさえ、日々変わっていくのだ。数年前までこんな価値観だったのに、色んなことを知ったらあの時のあいつ(価値観や考え)どこ行った?ということも多々ある。
だからこそ、自分を「考える」のは楽しい。ずっと変わらなかったら、終わりが見えてしまう。日々アップデートされていくから、なんと!こんな新機能が!?と感動する。アンテナが増えることで、以前より傷つきやすくもなったけど、後悔はない。その分、自分にも大切な人たちにも優しくあれる。

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