マーラーの交響曲第9番を初めて聴いて(先輩Aへ向けた手紙)
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夜分遅くに失礼します。先程の件のお返事も出来ていないのに申し訳ありません。
今しがた、グスタフ・マーラー氏の交響曲第9番を初めて聴きました。
前から聴かなければならないと強く思っていたのですが、中々決心がつかず、それはバルビローリ/BPOとバーンスタイン/BPOのCDを手に入れても踏み切れず、私がマーラーを語っているときに後ろめたさを感じるくらいには悶々としていました。しかし、あまりにも「最高傑作」「作曲家愈々死に臨んでの作」などと素晴らしい評価で溢れているがゆえに、果たして私が聴いて良さを聴き取れなかったのならどうしようという、非常につまらない、しかし切実な不安から、聴けないでおりました。
そもそも私がマーラーの交響曲をしっかり聴き出したのは、三年前くらいからだったかと思います。ここでくどくど私のマーラー体験を詳しく書くこともないかと思いますが、そのとき初めて聴くことになったのは2,3,7,8番でした。(やはり正直に告白すると、8番は流し聴きで歌詞や譜を見ていません、が、曲が終わって改めてそうしようとも思いませんでした。だから8番はまだちゃんと聴けてないことになります。)
2,3の音楽としての美しさ、そして7の音楽としての斬新さと恐ろしさから、マーラーは私の中で、測定できない(しようとさえ思わない)ほどの大きな存在になりました(なってしまいました)。
だから、9番は聴けませんでした。彼の「最高傑作」を、私は聴きたくなかったのです。私はなまじ音楽が好きで、たくさん曲を聴いているから、彼の、本当に偉大で素晴らしい音楽家の、「最高傑作」を聴きたくなかったのです。
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私は彼の同時代、もしくは後に続く作曲家の作品を沢山聴いてきました。私を本当に心から感動させてくれた作曲家もたくさんいます。彼らの中にはコープランドや伊福部、ストラヴィンスキーのような、音楽で思索することをしない者もいましたが、グスタフ・マーラーのように、音楽で思索をする者、即ち自らの存在を音楽で表そうとする者もいました。例えば、ショスタコーヴィチ。彼の交響曲は、たまたま高校のときに全部聴いてしまいました。そしてその後聴き直す機会を何度か得て、彼の交響曲(特に8,14)の恐ろしさを、感じ得るようになりました。
そんな、ショスタコーヴィチを聴いてしまった私が、いわばその前段に位置するマーラーをどのように聴けば良いのか、これが中々マーラーを聴く気になれなかった理由のひとつでした。
そして、先述の通り2,3,7を聴いた私には、「最高傑作」である9番が残されたのでした。
ほとんどの「クラシック音楽」を聴いてしまった私は、果たしてマーラーの9番を聴いて、感動することができるのだろうか。もしできなかったとしら… そう考えると、聴く気が起きませんでした。
そうして、恐らく私は、グスタフ・マーラーという作曲家は、「最高傑作」である9番を完成することができなかった、とどこか本気で信じ込んでいたように思います。
たぶん、いつか聴くことになる、でもその時私は「クラシック音楽」を楽しんだあの時のような、新鮮な気持ちで聴くことは出来ないに違いない。
グスタフ・マーラーの「新曲」、しかも「最高傑作」に、昔日のように感動することができない私ーー
それは私の中での「クラシック音楽」の体験が死んだことになるのではないか。
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そんな悩みを仕舞いかけていた今日、いつものようにマクドナルドで、Youtube Musicにあるめぼしいアルバムにブックマークを付けていました。そこで、ディミトリ・ミトロプーロスの英雄にブックマークを付けていたことを思い出し、ミトロプーロスには他にどんな録音があるのだろう、と調べてみたのです。
すると、マーラーの9番の録音がある、と知りました。ストリーミングを見ると、配信されていました。
私は別に運命を感じた訳でもなんでもありません。
ただ、その時、よし、聴こう、と思ったのです。
それはなにかミトロプーロスの演奏を聴きたかったからでもあるし、今までマーラーの2,3,7を聴いたときは、静かなところで、精密なステレオ録音だったから、もしここでこの曲感動できなかったとしても、モノラル音質のせいにできる、もしくはマクドナルドという雑な鑑賞環境のせいにもできる、感動できなくても仕方ないと思ったからでもある…
いや、
それよりも何よりも、
グスタフ・マーラー氏の最後の交響曲を聴きたい
グスタフ・マーラーを自分の中で、しっかりと片付けたい
介錯、に似た気持ちであったと思います。
したがって私は、ミトロプーロス/NYP, 1960年のモノラル録音で、甘いジャズピアノが垂れ流されるマクドナルドにおいて、マーラーの9番を初めて聴いたのです。
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さて、ここまで書いておきながら今更の観がありますが、私はマーラーの9番を初めて聴いたら、感想をAさんに報告しようと前から思っていました。それはAさんに私の素直な感想を聞いて欲しいのもあったし、自分の考えを整理するためでもありました。だから、ここにそれを実行することとします。
第1楽章から、私は驚き、そして自分を恥じ、また自分を頼もしく思いました。
この旋律はどういうことだ。
無理のない、マーラーの数々の旋律の中でも一際美しいのに、無理が全くない、この旋律は、そしてハープの音色は、どういうことだろう。『果たして感動できないのではないか』なんてーーマーラーは私が憂慮するに収まる作曲家であるはずが無かろう。私はこのような素晴らしい旋律に、まだ出会うことができる、そして心から感動することができる。なんて幸せ者なのだろう!
楽章内、様々な展開がありましたが、要所要所で姿を見せる弦楽の旋律[注:第1主題]に、この楽章は、というよりも、この曲は尽きると言ってしまっても良いのではないか、と思いました。マーラーの底知れなさ、彼の到達した境地に、私はただ耳を傾けることしかできず、しかし耳を傾けることができるのでした。この世のうちで、最も幸いな一時だったのではないか、と思い出すことができます。
第2楽章はスケルツォでした。それも、マーラーが得意とする、私も大好きな、レントラー風の。きっと細かく見ていけば色々わかるのでしょうが、第1楽章で全てを超越したかに思えた私には、やはりこれはマーラーの曲なのだ、と何だか嬉しくなりました。月並みな言葉ですが、現世に引き戻してくれたのでしょうか。
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第3楽章はブルレスケ
ここまで書いて、やはり告白せねばならないことがあります。私は以前、(Aさんもご一緒しましたが)マラ9を少しやってみたときに、少しこの曲について知ってしまっていました。特に四楽章のテューバの旋律はずっと覚えていたし、四楽章のその周辺は聴いてしまっていたし、三楽章が「ロンド‐ブルレスケ」というのも何故か忘れられないでいました。
だから、第3楽章が「ブルレスケ」であることと、第4楽章のある程度の雰囲気は知ってしまっていたのです。
だからこそ、第4楽章をちょっと知っているからこそ、「第4楽章のアダージョが『白眉』」であるこの曲で感動することができるか不安だったのです。
しかしその不安は、第1楽章によって幸せな成仏を遂げることができました。
だから私は、第3楽章も第4楽章もわくわくしながら聴くことができたのです。
第3楽章はブルレスケでしたが、第1楽章でほぼ満足した私は、第4楽章がアダージョだという知識から、この楽章の結論を早くから導き出しました。すなわち、チャイコフスキーの悲愴である、と。第4楽章のアダージョがあるから、それへ向けて生の情熱を燃やし尽くすのだろう、と。それをマーラーは皮肉も込めて「ブルレスケ」としたのだろう、と。そんな気持ちで半ば予定調和的に聴きました。
途中までは。
それでは終わりませんでした。
そしてそれは、「案の定」とも言えるかもしれません。
きっと私は心のどこかで、私の早合点を裏切って欲しかったのでしょう。
でも、数多の交響曲鑑賞から、私のこの類いの早合点は大体当たるようになってしまい、まさか裏切られることは無いだろうと思っていたことも事実です。
でも、グスタフ・マーラーはやってくれたのです!
突如静謐になり、姿を見せる第4楽章の旋律[注:正しくは全曲を通して現れる「ターン音型」]…
こんな印象的で美しい、次楽章への予告、予言が他にあるのでしょうか。
いや、予告や予言では無いのではないか、マーラー自身も意図しなかったのに、ここまで第4楽章のアダージョが溢れ出てきてしまったのではないか。それほどまで、私には意外性をもって響きました。
この瞬間が、永遠に続くのが第4楽章なのだろうか…
ふとそんな、期待と恐怖がよぎっても、音楽はもう止まりません。
6
第4楽章は、前述した通り、少し知っていました。それはこの楽章で三度ほど訪れるクライマックスの三回目でした。テューバの厳かだが、豊かで、永遠のような音色が現れたときは、ここか!と思いました。
でも、それよりも何よりも、この楽章で覚えているのは
出だし そして 結び
弦楽が裸で、何処かへ向かっている… 何処へ?
私は何処へでもいい、と思いました。彼の音楽なら、何処へ向かったとしても、最早なんの不満を抱くことも無かろう。
D‐durへ向かっているような気がする。でも、きっとD-durでは終わらせたくないんだろうな、いや、裏をかいてD-durなのかもしれない。
最後の浮遊感が漂う数小節は、そのようなことを思って聴いていました。
そこには、オルガンの即興演奏のように音符を置いていくマーラーと、それを何処へ向かおうと見守ることのできる聴衆としての私との、幸せな交歓がありました。
こうして、まことに幸せな時間は、終わってしまいました。
そして、マーラーは死んだのです。
私は、祖父が死んだ時を思い出しています。
悲しいのだけれど、とても崇高で、有り難い心持ちーー
祖父のときは、それでも悲しいのでしたが、今は、悲しさはあまり無いのです。
むしろ、嬉しいのです。
彼の最後の交響曲を味わうことができたこと、そしてそれに感動できたこと、マーラーがやっと見えてきたこと、
そして、Aさんと同じになれたこと、
それが本当に嬉しいのでした。
(2021.10 仙台市内のマクドナルドにて)
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