靑猫がnoteを始めるみたい

こんばんは。日も変わらんとしている夜半にこの文章を書く。その行為はまるで提出日直前になって始めるレポート課題のよう。

私は今のところ靑猫(あおねこ)と申します。ID?はutsu_yuu_sei。わかる人にはわかるのでしょうか、荻原朔太郎の詩集『靑猫』(1923)の代表的な一文、「感覺的鬱憂性」に由来している。

感覺的鬱憂性! それもまた私の遠い氣質に屬してゐる。それは春光の下に群生する櫻のやうに、或いはまた菊の酢えたる匂ひのやうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。かくて私の生活は官能的にも頽廢の薄暮をかなしむであらう。げに憂鬱なる、憂鬱なるそれはまた私の敍情詩の主題(てま)である。

私靑猫は東京にある私立大学の4年生。来年からは公僕となる予定。正直言えば猫の如く働きたくない。

この度noteなる書き物を始めてみたが、書くことはどうも苦手なたち。本を読むことは嫌いではないが、小中の夏休み宿題の鉄板、読書感想文なるものは記憶の中の猛暑よりも私を苦しめる。私は頭の中で浮かぶものをうまく文章化できないのだ。また、時間的制約がある場合は尚更だ。大学の講義ではリアクションペーパー、通称リアペと呼ばれるものがある。これは、講義の所感をある程度の文章として、授業後すぐに提出するものである。私はこれが大の苦手で、いつも「小学生並みの感想」になってしまう。

しかし、このnoteというかブログ系全般には自由に文章を書ける気風があり、そして時間的制約がない。だからこうして駄文を熟々と書き連ねているのだ。こういった文章は、タイムカプセルに埋める未来への自分への文章だったり、三日坊主で辞めてしまった日記帳を大掃除の時に眺める感覚で、過去の自分の恥となって目の当たりにしてしまい、逃避したくなるものである。だが、このnoteは文章が下手なこの私が、今この瞬間苦手なものと向き合って生きている証拠として書いているものなのである。と信じている。特に社会人になって今この瞬間を思い出す道標となれば良い。

それでは、また。気が向いたら。

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