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フラワーデモ長崎2020年3月8日

私がフラワーデモ長崎2020年3月で話した内容を、ある新聞社の記録を元に私を取材した記者が書き起こしてくださいました。

昨年私がスピーチしてから、長崎ではフラワーデモが開催されていません。

以下は、私が話した内容です。
*具体的な性暴力の描写があります。フラッシュバックにご注意ください。

私が長崎に来るのは、25年ぶりです。やはり九州と言う土地に近づくのさえも怖かった。でも、25年ぶりに決断できたのは、フラワーデモがあったからです。

私は、20代の時に、就職して2年目の放送局で、警察担当の記者をしていました。
その時に警察幹部から、取材の場所で、飲み物に睡眠導入剤を入れられて、そのまま気を失ってしまい、変なところに連れ込まれてですね、性被害に遭いました。

目が覚めて、なんだこんなことになっているんですかってきいたら、飲み物にハルシオンを入れたからだと加害者は白状しました。

これは、犯罪じゃないですか、そういうふうに聞いても、その幹部は、これは事件にはできない、警察で揉み消せるからというふうに言いました。

その時の危害状況を写真にも撮られました。これを訴えでたら、どうなるか分かっているよね、言えないよね、立件できないよねというふうに言われました。

もうどうしたらいいか分からなくって、上司に相談しました。その時の報道部長の上司は、この経験を踏み台にして、警察から情報をとって、記者として成長しろと言われました。私を守ってはくれませんでした。


記者として成長しろと言われました。その時に私の上司だった報道部長も警察キャップだった今の〇〇新聞社長の◇◇さんも、私を守ってはくれませんでした。

非常に落胆しました。そういった性被害を踏み台にして記者を続けることなんてできないと思います。非常に悩んで心身共に病みました。身体状況もすごく悪くなっていろんな病気が出てきました。精神的にも診断疾患がいろいろ出てきましてもう休むことしかできなくなって、3カ月休職をしました。

私は兵庫県出身で長崎出身ではないのですね。休職をして実家に帰っているときに阪神淡路大震災に遭った時に、私はこの時死ななくてよかった、今から生まれ変わろうという風に考え直せたんです。

このまま記者を続けていても仕方がない、こんな性被害を受けながら記者を続けるなんてあり得ない、そう思って長崎の放送局を辞めることにしました。その後、海外に留学したり海外に出ることがあって、外国の放送局で仕事をしたり外国語を学んでいくうちに日本でこうやって性被害を受けて生きていくのは馬鹿らしいと思うようになりました。

しばらく海外で暮らしてから日本に戻ってきて今は東京で暮らしています。東京で教育関係の仕事をしていて不登校の子供たちの支援をしています。その不登校の子供たちの支援をしている時に、学校で被害、スクールセクハラに遭った子供たちが不登校になって逃げた先のフリースクールでも被害に遭っている状況を知り、それはいけないと思って去年の10月に東京のフラワーデモでフリースクールの性被害をやめてくださいという活動を始めました。

その時、初めてフラワーデモでスピーチする人たちに出会い、この人たち被害者なのに、顔、名前を出してスピーチしているということに初めて気づいて、その時に、あ、私も言って良いかもしれない、と気づくことができたんです。それまで、私が長崎で受けた性被害は私が悪かった、私の行いが悪かったからこんな目に遭ったんだという風に諦めてきました。

でも東京でのフラワーデモでいろんな人の話を聞く中で、私は悪くない、加害者が悪いんだということにやっと気づくことができました。そこで、被害を語っていくことで今まで声を上げずにいる人たちが声を上げられるようになるかもしれない、その思いが強くなりました。

私も実際に性被害を語れるようになったのは、被害を受けてから20年も経ってからです。正確には25年ぐらい経ってやっとしゃべれるようになり、ツイッター、FB、noteで書いたりしていたんですがやっと実名を出して、こんなことがありました、これはいけないと思いませんかという風に話をすることができるようになりました。

そして自分で語っているうちに、自分を解放することができるようになりました。そうしているうちに、長崎でもフラワーデモがあるからスピーチしませんかと、新聞労連のかたからお誘いがありました。

話を聞くと私以外にも警察幹部から被害を受けた人が2006年に、その後、市の幹部から被害に遭った女性記者がいるということに、とても驚きました。

私はまだ20代のうちに、被害に遭いました。これは犯罪です。警察が犯罪を犯してどうするんですか、というのを言ってこなかった。声をあげてこなかったばっかりに、私より10年も経ってから警察、市の幹部の被害にあう女性記者が出てきてしまった。非常に責任を感じました。

私がもっと早く声をあげていたら、彼女たちは傷つかなくても済んだのではないか、その思いがあって今回長崎に来ると決意しました。

長崎はどうして声をあげられないんでしょう、私の件で考えてみると、私が初めて被害にあったのを報告したのは、直接の上司の☆☆さんという報道部長でした。もう亡くなった方なんですけども、その方に相談した時に、「お前が悪かった。わきが甘い。そういう誘うようなことがあったんじゃないか」といった発言があったんですね。

それでやはり、私自身が悪かったんだ、私自身の行いが悪かったんだと思い込んでしまいました。

フラワーデモのスピーチでもいろんな方がおっしゃってますけど、2次加害を罰するという概念が、被害者に新しい希望を与えます。私の後に起こった県警からの被害の方も、市幹部からの被害の方も自分の被害を語るまでにものすごくつらい時間を過ごしてきたんだと思います。

東京のデモでも、みなさん自分の被害を語れるようになったのが、10年20年30年40年たってから、デモで話しますという方がたくさんいらっしゃいます。被害に遭った当時は、周りの2次被害、2次加害のせいで話すことができない、自分の被害として受け止めることができない。もうそんな社会を変えてかなければいけないと思います。

私が東京からわざわざ長崎に来て話そうと思ったのは、今声をあげられない人に自分は悪くない、悪いのは加害者だということに気づいてほしい、そして、死なないでほしい。私は東京のデモでたくさんのスピーチをする人に出会ってほんとに救われました。ずっと黙っていて自分の中でずっとよどんでいた、すごく暗い、自分の中のつらい気持ちがふっと軽くなった瞬間がありました。被害を語っていく事が今声をあげられない人を救うことになるかもしれない、自分で語ることが自分を解放することになるかもしれない、それに気づいたんです。

長崎は非常に保守的な町です。私が今回フラワーデモでお話するということで私が勤めていた会社の人に話を聞かせてほしいと連絡を取りました。そしたら、みなさん拒否されました。この事件に関わりたくない、フラワーデモに関わりたくない、長崎市幹部の性暴力事件に関わりたくないという報道関係者が非常に多いんです。

なんで関わりたくないんでしょうか。みなさん自分の仕事の場で起きている性暴力です。それをどうなくしていくかということがなぜできないんでしょう、なぜこういうことが起こって続いているのか、それは社会がそうさせているのと共に職場環境がそうさせているんです。このデモをきっかけにみなさん、この性被害に関して他人事だと思わないで、自分の地続きの問題だと思って考えてください。記者の方も記者が勤める会社の方も行政も警察も加害を生まない、被害を生まない環境を作ってください。雰囲気をつくってください。

また、長崎は平和都市です、平和に対する取り組みや活動や非常にたくさんあります。でも人権についての活動はどうでしょうか。女性蔑視、男尊女卑をどうにかするという活動はありますでしょうか。非常に少ないと思います。

性暴力は、人権を踏みにじる行為です。このことをみなさんよく分かっていただきたい、人権を踏みにじられた被害者を、どうか見捨てないで欲しい、被害を告白されたら被害者を責めないでほしい、加害をする人が一番悪いんです、被害者は悪くない。どんな服装をしてようとどんな仕事をしてようと、被害者は悪くない。そのことを知ってください。そして被害者を責めたり、お前が悪かったんだ、被害者にならないように気をつけなければならない、ということは言わないでください。

今長崎で声をあげられない人がいるかもしれません、私がこう語ることで、その人たちに私の声が届いたらいいなと思います。私がこの前、2月の東京デモでスピーチした際に、スピーチが終わったあと、そっと近づいてきた女性たちがいました。地方局のアナウンサー記者の方でまだ自分たちは声をあげられないけれども、私たちも被害にあっている、デモに来てスタンディングすることで気持ちに寄り添いたいと。みなさんまだ自分では活動できないですけど、スタンディングで花を持って寄り添う人がたくさんいます。声をかけていただいてうれしかったです。まだ声をあげられない人がたくさんいると思います。もしかしたら、今日ここにたっている誰かがそうかもしれません。世の中を変えていきましょう。取材の現場から性被害をなくしていきましょう。そして報道の現場の性被害を語ることを被害者に関わることを拒絶するのを辞めてください。まず報道の現場から性被害がでないようにみなさん周りの環境から、ご自身の気持ちから変えていってください。よろしくお願いします。

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