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IPAへの複雑な想い

以下は松浦年男さんが企画した「言語学な人々」というアドベントカレンダーの記事として書いたものです。

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私は音声学者であり、大学で音声学を教えている。私は音声学を教えるのが好きだ。

音声学の授業の中心はIPAだ。たぶんどこの大学でも言語学の授業で音声学を習うときにIPAを多かれ少なかれ習うと思うけれど、この記事の読者の中には専門的な言語学・音声学に全く触れたことのない人もいるかもしれないので説明しておくと、IPAとはInternational Phonetic Alphabet の略だ。日本語では国際音声記号とか国際音声字母とか訳される。調音音声学の原理にそって記号チャートが用意されていて、世界中の言語の音が表記できる(というふれこみである)。

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図1:"IPA"の現代アメリカ英語での発音をIPAで表記するとこうなる
Wikipediaより転載)

言語学科に入った学生たちは、言語学徒になるべく音声学を学ぶ。そこでの音声学の授業には、典型的なやり方があると思う。調音音声学の原理を学び、IPAの記号を学び、発音と聞き取りの練習をするというやり方だ。[p]とか[s]とかは練習するまでもないが、習い進めるうちにアラビア語の「無声口蓋垂破裂音」や中国語の「無声そり舌摩擦音」など、日本語母語話者にとってなじみのない音がいろいろ出てきて、それらの調音の仕組みを習い、練習をすることになる。みんなで和気あいあいと、舌を奥にひっこめたり、そらせたり、ふるわせたりする。教員は学生に発音をさせてみて、チェックする。

教員:「はい、ではあなた、無声そり舌摩擦音に a をつけて発音してみてください。」
学生:「サ・・・サ・・・」
教員:「うーん、舌のそり方が足りないですねえ。もうちょっとそらせてみて。」

こんな感じだ。頭はちょっとだけ使い、主に口と喉と耳を使う。こういうトレーニングを通じて、学生たちは徐々に言語学徒への道へと足を踏み入れていく。

子音をある程度学習したところで、非肺臓気流による音を習う。音声学の授業のクライマックスだ。放出音を初めて聞いて、「え、今の音、どこから出したの?」と驚き、吸着音の解説の中で舌打ちを言語音として用いる言語があることを知って世界の広さを実感する。

音声学の授業のあと教室を出た学生たちは、廊下を歩きながら思わずその日学習した音を口にする。吸着音自体はできるのだけど、それと母音を組み合わせるのがどうしてもうまくいかなくて、舌打ちと「ア」の発音をしきりに繰り返したりするのだ。はたから見ればどう見ても怪しい人だけれど、世間の目を気にしていてはいけない。私たちは誇り高き言語学徒なのだ。

IPAは言語学徒の合言葉だ。

「好きな音(おん)は何ですか?」
「有声側面摩擦音です。舌の脇で生じる気流を感じながら、思わずモンゴルの草原をふきぬける風を想像してしまうんです。」
「僕は歯茎吸着音ですね。吸着音の中でも、歯茎吸着音の響きは格別です。それに、記号がいいんですよね。エクスクラメーションマーク。南アフリカの言語のことを考えながら歯茎吸着音を発音していると、あのエクスクラメーションマークが、広大なサバンナにぽつんと立った一本の木のように見えてくるんです。」

言語学徒同士がお見合いをすることになったら、こんな会話をするに違いない。

音声学の授業、そしてIPAのトレーニングは、ちょっと前まで高校生だった学生を、言語学の世界へといざなう入口である。そんな音声学の授業を担当し、IPAを学生たちに教えるのが、私は好きだ。

でも実は、私はIPAが好きではない。

授業の中でIPAの発音と聞き分けの練習をさせることに、一方では楽しさを感じつつ、一方では、何かもやもやとしたものを感じる。IPAのあらゆる音を理解し、発音し、聞き分けられるようになれば、言語学者がフィールドで調査するときに間違いなく役立つだろうけど、そこには職人芸めいたところがあって、学問というものは職人芸にいつまでも頼っていてよいのだろうかと思ったりする。

「IPAが好きではない」というのは、正確ではないかもしれない。IPA自体は、よく出来た便利な記号体系だと思う。これなしには、音韻論も、フィールド言語学も、歴史言語学も、話が進まない。私が好きになりきれないのは、職人芸的なイメージを伴った音声学なのだと思う。そしてその「職人芸的音声学」の中心にIPAが居座っているように見えてならないのだ。

これには学問的な背景がある。IPAの記号は有限で離散的だけど、現実世界に存在する音のバリエーションは、物理的には無限である。そして、その物理的に無限の音のバリエーションを人間が耳と脳で捉えようとするとき、様々なバイアスを受けていることが、音声知覚の研究の中で明らかにされてきている。最も大きなバイアスは母語である。そしてこのバイアスは、人間が生まれてから母語を修得していく過程で形成していくものなのである。(ここでは知覚を中心に話をしているけれど、もちろん、母語の影響は知覚だけではなく、調音の面にも存在する。)世の中には私よりも耳がよく、音のバリエーションに敏感な人たちがいると思うけれど、どんなに耳がいい人でも、母語のバイアスから完全に逃れることはできないと思う。私は、誰しも自分の感覚がバイアスに満ちていることに対して謙虚であるべきだと思う。

私のことをよく知っている人は、ここで私が音響音声学の話をしようとしていることがわかると思う。そう、音声の研究を職人芸から客観的アプローチへと置き換える試みには既に長い歴史があり、客観的アプローチの代表として音響分析がある(なお、音響分析以外にも生理音声学的な手法など、様々なアプローチがある)。音響分析をするには、だいぶ昔は高価な装置が必要で、ほんのちょっと昔は有料のソフトが必要だったけど、今ではフリーソフトで(たいてい)事足りる。代表的なのはPraatで、無料でダウンロードできるだけでなく、ネット上に解説のサイトがたくさんある。(例えばこんなサイトとか。)

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図2:音響分析ソフトウェアPraatによる音声波形(上段)とサウンドスペクトログラム(下段)の表示

ただ、ときどき誤解されているけれど、音響分析というのは、音響分析ソフトにかければ、なんでもたちどころに明らかになるという類のものではない。例えば、日本語のアクセントを調べたければ音響分析では主として基本周波数(fo)をみるが、分節音などの種々の要因がfoにどういう影響を及ぼすかを理解していなければ、解釈を誤ることになる。気をつけなければならないのは、音響分析で捉えられるものが、しょせんは物理的な音響的特徴に過ぎないということだ。音響的な現れ方は、調音上の特徴とも、心理的な捉えられ方ともイコールではない。あるものについては調音上の特徴とほぼ一対一の対応をするが、そうではないことも多い。そして重要なことだが、サウンドスペクトログラムの中には、「これは無声硬口蓋摩擦音ですよ」とか「この言語の音素はこれですよ」と書いてはいない。それでも、ある種のリサーチクエスチョンに対して音響分析は極めて有効で、それを生かした重要な研究成果が生まれている。(例えば、高田三枝子氏による有声破裂音のバリエーションの研究とか、五十嵐陽介氏によるfoから宮古語池間方言のアクセント体系を再考する研究とか。私の専門に近いところでは、近年の韓国語の音声変化について研究が活発で、私もレビューを書いている。)

この記事のタイトルに戻ると、私はIPAが好きだが、好きではない。今風の言い方をすれば(?)アンビヴァレントな感情を抱いている。いや、好きではないのは、途中でも書いたように、「職人芸的なイメージを伴った音声学」なのだろう。IPA自体の意義はあるのだけど、IPAがそんな職人芸的音声学を象徴しているように見えてしまって、IPAに対してまでも複雑な気持ちを抱いているというのが、正直なところだ。

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・・・私のエッセイは以上です。お見合いのくだりは誇張ですが、IPAのトレーニングついては、上に書いたような感じで、実際にいくつかの大学の音声学の授業の中で行われていると思います(少なくとも、コロナ前の私の授業がそうでした)。

なお、上で書いたことは私の個人的な想いなのですが、IPAが重要ではないと言いたいわけではないので、これから音声学を学ぶ学生の皆さんには、(IPAを中心とした)調音音声学もその他の音声学の分野(音響音声学や音声知覚など)も含めて、広く学ぶことをお勧めします。

新ことばの科学入門』と川原繁人さんの『ビジュアル音声学』では、音響音声学、音声知覚のどちらも丁寧に扱われています。また、言語獲得研究上の知見については、上記の『新ことばの科学入門』第11章に加え、『言語と思考を生む脳』の第3章が参考になります。

最後に。この記事に書いたことは私が前々から思っていたことではありますが、今年(2021年)の日本音声学会大会内のワークショップで(方言音声研究の文脈で)五十嵐陽介さんがコメントをしていて、その後で五十嵐さんや松浦さんのツイートがあったりして(ついでに私もツイートした)、それに触発されて最近あらためて考えるようになったことでもあります。

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