見出し画像

OSO18の最期――ヒグマ問題とはなにか(2)/佐藤喜和

この秋、日本各地でクマによる被害が多発しています。すでに市街地へのヒグマの出没が問題化していた北海道だけでなく、東北、北陸さらには東京でもクマによる被害が問題化しています。クマ問題について『アーバン・ベア――となりのヒグマと向き合う』著者の佐藤喜和先生に「UP2023年11月号」にご寄稿いただいたコラムを二部構成で公開いたします。
第二部は近年特に問題としてクローズアップされているアーバンベア問題についてです。(第一部はこちら

市街地周辺での出没と人慣れ

アーバン・ベアという言葉が広く社会に定着しつつある。人の生活圏のなかでも人口密度が高い都市部の市街地に隣接する森林や緑地でヒグマの目撃件数が増している。OSO18の問題とは離れるようだが、この問題も人間社会の変化が意図しない新たなクマ問題をもたらしたという点では共通点があるように思う。

アーバン・ベア問題の背景には、まずクマ側の変化がある。北海道がヒグマとの共存を目指した1990年代以降、森林内でヒグマを積極的に駆除することがなくなり、ヒグマは生息数を増やし分布も拡げて市街地のすぐ裏の森にも定着し、そこで冬眠して子を産むようになった。市街地近くの森で生まれ育ったヒグマたちは、生まれたときから人の気配を身近に感じて育ち、多くの人との接近や遭遇を経験する。ヒグマはふつう人の接近を感じると、人に気づかれる前に茂みに隠れたり、そっと遠ざかったりしてやり過ごすが、ときにはばったり至近距離で遭遇してしまうこともあっただろう。しかし、そんなときでも、人は立ちすくむかゆっくり後退するばかりで、ヒグマは人を恐れるような怖い経験を積むことがなかっただろう。こうした経験を重ねるうちに、人と出会っても慌てて逃げたり隠れたりする必要がないと学習する個体が現れる。それが雌であれば、その雌の子は生まれたときから人を避けることを学ぶ機会がない。やがて市街地の近くには、人を見ても逃げも隠れもせず、かといって人を襲ったり農作物やゴミなど人由来の食べものを食べたりするわけでもない、駅前や公園で見かけるハトのように、とはいいすぎかもしれないが、人前でもふつうに行動する「人慣れ」個体が増えていく。OSO18の例と同様に、ヒグマは日々の経験をもとに学習を重ね、身のまわりの環境に柔軟に適応しながら生きているにすぎない。そしてその環境や経験に影響を与えているのは、われわれ人間の社会なのだ。

これまで北海道のヒグマ管理は、人に危害を加えたり、農作物や家畜などに被害を出したりする問題行動をとる個体を減らすことで人とクマとの軋轢を減らすという方針で進められてきた。これに加えて近年のアーバン・ベア問題は、明確な問題行動をとってはいないけれど、人口密度の高い市街地付近に人慣れしたヒグマが存在することのリスクを顕在化した。なんらかのきっかけで至近距離で人と遭遇した際、ハトではなくカラスのように、人が襲われるという突発的な事故が発生する可能性を考慮すると、ヒグマの場合、それは死亡事故にいたる可能性が高く、地域住民の安全を守るうえでのリスクが高すぎる。そのリスク管理に多大な人と経費をかけることができない以上は、人の安全な暮らしを守るために市街地周辺の森ではヒグマが安心して暮らせない環境に変えていく、ヒグマを定着させないようにする、そのためには人慣れさせないための追い払いや人慣れ個体の駆除などを積極的に進めていく必要がある。

このような市街地周辺でのヒグマの人慣れは、市街地周辺にヒグマが定着し始めた段階で、このように短期間のうちにヒグマの行動が変化することを十分予見できず、ヒグマの定着を許容したことに起因する。森のなかに暮らす野生動物に対するこの感覚は、1990年代以降とくに進んだ自然保護や野生動物保護、生物多様性保全の意識の定着と強く結びついているだろう。問題を起こしていない野生動物を積極的に追いかけたり捕獲したりすることは批判される行動であった。しかしそのような意識は、1970年代に萌芽し1990年代に定着したばかりで、そのきっかけは旺盛な人間活動による環境破壊や野生動物の減少が懸念された時代、すなわち野生動物と人との距離がもっとも離れていた時代に醸成された。それ以前は、人は生命と財産を守るため、身近な野生動物とつねに真剣に対峙してきたはずだ。野生動物は増え、人が減る時代を迎え、ふたたび私たちは潜在的に人や家畜や作物に危害を加えるヒグマをはじめとする野生動物に都市部住民であっても自分事として向き合わざるをえなくなった。人間社会が近代文明以前の暮らしに戻らない以上は、奥山の自然と人の生活圏の近くにある自然、そしてそのそれぞれに暮らす野生動物との向き合い方は違うべきだという現実を受け入れ、対処していかなければならない。

札幌市内市街地周辺の森で暮らす雌のヒグマと3頭の子グマ(2021年9月14日、筆者撮影)

ヒグマ問題とはなにか

OSO18やアーバン・ベアは、豊かなだけでなく厳しくもある北海道の自然の象徴として、人口減少時代を迎えた人間社会が、隣り合って存在する豊かなだけでなく厳しくもある自然の効率的持続的な利用を追求し、かつ豊かな暮らしを求めるなかで、自らの生命と土地や財産を守るための知を失い、またはそのような知が必要であることに目を背けて過ごしてきた数十年への警鐘を鳴らしている。ヒグマ問題とは、人の自然環境に対する働きかけへの反応の象徴ともいえるだろう。潜在的な人身被害の可能性から人に脅威を与えうるヒグマは、変化した環境に柔軟に対応し、生息数や行動を変化させているにすぎない。今起きている変化を受け入れ、私たちは眼前に現れたヒグマ問題にどのように対峙するのだろうか。かつてのように、火力や武力にものをいわせ不都合な野生動物を駆逐するのではなく、この自然のなかに生きる一つの生物種として、自然の力の強大さを謙虚に受け入れ、地域ごとに異なる人間社会とそれを取り巻く自然の将来像を見すえながら、一人ひとりが、また地域コミュニティが、自然やヒグマに対する備えと対応策を検討する必要がある。目先の問題としてだけではなく、これからの将来を見すえてヒグマ問題に強い地域づくりが求められている。もちろんそのために必要な人の配置や体制の整備を怠ってはならない。

佐藤喜和(さとう・よしかず)
1971年東京に生まれる。1996年北海道大学農学部卒業。2002年東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程修了。北海道大学低温科学研究所日本学術振興会特別研究員(PD)、日本大学生物資源科学部准教授などを経て、現在は酪農学園大学農食環境学群環境共生学類教授。博士(農学)、専門は野生動物生態学。
[主要著書]
『ヒグマ学入門』(分担執筆、2006年、北海道大学出版会)
『改訂・森林資源科学入門』(分担執筆、2007年、日本林業調査会)
『日本のクマ――ヒグマとツキノワグマの生物学』(分担執筆、2011年、東京大学出版会)
『オホーツクの生態系とその保全』(分担執筆、2013年、北海道大学出版会)
“The Wild Mammals of Japan Second Edition”(分担執筆、2015年、Shoukadoh)
『となりの野生ヒグマ――いま何が起きているのか』(分担執筆、2019年、北海道新聞社)
“Bears of the World: Ecology, Conservation and Management”(分担執筆、2020年、Cambridge University Press)
『アーバン・ベア――となりのヒグマと向き合う』(2021年、東京大学出版会)

本コラム掲載誌の書誌情報/購入ページ
佐藤先生著作の書誌情報/購入ページ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?