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ルーマンと/の社会学~「思想」から「科学」へ~【後編】

このたび、佐藤俊樹著『メディアと社会の連環――ルーマンの経験的システム論から』が刊行となりました。本書刊行を機会に、ルーマン理論の「面白さ」、さらには社会学のゆくえについて、前・後編の2回にわたるエッセイをお書きいただきました。ここでしか読めない貴重な記事です。ぜひご一読ください。【前編はこちら

5.
実は、最初はその道具としてルーマンを「流用しよう」と考えていた。でも、とりわけ抽象で難解といわれる彼の自己産出系論につきあううちに、「あれ?」と思い始めた(本書332頁)。この人、かなり似た感覚をもっていない? 同じようなこと、考えていない?

文体の癖からしてそうだ。ルーマンの文章は一見理詰めだが、しばしば具体的なものへ脱線する。一度脱線するとなかなか停まらない。私の知る範囲で、同じ癖の持ち主がもう一人いる。マックス・ウェーバーだ。この二人、具体的なものを考えたり、書いたりするのが大好きなのである。

それはそうだろう。具体に触れるために抽象する人ならば、必ずそうなる。そうならない方がおかしい。例えば社会に関して、自己産出という視点から説明できる部分はごくわずかしかない、ともルーマンは書いている(本書39頁)。あんなに分厚い著書を何冊も出しておいて、何いってんの? とつっこみたくなるが、具体のための抽象ならば、そう言うしかない。はぐらかしでも謙遜でもなく、ただたんに健全な感覚だと思う。

ならば、だ。そういう方向でルーマンのコミュニケーションシステム論を解読して解説するのも、面白いし、いろいろ役に立つのではないだろうか。「マスメディアと組織を二つの焦点にする楕円」になったのも、そんな理由による。先ほど紹介したように、この二つはルーマンが具体に触れるときの二つの極になっている。身近だから興味がある、身遠だから興味がある。その上で、そんな好対照の二つが同じく自己産出系として描ける(らしい)、というのだから、それはもうワクワクどきどきしただろう、ルーマンだって!

念のため断っておくと、コミュニケーションシステム論だけが、そういう重なりや繋がりをとらえられるとは、私は全く考えていない。「巨大理論」や「一般理論」とはちがう理論モデルは、あくまでも経験的な仮説だ。だとすれば、同等な、あるいはそれ以上の説明力をもつ別のモデルも十分ありうる。そういうものに出会えたら、それはそれでまた楽しい。

6.
個別具体の重なりや繋がりを見ていく場合、一つ一つの個別具体はいわばパズルの一片にあたる。だから、それだけ触っていても楽しいが、それらが組み合わさって全体の図柄が浮かびあがる瞬間の楽しさは、また格別で特別だ。なぜかあまり注目されてこなかったが、ルーマンの特に1990年代の研究はそんな楽しさにあふれている。

例えば『マスメディアのリアリティ』は、私たちがニュースを通じてどのように世界を知っているのかを見せてくれる。昨日のニュースを視て、今日のニュースを視る、さらに明日のニュースも視ていく……その連鎖のなかで、昨日のニュースの新たな意味に気づき、明日のニュースを予想する。私たちはニュースをただ受け取っているのではなく、自分なりに再編集しながら、知っていくのである。

実はこれと全く同型の事態が『社会の教育システム』(2002年、村上淳一訳『社会の教育システム』東京大学出版会、以下『教育システム』と略す)にも出てくる。ここでは、教育のテーマが「子ども」から「生歴(ライフコース)」に転換しつつあることが述べられる。無秩序で無知な子どもを社会化する制度から、個人個人が自らの人生をどう形成していくか、そのいわば「自己社会化」(『教育システム』61頁)のための知識を「伝える」制度へと、教育の位置づけが変わりつつある、とルーマンは考えていた。

私たちが編集するのは、ニュースだけではない。自分の経歴も編集する。昨日の履歴、今日の経験、明日出会うだろう仕事……その連鎖のなかで、自分の過去の新たな意味に気づき、未来の自分を構想する。「人生(ライフコース)」はそういうものとされ、その形成の基盤づくりに教育は関わっていく。そう考えていたわけだ。

ここに見出されているのは、編集する自己というあり方である*。コミュニケーションシステム論からみれば、現代社会の主要な制度が自己産出的であるだけではない。そこを生きる一人一人の生き方も自己産出的な、「回帰的ネットワーク」的な性格を反省的にももち始めている。そんな根底的な社会の変化が浮かびあがる。

だから『マスメディア』でも『教育システム』でも知識論が、すなわち現代における「知る」とは何なのかが展開されるが、それは『社会の科学』での科学の社会学にももちろん繋がってくる。このあたりの具体的な描き方や言い回しを、平易な日本語でどう言い換えられるかを考えただけでも、ルーマンはずっと面白く読める。

『社会の~』連作などでの機能システム論は、社会の自己産出系論のたんなる応用ではない。それぞれの分野を横断的に見ていくことで、一つ一つの領域で同時多発的に生じている事態を、つまり個別具体の間の重なりや繋がりを、具体的に見出していく作業でもあった。そんな探究の、亡くなる直前の成果も『教育システム』(それも日本語ならあの名訳で!)で読めるのだ。ワクワクするでしょ?

一つ付け加えれば、そのような共通性が描き出せるのも、一つ一つの制度に対するコミュニケーションシステム論の記述の精度が高いからである。だからこそ、意外な共通性も見えてきて、それぞれの固有性もいっそうくっきりする。そしてそれらの根底には「社会とは何か」という問いに対するルーマンの答え、すなわちコミュニケーションを要素にしたものだと考えた方が社会はより見通しやすい、という気づきがある。

だから、社会学の研究としては、ルーマンのコミュニケーションシステム論は1990年代に最も花開いたといえる。ルーマン自身も楽しかったと思う。――それこそ、予定外のマスメディアのシステム論までつい書いてしまうくらいに。

*もちろん、そう考えた場合この「自己」の深度がただちに問題になってくる。これに関しては例えば佐藤俊樹「衣装と自己と、その視線」『Fashion Talks...』9号を参照。

7. 
パズルの一片ともう一片がどう繋がるのか。その謎解きはそれ自体いつもスリリングでどきどきするが、全体の図柄にかぎらず、そこに何か「正解」らしきもの(仮説だから「らしき」としかいえないが)を見つけたときは、もう飛び切りの快楽になる。

実は本書と平行して、私はマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で残した謎(パズル)、彼のいう「プロテスタンティズムの禁欲倫理」と、彼が近代資本主義の決定的な特徴とした「自由な労働の合理的組織」との間に、本当はどんな関連性があるのか、という謎解きに取り組んでいた。

ルーマンの組織システム論を使えば、その二つがうまく繋げられる! そのことに気づいた瞬間、あやうく自転車から転げ落ちそうになった(近くの大きな公園を自転車で走っていたのだ)。詳しいことは次に刊行予定の著書に書いておいたが、もしかすると、これだけで謎解きができる人がいるかもしれない。

科学史上、有名な挿話だが、A・アインシュタインが一般相対性理論をほぼ完成させかけていたとき、数学者のD・ヒルベルトの前で、自分の考えを少し喋った。すると、ヒルベルトはそれだけで、独自に、ほとんど同じものを考えついた。

アインシュタインを気取るつもりも、ヒルベルトになぞらえるつもりも全くないが、理論モデルというのは本来そういうものだ。誰でもわかる、誰でも使える。そして考え抜けば、誰でも同じものを発見できる。

コミュニケーションシステム論には、そんな楽しさもある。それもできれば知ってほしい、そして本書がそれを知る一助になればいい。心からそう願っている。

最後に一つ、絶対に言っておきたいことがある。こういうルーマンの楽しさに気づいたのは、日本語圏でも私が初めてではない。おそらく何人もおられるだろうが、そのお一人に、私は本書を書くなかでもう一度出会うことができた。

それは『貨幣論のルーマン』(2003年、勁草書房)を書いた春日淳一さんである。私自身は一度もお会いしたことがない、全く面識のない方だが、実はほとんど同じことを書かれている。『貨幣論のルーマン』は四六判で全190頁ほど、自己産出系の理論の解説にあてられた第1章は12頁しかない。

でも、それだけで十分に説明できるのだ。コミュニケーションシステム論は、論理的に明確に構築されているから。だからこそ、具体的なものに触れる枠組みとしても、汎用性が高い。理論モデルは簡潔であるほど使いやすい。自然科学でも、社会科学でも。

8.
少し長くなったが、要するに、これはそういう本である。だから、この本のなかから考える楽しさを少しでも見つけてくれれば、一番嬉しい。

生きていくことは楽しいことばかりではない。つらいことや苦しいことの方が多い。ルーマンの人生も、少なくとも大学の教員になるまでは、決して恵まれていたわけではない。断片的な回顧からも、それはうかがい知ることができる。

それでも彼は考え始め、考え抜いた。そこには考える楽しさがあったからだ。私はそう思っている。


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