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ルーマンと/の社会学~「思想」から「科学」へ~【前編】

このたび、佐藤俊樹著『メディアと社会の連環――ルーマンの経験的システム論から』が刊行となりました。本書刊行を機会に、ルーマン理論の「面白さ」、さらには社会学のゆくえについて、前・後編の2回にわたるエッセイをお書きいただきました。ここでしか読めない貴重な記事です。ぜひご一読ください。【後編はこちら

1.
一言でいえば、マスメディアと組織を二つの焦点にした楕円の形で、ルーマンのコミュニケーションシステム論、すなわちコミュニケーションを要素とする社会の自己産出系論がどのようなものであり、どのように使えるのかを描き出した――それが本書だ。

たぶん、これだけで「!?」と思った方はおられるだろう。日本語圏ではこれまで、ルーマンのコミュニケーションシステム論は主に哲学や思想や科学論の延長線上で解説されてきたからだ。例えば「マトゥラナとヴァレラが……」「ラディカル構成主義が……」などである。それで敬遠してきた人も少なくないのではないか。

本当は、そうした予備知識なしでコミュニケーションシステム論は十分に理解できる。それこそ社会に関心のある人ならば、誰もが気づいているような経験的な事実にもとづいて、十分に解説できる。だってそうだろう、ルーマンは哲学者でも思想家でも科学論者でもなく、社会科学者だったのだから。

ルーマンは「抽象的で難解」だといわれてきた。けれども実際の彼は具体的なもの、例えばモノや人や制度のしくみにとても興味と関心があった。むしろ、そうした具体的な事実や事象をとらえる手段として、彼の理論は考案された。近年、未発表だった彼の論文や著書(の原稿)が次第に公刊されて、そのような、経験的な社会科学者としてのルーマンの姿も明確になりつつある。

例えば、「現時点で最も網羅的にルーマンの著作をまとめている資料」(梅村麦生「ルーマンの時間論」『社会学雑誌』37号、2020年)である『ルーマン便覧(ハンドブック)』では、一つの章で、教育、組織、経済、法などの社会科学の専門分野ごとに、ルーマンの研究がどんな先行研究を引き継ぎ、どのように引き継がれているかが概説されている。書き手の多くも、各分野を専門の一つとする社会学者や社会科学者たちだ。

私自身も、ルーマンはそういう人ではないかなあ、とつねづね考えていた。それで、そうした紹介と自分なりの考えを加えて解説してみた、というわけである。

2.
「マスメディアと組織を二つの焦点にした」のもそんな理由からだ。現代を生きてきて、この二つに関わりがない人はほとんどいないだろう。その意味で、誰でも何らかの経験があり、関心もある。おそろしく身近なものだ。

そして、ルーマンのコミュニケーションシステム論にとっても、この二つは重要な対象である。いやそれ以上に、彼のシステム論がどういうものなのかを如実に表わす。そんな素材というか、分野になっている。

組織の方からいえば、ルーマンの本来の専門は組織であった。大学修了後、いろいろ事情があってルフトハンザ航空の企業弁護士になる当てが外れ、法学の博士論文も断念して、生まれ故郷の行政高等裁判所に勤め始める。そこからルーマンは行政官僚の途を歩き出す。

だから、彼にとって組織は最も身近で、かつ具体的な観察対象でもあった。そうした経験と観察から、組織ってどのように動くものなのだろう?と考え始めて、それを論文として書いた。そこから彼は社会科学者になっていく。

だから、ルーマンの最初期の論文は全て組織を対象にしている。いわば彼自身が組織の参与観察をして、それをもとに考察したものだ。関心を寄せた社会学者も、P・ブラウやP・セルズニックやR・K・マートンら、コロンビア学派の社会学者たちで、組織の参与観察にもとづく組織研究をしていた人たちである。1960年代のルーマンの理論研究の8割は組織を主題にするものだった(本書13頁)。

そうした最初期の論文には、「複雑性の縮減」や「自己産出」といった、後の理論研究に繋がる着想もすでに出てくる。そういう意味で、彼のシステム論は具体的な組織の研究から生まれ、成長していったものだ。

だから、その現場に戻っていくことで、彼が何を考えようとしたのかも、より具体的に理解できる。ついでにいえば、そのとき彼は「マトゥラナとヴァレラ」も「ラディカル構成主義」も知らなかった。だから、これらを知らなくても、ルーマンは理解できるのである*。

*本書でも述べた通り、1990年代の研究では、要素の「回帰的ネットワーク」という、マトゥラナによる術語が中心的な概念になっていく。マトゥラナたちの自己産出系論を知らなくてもコミュニケーションシステム論は理解できるが、知ればより良く理解できる。その点は誤解なく。

「ラディカル構成主義」にも同じことがいいうるが、「システムの同一性の先取り」や「計算喩え」には十分に注意する必要があるだろう(本書287, 322-323頁)。

3.
マスメディアの方はさらに興味ぶかい。彼にとって組織が最も身近な対象だったとすれば、マスメディアは最も身遠な対象、少なくともその一つだった。ルーマンはビーレフェルト大学で教えていたが、1977年に妻を亡くした後、近郊のエルリングハウゼンに移り住む。その自宅には、なんとTVがなかったそうである。

研究成果も『マスメディアのリアリティ』(1996年、林香里訳『マスメディアのリアリティ』木鐸社、以下『マスメディア』と略す)以外には、短い論文を一つぐらいしか発表していない。もともとはマスメディアを特にシステムとしては考えていなかったようだ*。

にもかかわらず、『マスメディア』は彼の著作のなかで「最も有名なものの一つ」になった(本書16頁)。例えば先の『ルーマン便覧』によれば、その刊行時点(2012年)までにルーマンの著作はドイツ語以外の12の言語に翻訳されているが、うち8言語で訳書がある。ちなみに無いのはセルボ・クロアチア語、ポーランド語、ロシア語、スウェーデン語で、スウェーデン以外は旧社会主義諸国、すなわち、ルーマンの定義にもとづけば(本書27頁)マスメディアのシステムが存在しなかった社会だ。

ちなみに、ルーマンの主著とされる『社会システム』は7言語に、『社会の社会』は4言語に訳されている。『マスメディア』の方が実はグローバルなのである。

子どもたちが育ち、気軽に招待や講演の旅行に出かけられるようになったルーマンは、ホテルでTVを視ていたそうだ。ニュースだけでなく、CMやドラマも同じように流すその不思議な函を、おそらくは文化人類学者のように観察しながら、ある日、マスメディアがシステムであることに気づいたらしい。それで書いた著書が最も広く読まれるものになった。

ルーマンのシステム論がどんなものかを、これ以上によく示す事実はないかもしれない。彼にとってシステムは経験的に発見されるものだった。社会はこうなっている、システムはこうなっている、と最初から決め打ちしていたわけではない。

『マスメディア』が広く読まれている理由もそこにあるのではないか。マスメディアが自己産出系であることを、ルーマンは経験的に発見していった。その驚きと興奮、ワクワク感と知的刺激が、最も新鮮な形で、最も具体的に、この本では追体験できるのだ。

裏返せば、社会の森羅万象を、彼はシステムだと考えていたわけではない。システムといえるものをシステムだと考えていた。システム以前に、その「もの」があったわけだ。

*ルーマンには主著級の著作がもう一つあって、『社会のシステム理論』という題名で2017年に公刊されている。1970年代前半に書かれて未発表だったものだ。ここでは「マスコミュニケーション」もとりあげられているが、10個あげられた「機能システム」のなかにはマスメディアは入っていない(S.798)。

4.
だから、彼のシステム論はあくまでも、具体的なものにアプローチする手段であった。具体的なものをより良く見て、知るための道具だ。とりわけ複数のものを見て、それぞれの個性を知る上では、それらの間の共通性が重要になる。それがわかって初めて個別性もくっきり見えてくるからだ。抽象は具体に触るための途でもある。

まさにそこに、現在の社会学におけるルーマンの理論の一番大きな意義がある。私はそう考えている。

マルクス主義にせよ、構造機能主義にせよ、社会をとらえる客観的真理とされてきた「巨大理論」や「一般理論」が信憑性を失って、社会学は個別具体の研究への途を走り始めている。それ自体は良いことだと思う。「巨大理論」や「一般理論」の空中戦は、正直もうたくさんだ。私自身、経験的な研究では個人史や自己語りでリアリティをつくり、計量データで反証テストをかけるやり方をとってきたので、空中戦から得るものはほとんどない。

しかし、そうした個別具体の集まりが「=(イコール)社会学だ」といわれると、やはり「??」となる。一つ一つの個別具体がどう同じでどうちがうのか、何を共有し何を共有していないのか、さらにはそれら一つ一つはどのように関連しあっているのか。そうした個別具体の重なり方や繋がり方も、社会を探究する上では重要であり、社会学はそれも固有の研究分野にしてきたのではないだろうか(本書329頁など)。

そして、この社会を生きる一人一人の人間、つまり当事者にとってもそれは重要で、だから、どうなっているのか知りたい。そういう知的関心、というか当事者の需要にも社会学は応えてきたのではないか。

それを手放すのなら、社会学という分野も必要ない。一つ一つの個別具体ごとに「〇〇学」や「▲▲学」であればよい。おそらくそうなれば、その「〇〇学」や「▲▲学」もジャーナリズムに近づいて、最終的には同じものになるのでは、とも考えているが、そんな未来予想は、今はおいておく。

かつて「巨大理論」や「一般理論」の怪獣たちが、社会学の大地を闊歩していたとき、私はつまらなかった。退屈だった。個別具体が見失われているように感じたからだ。そして同じように、個別具体にひた走る社会学は、私にとってつまらなくて、退屈なものだろう。

何よりも、一つ一つの個別具体は相互に繋がりあって成立している。だとしたら、その繋がりや重なりもとらえられないと、個別具体にも本当は触れられないのではないか。それなしには、個別具体をとらえているとする「物語」になってしまうのではないか。

だとすれば、である。「巨大理論」や「一般理論」とはちがう理論ツールを、一つ一つの個別具体がどう重なっていて、どう繋がっていて、だからこそどのように独自なのかを考えられる知的手段を、自分で開発するか、導入するかしかない。具体的なものを見て、触って、知るための、抽象的な思考の枠組みを。

それが私にとっては、コミュニケーションシステム論だったのである。


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