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怪しい魅力満載の認知科学ワールド/横澤一彦

認知科学に触れたことのある研究者ならば、認知科学という学問には不思議な魅力があることに同意してもらえるのではないかと思う。その理由の一つは、学問分野として歴史が浅く、相対的には新しい分野だからなのかもしれないが、勃興期を経て何十年というそれなりの時間が経過しても、認知科学の様々な研究テーマが色褪せず、変わらず新鮮に映るためではないかと思う。一方で、学問として独自のディシプリンが相変わらず確立されておらず、自分の専門とするにはちょっと危ない感じがあって、踏み出すことを躊躇する研究者も少なくないのだろう。事実、自分の専門が認知科学と称する研究者はそれほど多くないかもしれない。さて、自著の紹介ならば、普通は単に認知科学の魅力満載と強調すべきだろう。それを怪しい魅力満載というのは自虐的に受け取られるかもしれないが、怪しさは前述のような不思議な魅力と裏腹な関係にあるように思う。

さらに、主に編集を担当した『心をとらえるフレームワークの展開』というタイトルの第4巻は、他の3巻のように、研究テーマを相対化するための、身体とか、脳とか、社会とかの統一的なキーワードもないし、本講座の特徴でもある哲学を背景とした明示的な章がない唯一の章立てとなっている。第4巻のキーワードは「第三世代」だけなので、いかにも雑多な寄せ集めという印象を持たれても仕方ない。ただ、雑多な寄せ集めではないことを強く主張しておくことは編者の責任でもあるだろう。編集のポイントは別にある。そのことを明らかにするために、少し自己紹介として、自分の経験してきた認知科学に関わる研究展開の歴史を書いてみることにする。

適度な怪しさ

工学博士で、文学部の教員を長年勤めてきたので、強みがあるとすれば、学問を形成しているディシプリンを乗り越えることに、大きな障壁を感じないことだと思っている。文理様々な領域を背景とする研究者との共同研究にも取り組んできた。自らのディシプリンとか研究哲学と言えるほどのものはほとんどないが、「適度に怪しいテーマにきちんと取り組む」というのが基本的な研究姿勢だと嘯いてきた。「きちんと取り組む」というのは、最終的に当該分野で国際的な評価を受けるような研究成果につなげるということだが、「適度に怪しいテーマ」というのは、あくまで主観的なものなので、わかりやすく説明をすることは難しい。ただ、長年取り組んできた、注意と共感覚という二つの研究テーマについて取り上げることで、怪しさの意味づけを具体化してみたい。

視知覚は、認知科学の研究テーマの一つであるが、神経生理学や認知心理学の中心的な研究テーマでもあり、脳科学的に裏づけられた階層的視覚情報処理と人間の行動との対応づけに、多くの研究者が取り組んできた(マー、1987、横澤、2010)。このように想定される視覚情報処理経路では、典型的な階層処理と対応づかない認知選択特性を、特別な枠で囲み、注意という機能に押し込めていた時代もあった(ルーメルハート、1979)。すなわち、注意という機能は、当時は脳科学的に裏づけられない内的過程に過ぎなかったので、特に日本国内では、40年前くらいまでは注意はうさん臭い、怪しい研究テーマと見なされていた。ところが、1980年代に注意に関する実験パラダイムが確立し、注意機能を特徴統合というキーワードで表現したことで、注意研究が分野横断的に爆発的に増加し、注意は視知覚の中心的研究テーマになってしまった。日本国内では誰よりも先駆けて自分の研究テーマとしても取り上げたことで、怪しいはずの研究テーマであった注意について、実験パラダイムが確立することで劇的に研究が進んでいく現場に加わることができたことは、得難い経験となった(河原・横澤、2015)。

意識されたある知覚が、脳内の局所的な活動としてだけ存在するのではなく、それに関わる様々な脳活動が共起することは明白だろう。このような並列的な脳活動により、一つのことを思い出すと、別のことも思い出され、そのような連想が次々につながり、的確な行動や問題解決が可能になる。このような連想は誰にでも生じることであるが、連想の仕方に個人差が存在する。ところが、視知覚は、誰もが同じように感じる過程として扱うことが多かった。このように捉えるほうが実験パラダイムを確立しやすく、実験データの解析も定型的な手法を用いればよいことになる。視知覚も個人差が大きく、そのような感じ方の違い、すなわち個人特異性を調べることも重要な研究テーマになってきたのは、比較的最近である。

この個人特異性がキーワードとなる現象が、共感覚である。たとえば、一つの文字を見たり一節の音を聞いたりした時に、実際には存在しない色を感じる現象を共感覚と呼び、一つの文字を見た時に特定の色を感じることができる色字共感覚者は70人に一人という存在確率と考えられている。共感覚そのものは主観的な現象なので、真偽を見極めるのは簡単ではない。適当な色を選んで、それを連想したと偽りの報告をすることも可能である。これが、共感覚が怪しい現象報告と批判されてきた要因である。現象の科学的根拠として用いられたのは、一定期間空けて、同じ文字や音に対して特定の色を感じるかどうかという時間的安定性を確かめる実験パラダイムである。共感覚者でなければ記憶テストを受けるようなものであるが、共感覚者は意識的な記憶によって対応関係を覚える必要がない。一定以上の安定性になった方を共感覚者と呼ぶことになる。共感覚者に、文字あるいは音と色の対応関係がある理由を聞いても、多くの場合、共感覚者自身でも説明がつかない。時間的な安定性が高い方を共感覚者と呼ぶが、共感覚者以外の安定性を調べてみると、対応関係がランダムに近い方から、安定性が高く共感覚者とあまり変わらない方まで、連続的に分布していることを確認することができる。共感覚を特殊なものと考えるよりも、一つの個性の発露としてこのような共感覚的傾向を位置づけるのが正しいだろうと思う(浅野・横澤、2020)。

今となれば、文理どっちつかずの怪しい経歴の研究者であったからこそ、一見すると怪しいと感じるような注意や共感覚という研究テーマに魅力を感じ、荒涼たる原野でも確固たる信念を持って、多くの研究者を巻き込んで研究に取り組むことができたようにも思う。このような経歴から、最近は文理融合のプロジェクトをバックアップするような様々な役割を期待されているのだが、文理融合を標榜するプロジェクトが実はなかなかうまく機能せず、形式だけ一緒に参画しているように見えても、研究成果はそれぞれ確立された分野で評価を受けることになってしまっている現実を見てきた。根本的なディシプリンが違うのだから、お互いに近づけば近づくほど価値観の衝突が起こってしまうのは明白である。お互いに遠くから相手方を見れば、小さい世界に閉じこもっているようにしか見えない。少数ながら真の意味で文理融合が成功したプロジェクトの秘訣は、結局のところ、最初の価値観の衝突を乗り越えるまで、時間をかけて研究者間のコミュニケーションを密にすることに尽きるということのようである。付け焼き刃の文理融合のプロジェクトをでっち上げても、当然ながらうまく行かず、お互いに不幸な結末を迎えることになるのである。

怪しさに寛容

認知科学に関わる学会や研究会に参加すると、当然ながら、価値観の衝突を含む、研究者間のコミュニケーションが活発であると感じる。一方で、一見すると怪しいと感じるような研究発表にも寛容で、一緒に面白がる研究文化を感じる。時々、最終的に当該分野で国際的な評価を受けるような研究成果につなげるように「きちんと取り組む」ことが必要だと、老婆心ながら苦言を呈したくなるくらいである。この認知科学講座全般についても、このような学問分野の特徴を反映しているように感じる。「適度に怪しいテーマにきちんと取り組む」ためには、集う研究者の共通認識を形成するための旗印となるキーワードが必要である。前述のように、注意研究で言えば特徴統合、共感覚研究で言えば個人特異性がキーワードであった。7章からなる第4巻のキーワードはそれぞれ、統合的認知、プロジェクション、内受容感覚、自由エネルギー、圏論、記号創発、全脳アーキテクチャである。当然ながら、これらのキーワードには、研究者の研究哲学が反映されていなければならない。結果的に、いずれも個別の現象の説明のためではなく、認知全般をカバーするような新しい人間観を提案しているものに厳選している。第4巻編集のポイントはここにある。


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第1章では、基本的に調和のとれた、つじつまの合った外的世界で構成されていると仮定する認知過程を統合的認知として取り上げ、効率的な情報処理システムが我々の日常的な行動を支えていることを、主に行動実験によって明らかにすることの重要性を主張している。第2章では、脳内表象を世界に映し出す心の働きをプロジェクションと呼び、自己と他者、情報技術、進化などとの関連を論じることで、自己の成立や、VRにおける没入感、人類進化にもプロジェクションという概念が深く関係していることを明らかにしている。第3章では、心拍や血圧などの身体内部の生理的状態が意識的に知覚された内受容感覚を、脳と身体の双方向的な相互作用ととらえ、そのメカニズムとして予測的処理を設定することによって、広範な認知科学的な現象を統合的に理解しようとする試みを紹介している。第4章では、自由エネルギーを取り上げ、人間を含む動物が推論マシーンであると考え、環境の状態を推論するために感覚世界をモデル化し、感覚の予測を行い、その予測を行動によって実現するという考え方に基づく、脳の大統一理論である自由エネルギー原理を紹介している。第5章では、関係性による対象の特徴づけや、特定の関係性を制約とした処理を記述する圏論について、認知科学研究に利用するために、基礎的な概念から説明を始め、認知科学への応用可能性について取り上げている。第6章では、人間が自らの身体を用いた環境との相互作用や、他者との言語を始めとした記号を用いた相互作用を通して、認知発達と環境適応を続けるダイナミクスのモデル化により、人間の自律的な発達を表現しようとする、記号創発ロボティクスと呼ぶアプローチが紹介されている。第7章では、高度な汎用人工知能の実現を目指す全脳アーキテクチャ・アプローチが紹介されるが、計算機能を人間の脳という物理的実体に対して寄り添った形で理解することが、認知機能を理解するためにも重要であると位置付けている。

現時点では、大言壮語と見るか、絶妙な切り口と見るかは、かなり評価が分かれるところだと思うのだが、いずれも認知科学的研究の怪しい魅力を反映しているのではないか。各章のキーワードだけでも、次世代、すなわち認知科学の第三世代につながるヒントが満載、そして怪しさも満載であることを感じ取ってもらえるはずだ。このような認知科学分野の将来への指針を示してくれる第一線の研究者が各章の分担執筆者に名前を連ねてくれていることは、とてもありがたかった。国内外での活躍が著しい彼らの研究業績には怪しさは微塵もない。したがって、認知科学研究に踏み出すことを躊躇する大学院生や研究者にとって、先に進むきっかけとしてもらうためには、旗振り役を務めてくれている分担執筆者それぞれの研究哲学も、ぜひとも併せて堪能してほしいのである。本書を手にして、怪しさと裏腹な関係にある不思議な魅力を感じた方は、自分の研究領域に持ち込んで展開するためのチャンスを掴んだことになるかもしれない。すなわち、各キーワードは研究展開の指針であり、きちんと取り組めば、近い将来国際的な評価を得られるような研究成果に発展を遂げるかもしれないと期待できる研究テーマばかりである。

怪しい魅力満載の認知科学ワールドにようこそ!

引用文献
・マー、D 乾敏郎・安藤広志(訳)(1987).ビジョン――視覚の計算理論と脳内表現 産業図書
・横澤一彦(2010).視覚科学 勁草書房
・ルーメルハート、D・E 御領謙(訳)(1979).人間の情報処理――新しい認知心理学へのいざない サイエンス社
・河原純一郎・横澤一彦(2015).シリーズ統合的認知1 注意:選択と統合 勁草書房
・浅野倫子・横澤一彦(2020).シリーズ統合的認知6 共感覚:統合の多様性 勁草書房


追記

本講座の編集委員のお一人である青山学院大学の鈴木宏昭教授が、3月8日に急逝された。今回紹介した第4巻の中でも、「プロジェクション科学」と題する章(第2章)をご寄稿いただいていた。日本の認知科学分野における真のリーダーであり続けたし、主たる編集担当だった第3巻に限らず、本講座全体の企画・構成においても貢献は絶大であった。講座全体を俯瞰的に語っていただくために、本リレーエッセイの初回(「認知科学講座(全4巻)刊行に寄せて」)をご担当いただくのは必然であった。これからの認知科学の発展のために欠くことのできない人材だったはずなので残念でならないが、鈴木先生が願っていたように、本講座が多くの方々の手元に届き、認知科学の魅力を感じていただく機会になることを願ってやまない。


文・横澤一彦(よこさわ・かずひこ/東京大学名誉教授、筑波学院大学経営情報学部教授)


「認知科学講座」(全4巻)の編者のお一人であり、『教養としての認知科学』の著者でもある鈴木宏昭先生が、本年3月8日にご逝去されました。心よりお悔み申し上げます。(東京大学出版会)


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