おむつコーナー

(願わくば恐らくであってほしい)
死の気配の折に買い物をした。

祖母は飴を舐めることも危険らしく、フリスクやラムネを口にするらしい。僕もよく食べているし、なんならそんな、食べた気にもならない食べ物たちがもっと進歩して、完全栄養食、腹もち良しになったらいいのに。赤ん坊は口を上手に使えないんだし、祖母の代の人たちも歯を失いがちだし、これきっと作ったら英雄だ。味もそっけないかもだけど。全世代のなるべく多くの人に対応した食物。ケンジさんの言ってたほんたうのたべものってきっとこれの事言ってるんですよ。

ははは。

世代で分けて、まるで違う生物みたいに必要なものを揃えている。27歳の僕と倍は離れた母さんでも、同じスマホを使っていても、アプリや利用頻度は違う。使えている範囲も違うかもしれない。使い方の機微も。

おむつコーナーには、新生児の笑顔と、老人の微笑みがあった。

笑顔は写真であった。清潔感のある色使いは、言ってしまえばその汚物処理機能を一瞬忘れさせるほど、ある種喜びに満ちた、未来を感じさせるものであった。対し微笑みはイラストであった。色使いに清潔感はもちろんあるが、どこか厳かで、慎ましく、並んでいるようだった。ほとんど同じ機能を持っているのに。ただ喜びを避けるようにしているのではなく、もう喜ぶことはできないと諭された、気がした。

大きさの違いはあると思う。
ゆる言語学ラジオで言っていたが新明海辞書には「大きい」の語釈にこうあるらしい。
なんとはなし、それを思い出した。

(目に見える形を備えていて互いに
比較することができるものについて)
問題となるものが比較される他方を
包み込んだ(とみなされる)状態になり
尚且つ余りがあると想定できる様子

祖母は痩せた。

もともと、少しふくよかだったから、本当に痩せて見えた。(詳らかに彼女の様子を書こうとすることにかなり躊躇いを覚えたので、僕は僕に安心した。)昔の話をしてくれた。知らない話ばかりであった。僕はこんなにもこんなにもこんなにも、ばぁばと喋っていなかったんだ。甘やかされるばかりで、ぼくは孫なのに、家族なのに。ハタチを越え、恐る恐るでも指針を構えて、もう7年経っていたのに。情けない。これから、僕は本来聞き飽きていてもいい話を聞きたい。祖母はきっとずっと喋りたかった。いや、どうだったこうだったではない。僕は聞きたい。頭に残したい。祖母の話を。ばぁばのことを。

細く、少し褪せた肌色の手はすべすべしていて、力もあった。

“まだまだ”なんて時間をあらわす言葉が頭をよぎってしまってすぐに掻き消し、双方向から否定する。こなた、突然、は有り得る。安堵の溜め息は吐けない。かたや、まるでいつかを待つかのようだからやめておけ。と。

不安に付随して、滲み出た感想を、わかってもらいたくて、ここに綴ったのかもしれないし、わかってもらえるはずもないと、証明したくもあるのだと思う。結局中途半端に晦渋だと、誰も触れない、理解や共感の土俵へは上がれない。ふんどしを外す。僕を晒す。
代わりにおむつを着ける。
これでもらしても安心。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?