見出し画像

非百合作品に見る百合はいいよねというはなし

文責: wisteria
本稿は2018年11月23日刊行の『Liliest vol.1』に収録された記事の再録版となります。あらかじめご承知おきください。


 本や漫画を読んでいて、全く期待していなかったのに思いがけず「百合か⁉」と思うシーンに出くわして嬉しくなってしまうようなこと、ありませんか? 前評判を確かめずに本を買うことがわりと多いからでしょうか、私は結構よくあります。
 そういったいわゆる”百合漫画”や”百合小説”以外の作品で出会う百合には、独特の魅力があると思います。それはマイノリティであるがゆえの苦悩がリアルに描かれるからであったり、女性のみの世界の甘美さが強調されるからであったり、あるいは純粋に期待していなかった百合に出会えたささやかな嬉しさであったり、一概になにが良いと言えるものではありませんが、百合を題材にした作品を読むときとはまた違った楽しみがあると思っています。
 「普段百合作品しか読まない」という方にこそ、この良さを知ってもらいたい! ということで、数冊だけではありますが、非百合作品だからこその百合表現や一風変わった百合(?)が楽しめる作品をご紹介しようと思います。

よしだもろへ『いなり、こんこん、恋いろは。』

 私が百合を知らない人に最初に読ませたい一冊であるところのよしだもろへ先生『いなり、こんこん、恋いろは。』は、主人公の女の子とクラスメイトの男子の恋模様をメインに描く作品ですが、その主人公の友達を「恋愛で」好きと自認する女子生徒が登場します。彼女は作品を通して自分の”普通”ではない恋愛感情に悩み続けることになりますが、特殊であることを自覚しているが故のこの息苦しさもまた百合の魅力のひとつではないかと思います(もちろん百合が当たり前の世界の百合も最高ですが……)。
 「今の関係を守るためには想いを打ち明けられない」「普通の恋愛ではないのだから、自分はこれ以上求めてはいけない」と思い悩む少女の美しさと言ったら! 歯痒さやもどかしさまで引っくるめて「これぞ百合!」といった感じです。そしてこれも『いなこん』があくまで”普通の”恋愛にフォーカスした作品だからこそ、それだけのリアリティをもって描かれ得たものだと思います。百合作品ではないからこそ、エッセンスを凝縮したような濃密な百合が楽しめる。これも非百合作品に見る百合の魅力のひとつです。
 ちなみに『いなこん』はアニメで観たという方も多いかと思いますが、アニメ版ではあまりこの関係にフォーカスされていませんでした。物足りなかったという各位は是非原作を読んで頂ければと思います。全十巻、完結済みです。百合もストーリーもアニメから大きく進展します。

米澤穂信『玉野五十鈴の誉れ』

 お次はアニメ『氷菓』でお馴染みの米澤穂信の作品から。短編集『儚い羊たちの祝宴』に収録の『玉野五十鈴の誉れ』は、名家の一人娘小栗純香と、彼女の15歳の誕生日に与えられた使用人玉野五十鈴の、ある種奇妙な関係を描きます。名家の跡継ぎとしての在り方を厳しく求められてきた純香は、人懐っこく忠実で教養に溢れる五十鈴に強く心惹かれるようになります。その後純香が大学進学を許され、五十鈴とふたり自由な生活を謳歌しますが……。
 お嬢様の使用人に対する愛情は本物だった。では、使用人のお嬢様に対するそれは形式だけのものだったのか? これが、二人の関係性を考える上でのテーマになります。ネタバレになってしまうのであまり詳しくは紹介できませんが、箱入りだった自分が持っていないもの、これまで与えられてこなかったものを持っているように思われる五十鈴を強く慕う気持ち、望まぬ孤高に苦しんでいた自らと仲良くしてくれてる五十鈴に、どうかそばを離れないでほしいと願う健気な心が丹念に描かれます。『儚い羊たちの祝宴』ではどの収録作でも、それぞれ複雑な感情を抱えた少女たちが描かれます。百合というファクターで見ても一読の価値がある作品です。
 ところで、文庫版の巻末の解説ではこの短編集の特徴として「読者の感情移入を阻むようにして描かれる」という点を指摘しています。外の世界と隔絶されたお屋敷の中でストーリーが進んでいく非日常感と、その中で醸成された異常な感性と動機による出来事の数々が、我々読者をどうしようもなく傍観者の立場に置きます。舞台の外から膜一枚隔てた先の少女たちの世界を覗くという体験、個人的にはまさに理想的な百合の楽しみ方でした。

米澤穂信 二作品から

 続いて同じく米澤作品から、「女の子同士の特別な関係(感情)」を”描いてはいる”ものを二つご紹介したいと思います。”描いてはいる”というのは、もしかしたらこれらの作品を百合とは呼びたくないという意見もあるかもしれないと思ったからなのですが(私は臆面もなく百合だということにしていますが)、少なくとも相手に対する好意はかけらも存在しません。
 百合だと思えばなんでも百合だからという寛大な方とネタバレが大丈夫な方は読み進めて頂ければと思います。

米澤穂信『柘榴』 <ネタバレ注意>

 ひとつ目は米澤穂信の短編集『満顔』(2014年直木賞ノミネート作品です。オススメ!)に収録の短編『柘榴』。父親を自分のものにするために、姉妹がお互いの体を傷つけあうシーンがあります。立案したのは姉。両親の離婚に際し、生活能力のない父親に親権を持たせるため母に罪を着せ、かつ自分にない魅力を持ちうる妹に一生消えない傷をつけるためでした。母親から受け継いだ美しさを自覚し、かつそれを磨くことを怠らなかった姉は、同じく母から受け継いだ美しさに加えて”か弱さ”という魅力を持つ妹を恐れ、結託するとともに陥れたのでした。
 月明りの差す放課後の空き教室で、制服を脱ぎ互いの背中に真鍮の靴べらを振り下ろす姉妹。倒錯した女同士の関係性の塊のようなシーンで、作中で読むと甘ったるいほど美しくて最高なのですが、このシーンの妖艶さは米澤先生の紡ぐ言葉をもってしか伝えられる気がしないので、ぜひ作品を読んで感じて頂きたいと思います。好意がないどころか感情は男性である父親に向いていますが、たしかに姉と妹の「特別な関係」が描かれていますし、なにより姉妹が、特に妹が姉を大切に思う気持ちはしっかりと描かれています。姉妹二人の倒錯した世界に思いがけず「百合じゃん」と思ってしまった作品でした。

不可逆的な害意――米澤穂信『儚い羊たちの晩餐』 <ネタバレ注意>

 ふたつ目は、前述の『玉野五十鈴の誉れ』と同じ短編集『儚い羊たちの祝宴』に収録の『儚い羊たちの晩餐』 。誌上で発表された「バベルの会」シリーズを短編集『~祝宴』として刊行するにあたって書き下ろされた、各作品の総括にしてクライマックスです。「バベルの会」というのは収録作に一貫して登場する名家のお嬢様の集まる大学の読書会で、収録の短編はどれもこの会の存在を通してゆるやかに繋がっています。その各作品を繋げ、一挙に伏線を回収するのがこの短編です。
 主人公は、悪い言い方をすれば成金の娘大寺鞠絵。名家の娘たちとのコネクションを目当てにバベルの会に入会しますが、父から届くはずだったお金が遅れ会費が払えなかったことを理由に除名されてしまいます。遅れた詫び分を積んだ札束を手に会長の説得を試みますが、しかし彼女がバベルの会を除名された本当の理由は別のところにありました。いわく、あなたは『幻想と現実の間に強固な壁を持っている』。精神的な脆さを抱える少女たちが集まるバベルの会にあって、ただ顔つなぎのために入ろうとしていた悩みのない彼女の存在はあまりにも強すぎました。
 しかし、大寺家の現在にまでつながる財を築いた相場師で、優しかった祖父の死の真相を悟った彼女はどうしようもなく夢想に囚われるようになります。いまの自分にはバベルの会にいる資格がある。しかし彼女には、それを伝える術はもうないように思われました。そんな彼女はある日、父が雇い入れた”一流の料理人”である夏に、宴会の食事として「アルミスタン羊」を提案します。本来入手が困難を極める「アルミスタン羊」が簡単に手に入る場所として、彼女が紹介したのはバベルの会が毎夏読書会を行う蓼沼の地でした――。

 お察しの通り、「アルミスタン羊」とはスタンリィ・エリンの短編『特別料理』に登場するタイトルそのまま「特別な料理」、つまり人のことです。たびたび海外ミステリ作品をオマージュしたりする米澤穂信らしい引用だと思います。祖父の築いた財を見栄のために食い潰す父と、バベルの会に相応しい夢想家でありながら、一員となることを許されなかった主人公。大寺家と彼女自身に相応しい食べ物として、バベルの会の会員たちが捧げられる。概ねこういったストーリーです。
 実は『儚い羊たちの晩餐』の作中にはカニバリズムを想起させる作品名がたびたび登場しています。ウィリアム・アイリッシュ『爪』、ロード・ダンセイニ『二瓶のソース』などなど。『玉野五十鈴の誉れ』に登場する『雨月物語』もそうですし、なによりも『儚い羊たちの晩餐』というタイトルそのものがカニバリズムをはっきり示唆しています。ミステリに詳しい方なら一発でわかったのではないでしょうか(私は全く知りませんでした)。このタイトルはトマス・ハリス『羊たちの沈黙』とガストン・ルー『胸像たちの晩餐』へのオマージュになっています。恥ずかしながら私はどちらも読んだことはないのですが、二作ともカニバリズムを扱った作品だそうです。

 ここで意見が分かれそうなのは、もちろんカニバリズムは百合か? という点。それが食欲(生理的な欲望としての、「お腹すいた」という食欲とはだいぶ趣向が異なりますが)であろうが、女の子の女の子に対する特別な感情であるという最低限のラインはとりあえず満たしています。もちろん愛ゆえのカニバリズムというのも考えられると思います(実際そういう事件もありましたよね)。しかしこの場合はもちろんそうではありません。動機が怨恨100%ではないにせよ、主な理由はやはり入会を許してもらえなかった恨みですし、少なくとも好意はゼロです。そしてこの場合は、マイナスの感情が曲折を経てプラスに転ずるといった可能性が全くありません。なにせ食べてしまっているのですから。これが、好意に転ずることのできない「不可逆的な害意」です。
 これはさすがに百合に含めたくないという方も、そもそもカニバリズムが無理という方もいらっしゃるでしょうが、私はこの作品を非常に美しい物語だと思っています。あくまで猟奇的な描写はなく、ただ「アルミスタン羊」を提案してあとは事の成り行き任せ、いざ宴卓に並べば美味しく頂くのがせめてもの葬い、という主人公の達観したような狂気が艶美さを感じさせます。

おわりに

 いろんなジャンルから紹介しようと思っていたはずなのに、気づいたらほとんど米澤作品になっていました(ゴリ押しついでにもうひと押ししておくと、『儚い羊たちの祝宴』は全体を通して少女と狂気の詰め合わせみたいなことになっているので推せます)。米澤作品は百合と思えば百合と言えなくもないというその絶妙な曖昧さ加減が魅力なのですが、もう少し正統派で分かりやすい百合が見たいという方には牧野修『大正二十九年の乙女たち』をオススメします。美術学校に通う四人の女学生が織りなす青春ストーリーです。

 さて、それぞれの作品であれがいいこれがいいと書いてきましたが、やはり思いがけず百合を見つけて一番嬉しいのはなんと言っても見逃していたかもしれない百合に出会えたこと。意外性の喜びも含めて百合がありそうな本だけしか買わないというのは避けたいものですが、知らない作品で良質な百合に出会えるとあらば是非お教え頂きたいと思います。百合作品ではないところで「こんな作品に百合を見つけた!」というのがありましたらぜひご連絡ください。買います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?