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百合の現在位置——『やがて君になる』に辿る百合漫画史論【再録】

文責: なの
本稿は2018年11月23日刊行の『Liliest vol.1』に収録された記事の再録版となります。あらかじめご承知おきください。

「百合か百合でないか――それが問題、だろうか?」

今年(編集注:2018年)4月、仲谷鳰氏の漫画『やがて君になる』がアニメ化されるというニュースがネット上を駆け巡りました。

百合ファンのみならず一般読者も多数いる人気作となっていた同作品のアニメ化は、非常に大きな歓喜と祝福を伴って伝わり、活気付いている 2018年の百合界隈の発展に拍車をかけることとなりました――と、それだけであれば話は簡単でした。

ご存知ない方のために簡潔に『やがて君になる』(以下『やが君』)について説明させていただくと、この作品は「人に恋愛感情を抱くことができない」と感じている主人公の小糸侑と、同じように感じていたはずが彼女を好きになってしまった先輩の七海燈子を中心に、彼女たちの揺れ動く感情と関係性を丁寧に描いた漫画作品で、現在(2018年秋クール)アニメが放送されております。そのストーリー性や人物描写の上手さもさることながら、美麗なイラストや心理の機微といった細かい部分まで非常に完成度が高く、連載開始当初から大きな話題を呼んでおりました。

こうした状況のもと、アニメ放映を間近に控え期待が高まる中、9月にネットニュースの SmartNews に掲載された記事において、『やが君』が「仲谷氏本人としても『百合漫画』を描こうとしているつもりはなく、『恋愛』を全面に押し出した作品を描いているつもりだと公言しているらしい。」と取り上げられ、当該記事が、一部の百合ファンの間で大炎上することとなりました。実際、仲谷鳰氏は件の記事と関係のないインタビューで本作を「ガールズラブのど真ん中を描こうとしている漫画」と述べているのですが、この記事はその発言に明らかに矛盾しており、デマゴギーとも取られかねない誤情報であるにとどまらず、『やが君』を百合漫画として分類することに対する一種の拒否感さえ感じられるものとなっていました。結果、「『やが君』は間違いなく百合である、これを百合として受け入れられないとは百合の何たるかを理解していない」という意見が論壇(?)を賑わせることとなりました。

このような議論は、以前から定期的に現れてきました。実際、二年前には電子書籍系のネットニュースで『やが君』について「この作品は本格的な百合漫画でありながら、その範疇に収まりきらない魅力で溢れ返っている。女の子同士の恋愛だとか、付き合うとか付き合わないとか、趣向や定義はどうでもよくなるくらい、真正面から『好き』を捉えて描ききる」と評したところ、当時もこれに近しい反応を見ることとなりました(当然、当時と現在では百合という文化の裾野の広さも界隈の規模も現在とは全く異なっており、その批判における視点や前提とされている環境が大きく変わっていることには留意する必要があります)。

この一件にかかわらず、ここ数年間、「百合とは何か」という問題に直結する話題が(主に Twitter上で)話題となる、端的に言ってしまえば炎上するケースがしばしば見受けられます。例えば、昨年は「受け」に当たる男性キャラクター同士の絡みを描いた商業アンソロジーが「百合BL」の名で発売されました。そもそもBL界隈ではそのようなカップリングのことを「ホモ百合」などと呼ぶ文化もあり(全くの余談ですが、ボーイッシュな女性同士のカップリングのことを百合界隈では「ボイボイ」や「ダナーズ」と呼ぶのが比較的一般的であるように感じます)、恐らくそれに則って作品集名を定めたのでしょうが、これが「かりそめにも商業BL作品に百合という言葉を冠するのはゾーニングの矩を超えた度し難い行為である」として(主に百合ファンから)批判が殺到することとなりました。また、2016年には、「男の娘」キャラを主人公に据え、ヒロインである女武将キャラを攻略するという内容のゲーム『もののふ~白百合戦舞姫~』を、ゲーム提供元であるDMM GAMESが大々的に「百合ゲーム」「こういう百合もある」と喧伝して売り出したため、これまた盛大に炎上することとなりました。

ところが、そもそも「百合とは何か」というのは、当然明確な定義によって答えが定まっているような類の問題ではありません。先述のような「男の娘」キャラに限らず、MtF(男性から女性へのトランスジェンダー)やGID(性同一性障害)、TSF(性転換・女体化)、ふたなり(両性具有)といった身体的・精神的特徴としての「女性性」に関わる問題はもちろんのこと、恋愛や友愛、家族愛、偏愛、依存、独占欲といった「感情」についても、何を百合とみなし、何を百合ではないと区分するのかについては、個人によって大いに意見の分かれるところです。また近年では、もはや「愛」に区分される感情に限らず、嫌悪や憎悪、嫉妬や悪意といった負の感情でさえ「百合」と捉えることもあり、特にこの半年ほど「女と女の関係性」「巨大感情」といった言葉によって包括的に百合を見つめ直していこうという考え方も顕著に見うけられるようになりました。このように、「百合」という言葉はもはや多義的であり、何を百合と感じるか、または何は百合と感じないかといった感性は、(もちろん大枠で一致することはあれど)個人によって様々に変わりうるものであり、そういった部分で不協和や不一致が生まれてしまうようになってきました。特に近年では、喜ばしいことに百合そのものが裾野の拡大に伴って「一部の愛好家の趣味」から「広く受け入れられているジャンル」へと移行していますが、受け手が「興味の似通ったコアなファン」から「一般読者」へと拡大してく中で、必然的に解釈や感性の違いからコンフリクトが起こりやすくなっている、という図式も背景となっています。

ここで、「典型的な百合」という概念について考えてみます。もちろん百合は多種多様であり、それらを一つの典型例で括ることは適切ではないのですが、それでもなお「百合」を定義するにあたって、「これこそまさしく百合である」と言えるようなものが各人の中にあるのではないかと思われます。つまり、言わば一種の「テンプレートとしての百合」というものが確かに存在し、それに沿った軸に従って「これは百合っぽい」「この作品は百合度が低い」などといった比較がなされているのではないか、と考えることができます。しかしながら、ここでもなお強調したいのは、こうした「テンプレートとしての百合」というのは、決して固定的なものでも、また多人数によって共有されるものでもなく、むしろ流動的でプライベートなものと見た方が良いでしょう。詳しくは後の述べますが、一例を挙げれば、かつて「百合」といえば「同性愛に対する葛藤」を描くことが定番であり、百合において必要欠くべからざる要素のように広く受け止められていたことがありました。もちろん現在でもそのような考え方が無くなったわけではないのですが、最近ではこうした要素は必ずしも必要ではなく、むしろ百合における描写の一つの選択肢にすぎないものとして扱われることが増えてきました。当然のことですが、ここには「百合」というものに対する視点の変化があり、先述の「百合とは何か」という議論と軌を一にしているといっても過言ではないでしょう。

そして、ここにこそ、先のように『やが君』にまつわる話題が炎上してしまった理由があるように思われます。もちろん上の二つの記事を書いたライターの方々は、百合を特別愛好しているというわけではないでしょうし、「百合とは何か」という問題について深く考えた経験もないかもしれません。しかし、だからと言って「『やが君』は百合ではない」という言説を「素人の戯言」といった態度で切り捨てていいものでしょうか。確かに誤った情報や特定のジャンルに対するディスリスペクトはあってはならないことですが、それを差し引いてもなお、そこには『やが君』に何らかの意味での「百合らしくなさ」が感じ取られた理由があるはずであり、そこには「百合とは何か」という問題が根元から深くか関わっていると言って良いと思います。

そこで本稿では、「百合漫画」を中心とした百合文化の歴史を簡単に概観しつつ、その中で「百合観」というものがどのように変容していったが、またその変容はなぜ起こっていったのか、そしてその中で『やが君』を一つの象徴的な作品として取り上げ、以って同作品がもたらした百合の脱構築と再構築、および百合の現在位置を探ってみることにしたいと思います。

『百合』の誕生

さて、そもそも「百合」という言葉はいつ誕生したのでしょう? 意外に思われる方もいるかもしれませんが、実は「百合」という言葉の発祥は、ゲイ雑誌の『薔薇族』にあります。1971年、日本の同性愛者が直面する問題に注目していた雑誌編集者の伊藤文學氏は、自信は異性愛者でありながら、日本初の同性愛雑誌『薔薇族』を刊行しました。伊藤氏はギリシャ神話における男色のエピソードを元に、男性同士の同性愛のことを「薔薇」と表現し、ゲイのことを「薔薇族」と名付けたといいます。それと同時に伊藤氏は、ナルシシズムの象徴である百合に着想を得て、レズビアンのことを「百合族」と呼称し、ここから「百合」という用語が女性間の同性愛を指す言葉として定着しました(一方で「薔薇」という言葉が現在あまり使われていないという逆転現象は、ある意味皮肉なことのようにも思えます)。ちょうど同時期に、山岸涼子氏が『りぼんコミック』で『白い部屋の二人』という漫画作品を発表し、これが日本における最初期の百合漫画と目されています。この作品については興味深いことに、作者の山岸氏自身がインタビューの中で「あれもね、実は、男同士のつもりで描いたんですよ、まだそういう世界に魅かれる自分って以上だと思ってたし、とても許されないだろうと思ってたのでつまり苦肉の策」と述べており、当時はBLがまだ理解を得られていなかったのに対し、百合に関してはすでに児童文学をはじめとしていわゆる「エス」の文化が根付いていてたことを示唆しています。

「エス」について簡潔に述べますと、元々は 1910年代を中心に、女学生の間で恋人関係に近しい友好関係を持つことが実際に流行しており、特に年長の女学生が新人の年少生に対して『百合』と呼ばれる関係を提案し、了承すればお互いにある種の特殊な関係を持つこととなりましたが、これを sister という英単語の頭文字をとって「エス」と呼ぶようになったと言われています。もちろんこれは自由恋愛が非常に厳しく制限されていた当時にあって一種の異性愛の代替的な意味合いを持ってはおり、また性的接触を伴う同性愛が病的で倒錯的なものとはみなされていたでしょうが、それでもなお、男女交際が女性の意思ではなく家の意思によって行われていたことに対し、「エス」は「精神的で清く、ロマンティックな結びつき」として認識されていました。こうした関係性が、少女小説の草分けであり、また自身も同性愛者でもある吉屋信子氏によって物語にされ、小説『花物語』として雑誌『少女画報』に掲載されるや否や、自由恋愛の一般的でない当時の状況と相まって「エス」を描いた物語が一大ブームとなったと言います。この結果、1930年代をピークに小説において「エス」の文化が一気に花開くこととなりました。戦後には女学校の解体と自由恋愛の一般化に伴って「エス」の文化は衰退することとなりましたが、低年齢層の少女向けの小説の中では(おそらく異性間での恋愛をあまり描けないことも相まって)「エス」が残り続けていたと言います。

ところで、この「エス」の文化は、小説に限らず「百合」一般に大きな影響を及ぼしていることは特筆すべきでしょう。例えば、先程も言及した「テンプレートの百合」として、女子校を舞台に取ることが多い、という特徴が挙げられます。詳細は後の節に譲りますが、特に『マリア様がみてる』シリーズのヒットに伴い、2000~2010年代前半の百合漫画には女子校を舞台としたものが非常に多くなり、「王道百合」と言えば「女子校」という風潮が確かにありました。女性同士の関係性を描くなら女子校を舞台とするのはごく自然にも思われますが、しかしながらBLにおいては必ずしもそうではなく、むしろ男子校を舞台とした作品はあまり多くないというのが実情です。そもそもBLにおいては、二次創作を除けば立場や職種は様々とは言え社会人を取り扱ったものが比較的多数であり、学生を取り扱ったものは「学生BL」という言葉で分類されているという点で、わざわざ「社会人百合」という言葉が用いられている百合とは非常に対照的と言えるでしょう。

話を百合漫画の歴史に戻しますと、1970~80年代には、『りぼん』や『週刊マーガレット』、『週刊少女フレンド』といった少女漫画雑誌を中心に、やや高めの年齢層を対象にした百合漫画が発表されていました。注目すべきは、これらの作品の多くにおいて、主人公たちが周囲からの圧力や中傷によってバッドエンドを迎えるという点です。この理由としては様々な解釈があります。先述の「エス」にその理由を求める向きでは、そもそも「エス」が女学生の(卒業とそれに引き続く結婚までの)一時的な関係であったため、必然的に半永久的な別離を迎えるか、もしくは心中するかという悲劇的な結末が約束されていたことが関係しているとされています(実際、1910年代には女学生同士の心中が頻発し、一種の社会問題として認識されるようになりました)。また別の意見によれば、これは女性の権利や社会的立場が今にくらべても非常に低く、いわんや同性愛者をや、という時代において、彼女たちの悲劇的な状況を克明かつ象徴的に描いたためと言われています。いずれにせよこの時点まで、ハッピーエンドとしての百合漫画はあまり見られないものでした。

『百合』の萌芽と発露——1990年代史

ところが、1990年代に入ると、この風向きは一変します。これが1990年代に起こったゲイ・リベレーションの大衆化と関係するかは定かではありませんが、それまでのように悲劇的・抑圧的・背徳的なものではなく、明るいムードのもとで描かれた百合漫画がよく見られるようになりました。また、1992年からはご存知『美少女戦士セーラームーン』の連載が始まり、特にその第三部で登場した天王はるか・海王みちるは作者の武内直子氏自身が「カップルとして明確に描写した」と述べられています。研究によれば、当時の『セーラームーン』関連の同人誌では、この二人を(同性愛の文脈のもとで)描いたものが非常に多数を占めていたと言い、「百合萌え」的な視点に立つファンを新たに獲得していたことが伺えます。先述の通り、それまでの百合作品は少女雑誌を中心的な媒体として女性読者に読まれることが多かったのですが、同作品がアニメも含めて大人気作となったことを一つのきっかけとして、男性の中にも百合の愛好者が増えていくこととなりました。これに引き続き、1997年には『美少女戦士セーラームーン』のアニメスタッフを制作陣に迎え、今でも百合アニメ史に燦然と輝く金字塔と目される『少女革命ウテナ』が放映され、これもまた大きな話題を集めることとなりました。そのほかにも 1990年代には種々様々のアニメが放映される中、『逮捕しちゃうぞ』や『セラフィムコール』など、「これは百合ではないか」と当時の(数少ない)百合ファンの間で密かに話題になっていた作品も少なくなく(これについては『百合姫』のコラム「それは百合だった」が詳しいです)、アニメという媒体を通した百合文化が芽吹き始めたと言えます。

また、1998年には百合文化の一つの頂点となった今野緒雪氏の小説『マリア様がみてる』が刊行されました。この作品の特徴として、先ほど述べた「エス」と実質的に全く同じ関係性を現代の女学園を舞台描いている点が挙げられます(作中ではこの関係性は「スール」と呼ばれていますが、これはフランス語で「姉妹」を意味する単語であり、先述のように「エス」が sisterの頭文字をとっていることを明らかに意識していると言って良いでしょう)。この点では『マリア様がみてる』は正しくエス小説の後継とも言うべき作品で、また本来は少女向け小説であったものの、コミカライズやアニメ化と言ったメディア展開によって非常に多くの男性ファンを獲得した点は注目に値します。実際、同作品は少女向け小説レーベルであるコバルト文庫から刊行されているにも関わらず、読者の八割は男性であるとも言われています。

この作品が「百合」にもたらした影響は多大なものであったことは想像に難くありません(もちろん、それは換言すれば「エス」文化が先述の通り百合の王道的な立場を占めるようになったということです)。一例を挙げれば、女学園・女子校を舞台に学生同士の上下関係を耽美的に描く、という一つのテンプレート的な「百合」となり、「お姉様」という言葉が一種の記号的な意味合いを持つようになりました。また同作品の冒頭に小笠原祥子が主人公の福沢祐巳に発した台詞「タイが、曲がっていてよ」は、この作品を象徴する言葉ともなり、時にはパロディの対象として、また時には「百合」そのもののメタファーとして広く人口に膾炙することとなりました。これは現在でもよく見られる描写であり、例えば未幡氏の『私の百合はお仕事です!』においてはこの流れを踏襲し、2話で主人公の白木陽芽(白鷺陽芽)がこの台詞を先輩の矢野美月(綾小路美月)に言わせることにより、二人の関係性を方向付けることとなったほか、缶乃氏の『あの娘にキスと白百合を』では乱れたリボンを直してあげる行為を象徴的に描いた上で、登場キャラクターに「憧れる」とまで言わせています。この意味では、『マリア様がみてる』は百合史上における一つのマイルストーンであり、時代を作ったとまで言って良いでしょう。

さて、百合漫画一般の話に戻りますが、それまでは少女漫画の一つの形式として描かれてきた百合漫画は、媒体の飢えでも 1990年代から大きな変化を遂げます。すなわち、百合を専門にしたアンソロジー、および雑誌が刊行され始めるようになりました。1988年には白夜書房から『秘密の花園:lesbian collection』が刊行され、これは日本における初の百合漫画アンソロジーと言って良いかと思われます。もっともこのアンソロジーは男性読者を対象にした成人向け作品集であり、言わば男性向けにレズビアンの行為を収めたアダルトビデオのようなものですが、1989年には第二集が刊行されていたことに鑑みても、売り上げは比較的芳しかったのではないかと推察されます。また 1991年にはすたんだっぷ出版部から『Girl Beans SPRING1』が刊行されました。特筆すべきことにこれは全年齢向けの作品集であり、二号以降の刊行も予定されていたと言うことで、百合漫画の萌芽の兆しが見えるように思われます(もっとも、ほぼ同時発売のされた『Boy Beans』はおよそ三倍の売り上げを見せ、廃刊後も「ボーイズラブ」という言葉の語源ともなった雑誌『イマージュ』に名前を変えて続いていたことから、当時からBLと百合の市場の規模の差を感じさせられます)。その後も 1991年に一水社が成人向け雑誌の『Love ゆり組』が刊行され(こちらは二年という短期間で三冊も刊行されました)、初めて「ゆり」という言葉を明確に冠したほか、1994年にはムービックから『EG——女の子の秘密恋愛物語の本‼︎』が、1995年には三和出版『フリーネ』が刊行されたことから、細々と百合漫画の系譜が築かれていたことが伺えます。さらに 1996年からは宙出版により『Lady’s comic 美枠(ミスト)』が刊行され、こちらは月刊誌としてなんと三年間も続いたということです。面白いことに、この雑誌には「大人の女性による格調高い恋愛」として百合を描いた作品が多く、その後の『マリア様がみてる』の影響による女学生をメインに据えた作品群とはある意味対照的とも言えるでしょう。このように、1990年代は、作風の意味でも、また媒体や規模の意味でも、様々な面で百合の文化が芽吹き始めた時代と言っても過言ではありません。

揺れ動く『百合』

さて、百合漫画も 2000年代ともなると、それまでとは様相が大きく異なってきました。一つには「百合漫画の大衆化」が上げられます。先の項では百合を専門とした雑誌や作品集について触れましたが、2003年にはついにマガジン・マガジンから、「百合」を標榜し、「業界初の百合専門誌」を謳った雑誌『百合姉妹』が刊行されました。この雑誌では紺野キタ氏や林家志弦氏、森永みるく氏、森島明子氏、藤枝雅氏など、今なお百合漫画の第一線で活躍されていらっしゃる漫画家を多く起用している点が非常に特徴的です。売り上げは堅調であったものの、会社から求められるハードルには届かなかったといい、残念ながら5号で廃刊となってしまいましたが、同年7月には編集長の中村成太郎(通称:りっちぃ)氏が引き受け手として名乗りを上げた一迅社に移籍し、執筆陣や連載作品の多くを引き継いで実質的な後継誌として『コミック百合姫』が創刊されることとなりました。この『コミック百合姫』はご存知の通り、現在でも百合漫画の代表にして王道と目される雑誌であり、多くの百合漫画がこの雑誌を通して羽ばたいていくこととなりました。

この他にも、2002年には今でも百合文化の担い手となっている『まんがタイムきらら』が創刊されると、2003年に大都社から『百合天国』が、2004年にはスタジオDNAから『es~エターナル・シスターズ~』が発刊され、まさしく「百合漫画」が一般誌として結実する形となりました。特に『百合天国』の編集後記には「後年 “百合元年” と呼ばれるのではないかと思えるくらいに、今年は “百合” がブームとなり、私どももその流れに乗り遅れないようにとちょっとがんばってみましたが」とあり、この時代を「第一次百合ブーム」と区分して良いかと思われます。すなわち、1990年代後半からの流れを汲みつつ、ファンを着々と集めていった結果、2000年代前半には需要と供給が相俟って「百合」というジャンルそのものが結実したものと考えられます。

ここで注目したいのは、この時期に発表された百合漫画にどのような特徴があるか、と言う点です。『百合姉妹』を例にとりますと、蔵王大志氏と影木栄貴氏による『春夏秋冬』や駒雄真子氏・ひびき玲音氏・東雲水生氏の三氏による『初恋姉妹』、森永みるく氏の『くちびる ためいき さくらいろ』などのように、高校生の年代の少女たちの恋愛模様を描いた作品が目につきます。それ以外にも、例えば玄鉄絢氏の『少女セクト』や林家志弦氏の『ストロベリーシェイク Sweet』のように、16~18歳の少女を描きつつも、性描写を含んだり、または芸能界を舞台としていたりと、ある意味での「少女」への拘泥のようなものが伺えます。これが先立つ「エス」の文化の影響によるものなのかどうかは定かではありませんが、いずれにせよ 1990年代の作品群とは趣を異にしているように感じられます。しかしながら、だからと言って作風が一辺倒というわけではなく、ギャグ・コメディタッチの作品やシリアスに恋愛を描いた作品、はたまたビターな結末を見せる失恋モノやいわゆる「イチャラブ系」など、バラエティに富んだ作品が見られ、この意味でも百合文化が花開いていたことが示唆されます。

2000年代の後半に入ると、百合雑誌の数はなお増してゆくことになります。2007年には『ゆるゆり』が連載された『コミック百合姫S』が創刊されたほか、アダルティックな内容に特化したアンソロジー『百合姫Wildrose』が年に一度のペースで刊行されるようになり、「百合姫」レーベルが確実に成長を遂げていく一方、2009年には『まんがタイム』系列も手がける芳文社が「あまくてやさしい百合アンソロジー」をキャッチコピーとして『つぼみ』を創刊し、その他にも『百合少女』や『comicリリィ』や『百合缶』、そして 2010年には新書館の「ピュア百合アンソロジー」こと『ひらり、』が創刊されました。このようにして、『百合姫』および多数の百合アンソロジーを擁し、ここに百合漫画業界はまさしく一つの黄金期を迎えることとなったのです。

こうした専門誌に連載された漫画は、百合漫画史においても一つの時代を形成していたことは間違いありません。これらの多くは、一話完結の読み切りを複数収録した短編集や、一~二巻完結の中編漫画として単行本に収録され、かずまこを氏の『純水アドレッセンス』や藤枝雅氏の『ことのはの巫女とことだまの魔女と』、きぎたつみ氏の『共鳴するエコー』などのように時代を超えて広く愛される名作が生み出されることとなります。

ところで、百合作品を掲載していたのは、百合専門誌に限ったことではありません。数こそ少ないものの、『月刊少年エース』に連載されアニメ共々いまだに根強い人気を誇る『神無月の巫女』や、『マンガ・エロティクス・エフ』に掲載されるや否や本格派百合の金字塔とされた『青い花』、そしてこれも青春期の同性愛に対する葛藤と苦悩を描いた『月刊コミックアライブ』掲載の『ささめきこと』など、少女漫画誌でも百合専門誌でもない一般誌に百合作品が徐々に見られるようになってきます。またこれとは別個に、いわゆる「萌え系」の人気拡大に伴い、2004年~2006年にかけて芳文社から『まんがタイムきらら』系列の萌え系雑誌『きららMAX』『きららキャラット』『きららフォワード』が相次いで創刊されました。この背景には、積極的な恋愛要素やダイナミックなストーリーラインなどのドラマツルギーを排した「日常系」が一種のブームとなったことがあげられます。『ゆるゆり』や『けいおん!』、『らき☆すた』などの作品がその代表として挙げられますが、こうした作品では自然、「キャラ萌え」の文脈の上で女性キャラクター同士の関係性に主眼が置かれることとなり、また踏み込んだ描写が少ないゆえに創造の余地が多分に残されていたこともあってか、二次創作ではもっぱらそこに同性愛的な関係を見いだすことが行われるようになりました。その結果、強い恋愛感情や性的欲求に結びついた感情に発展したものを「ガチ百合」、友愛からその延長としての比較的「ゆるい」恋愛感情として描写されるものを「ソフト百合」などと呼び、両者を区別しようという考えも見られるようになりました。

しかしながら、これは「百合とは何か」を語る上で避けては通れない厄介な問題を孕んでいます。というのも、「百合とレズとの違いは何か」という問題がしばしば議論の種となることがあるからです。一見たわいのない問題のように見えますが、実はこの問題は非常に根が深いものとなっています。というのもその背景には、そもそも「百合」と「レズ」とは全くもって別の観念でありながらも、それを同列に扱い、かつ何らかの形で線引きをなそうという意識が隠れているからです。森島明子氏はこれを「レズはひとりでいてもレズ。百合は二人いるのを外部が見て決めるもの。本人達がどう考えているかはともかく、百合は外部から見てはじめて百合になる」と表現なさっていますが、「レズ」すなわち「レズビアン」とは性的指向およびその属性を有する女性のことを指す言葉である以上、個人間の関係性を表す「百合」という言葉とは別個の概念です(このような理由の元、属性を指す言葉として「百合」を形容詞/形容動詞的に、すなわち「私は百合だ」「百合な女性」といった用法に用いることを忌避することがあります)。従って、何らかの対象を指し示す言葉として「百合」と「レズ」がコンフリクトするという状況自体が不自然なものであり、そうした意味ではこの区分はナンセンスなものと言えます(「ラブラブ」と「異性愛者」という全く別個の二つの概念を混同したり区分したりすることがないのと同じです)。

それでもなお、描写や行為の差によって「百合」と「レズ」とを区分しようという意見は多く見られます。その中でも特に「百合はキスまで、性行為からはレズ」という分類がしばしば語られていますが、こうした区分の背後には重大な差別意識が働いているように思われます。つまり、「百合」をプラトニックなもの(これは先述の「ソフト百合」と大いに重なる部分があります)として定義することによって、性的な欲求やジェンダー的な問題を伴ったものを「レズ」と分類し、それを遠ざけようとする、チェリー・ピッキング的かつ——ここが決定的に重要なのですが——ある種のホモフォビア的な発想が背景にあるのではないか、と考えられます。換言すれば、同性愛に対する差別的意識や拒否感を抱いていたとしても、「自分が愛好しているのは性的な欲求や行為を含まない以上、レズではなく百合である」ということにすれば、ジレンマに悩まされることなく、都合よく作品を鑑賞することができる、という寸法です。当然このような姿勢は誠実ではなく、また同性愛というデリケートなテーマを扱った「百合」の差異に真っ向から反するものですが、「ソフト百合」を表面的に消費するライトなファンを中心にこのような発想が少なからず存在することも事実であり、またこのような発想こそが「百合は思春期に特有の一過性のもの」「百合の間に挟まりたい」などといった(非常にホモフォビックな)殊更根深い問題の一端ともなっているように感じます。

話題を百合の歴史に戻しますが、2000年代は漫画に限らず、様々な方面で百合が人気となった時代でもあります。その一つがゲームであり、商業作品としては『アカイイト』や『ソルフェージュ』や『カタハネ』、同人では『その花びらにくちづけを』シリーズなどが人気を博しました。また 2000年代はライトノベルが隆盛を誇った時代でもあり、それに伴って「百合」を要素に持つ作品や、同性愛者/両性愛者もしくはそのように受け取られるキャラクターが登場する作品も少なくなりました。前者としては一迅社文庫アイリスから『私立カトレア学園 乙女は花に恋をする』など、後者については『バカとテストと召喚獣』の清水美春や『とある魔術の禁書目録』の白井黒子などがその代表例と言えますが、しかし当時のラノベにおいてはファンタジーや学園モノ(特にハーレム系を含むお色気モノ)が王道とされ、百合作品としてのライトノベルが苦戦したのも事実です(実際、作家の草野原々氏は業界の方から「ラノベで百合をやっても売れない」と言われたことがあると証言されています)。また、同性愛者的に描かれるキャラクターは、ともすれば通り一遍になりかねないライトノベルのキャラクターの中で、あくまで「キャラ付け」としてそのような属性が付与されているという見方もあります。その結果、しばしばそうしたキャラクターに(異性間では冗談にならないようなセクハラをはじめとした)暴走を許すことで、特に百合にあまり興味のない一般読者からは「クソレズ」や「クレイジーサイコレズ」とも呼ばれかねず、ともすればレズビアニズムそのものにヘイトがぶつけられかねない状況にもなったため、この点については功罪が分かれるところです。

とはいえ、だからと言ってこうした方面で百合そのものが忌避されていたわけではなく、むしろ一般的に百合に対する関心が高まっていたことは留意しておくべきでしょう。実際、同人誌即売会一つを例に取っても、創作ジャンルオンリーイベントである COMITIA ではサークル合同企画の『百合部』が企画され、2008年(COMITIA84)時点では2637サークル中100以上のサークルがこの企画に参加していたほか、2009年には百合専門イベントである GirlsLoveFestival の第一回が開催され、一次・二次創作に関わらず全体的な百合熱の高まりがあったことが想像されます。こうしたブームを支えたのが『東方project』や『魔法少女リリカルなのは』などの人気コンテンツであったことは言うまでもありません。またこの熱は日本国内にとどまらず、2003年にはアメリカで百合漫画を専門に取り扱う ALC Publishing が創立されると、同年にはニュージャージー州で百合作品オンリーイベント “Yuricon” が開催されただけでなく、ネット掲示板の普及や 2006年の Twitter 開設、2007年の pixiv サービス開始に伴い、洋の東西を問わずインターネットを介したいわば「百合ネットワーク」が生まれつつあったと言って良いかと思われます。

以上を総括すると、2000年代とは明確に「百合」を打ち出した専門誌・アンソロジーが数多く出版され、また一般紙においても百合漫画が掲載されるよういになるなど、「百合」の文化が花開く一方で、「日常系」を中心としていわゆる「ソフト百合」という概念が生まれるようになりました。また、その切り口こそ様々であるものの、百合作品の中心を担うのは高校生の恋愛模様を描いたものであり、こうした作品が「王道百合」と呼ばれる系譜を形作ったことになります。一方では、積極的な恋愛感情を描かない「ソフト百合」の誕生により、改めて「百合とは何か」という問題が突きつけられることとなり、これは2010年代以降の議論にも大きな影響を及ぼすことにもなります。加えて、ゲームやライトノベルといった新たな分野も獲得したものの、やはり一般消費者と百合ファンの間には如何ともしがたい温度差が存在し、高まる人気とともに危うさも孕んだ状況となっていったと言えるでしょう。

『百合』の冬

さて、多少の問題の芽は生まれつつも、百合文化はここに至るまで拡大を続けており、非常に順調に見えました。実際、2010~2012年にかけては先述の専門誌やアンソロジーが定期的に発刊されており、さらに2011年からはオークスが発行する成人向け百合アンソロジー『紅百合』『白百合』などのシリーズも加わって、「もはや百合には困らない」とまで囁かれるようになりました。そこへ 2011年の『ゆるゆり』の爆発的なヒットが重なったことにより、百合文化は一つの地位を確立したかのように思われたのです。

しかしながら、この風向きは一変します。2012年には、アニメ化企画さえ進行中であったというあらた伊里氏の『総合タワーリシチ』や、姉妹百合を描いたことで話題となっていた小川麻衣子氏の『魚の見る夢』など、多数の人気作を擁したまま『つぼみ』が休刊となり、百合界隈に大きな衝撃が走ることになりました。これに引き続き、先述した一般誌に掲載されていたような、明確に「百合」を打ち出した百合漫画も続々と連載終了を迎えていったかと思えば、2014年にはついに『加瀬さん。』シリーズを抱えたまま『ひらり、』が休刊に追い込まれ、芳文社から発刊された『SAKURA』や少年画報社の『メバエ』も続刊を予定しながらもフェードアウトしてゆくこととなり、缶乃氏の『あの娘にキスと白百合を』や西UKO氏の『となりのロボット』などのようないくつかの一般誌に掲載された百合漫画を除けば、事実上『百合姫』の他に頼る場がない状況となってしまいました。

追い討ちをかけるように、『百合姫』もそれまで長きにわたって読み切りをメインにした誌面からの転換を図り、また長らく起用していた作家の新陳代謝を目指す意図もあってか、竹宮ジン氏やちさこ氏、天野しゅにんた氏といった誌面を支えた百合作家さんの作品が姿を消すようになりました。この背景には編集長のりっちぃ氏が「私は過去に『百合姉妹』を創刊し、5号で休刊させた。会社が求めるハードルをクリアできなかったためだ。そのハードルの是非はともかく、読者からの見え方として『売れなかったのかな』『百合はビジネスにならない』と思われてしまったとてしても仕方ない。その責任は重い。二度とそのような状況は作らない」と語っている通り、百合漫画業界全体が冬を迎えつつあることに危機感を覚えていたことがあると言われています。しかしながらその結果、必然的に『百合姫』の掲載作品数は減少し、2014年9月号や 11月号は従来のおよそ半分程度の厚みになってしまい、一部から “まんがタイムきらら百合姫” とまで揶揄されるようになってしまいました。しかもこの11月号では、なんと五作品もの新人作家の短編を掲載しているのですが、これらはいずれも各作家の同人作品を再録したものであり、なおかつそれを単行本として収録するタイミングに合わせた、いわば宣伝的な意味合いを持つものであったため、ともすれば「代原」的な扱いとも取られかねない手法に批判も集まることとなりました。またこれ以降、百合姫コミックスはしばしば人気同人作家の一次創作同人誌を再録する形で単行本を発刊してゆくことになるのですが、それによって作家を本誌編集陣に加えることはむしろ稀であり、これに商業的な意味合い以上のものがあるのかどうかは度々議論の的となっています(直接関係することではありませんが、そのような商業化のお誘いをいただいた作家さんが口を揃えて「突然メールが来て詐欺かと思った」「本当だと思わなかった」とおっしゃっているあたり、いったい百合姫編集部はどのような手順を踏んでいるのか、という点もよく話題となります)。もちろんそのようにしてこれまで一部にしか知られてこなかった同人作品が世にでるのは非常に喜ばしいことなのですが、それによって本誌の内容がおろそかになってはならない、というのもまた事実です。

これに伴ってか、2014年末~2015年初頭にかけて『百合姫』は怒涛の新連載を開始し、三号続けて毎号三本程度の連載を開始するという驚くべき改革に乗り出しました。このとき、りっちぃ氏は「『百合+α』ではなく『α+百合』」という方針を打ち出していたと言います。すなわち、百合をメインに据えるのではなく、まずストーリーや設定から面白い作品を作り、そこに百合という要素を加える、ということなのですが、その結果、既存の作品にあるような設定に申し訳程度の百合を加えただけではないかという意見も目立ち、「数撃ちゃ当たる」的な発想とも捉えられかねない方針と抱き合わせで批判が生まれるようになりました。実際、片倉アコ氏の『ラストワルツ』や河合朗氏の『少女失格』、春日沙生氏の『住めど地獄のインフェルノ』のように、これまでの『百合姫』の作風からは一風変わった連載が始まることとなりましたが、これらはいずれも比較的短期で連載が終了してしまい、むしろ人気を集めたのはむしろサブロウタ氏の『citrus』や大沢やよい氏の『2DK、Gペン、目覚まし時計。』のような、女性同士の恋愛を丁寧に描いた所謂「王道」に近い作品群ではないか、とも言われるようになりました。その功罪はともかく、この時期をきっかけに『百合姫』が昔からの読者層を一定程度失ったことは疑いなく、図らずも編集部が打ち出した「新規層へのアプローチ」が逆説的に成立するような状況さえ生まれることとなりました。

ところで、漫画以外の媒体における百合はどうであったかと言いますと、こちらは意外なことに非常に活況を見せていました。アニメに関していえば、『ゆるゆり』二期が比較的早い段階で放映されたほか、2014年にはこちらも百合姫の作品であるくずしろ氏の『犬神さんと猫山さん』がアニメ化されただけでなく、『ハナヤマタ』や『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』、『天体のメソッド』に『桜Trick』、そして何と言っても『ラブライブ!』など、(個別の作品が百合に分類されるかどうかはさておき)枚挙に遑がないくらいであり、この点については百合アニメファンからすれば文句なしの状況ともいえるでしょう。また、百合ゲームに関しては『屋上の百合霊さん』や『よるのないくに』、『白衣性恋愛症候群』や『FLOWERS』とこちらも人気作が非常に多く発売されました。さらに、ドラマCDという新たな分野を開拓した『りりくる』に、二次創作としては空前の『艦これ』ブームや、『アイドルマスター シンデレラガールズ』や『アイカツ!』に代表される2次元アイドルブームがあり、『ノートより安い恋』をはじめとする百合姫ノベルスの創刊や『安達としまむら』『四人制姉妹百合物帳』などの百合小説・ライトノベルと、あらゆる方面で百合文化が一気に花開いたと言えます。これを百合漫画業界の苦境に伴ってファン層が移動した為に起こった現象と見ることもできるでしょうが、それにしてもこのように百合そのものが非常に人気のあるジャンルへと変遷していったことは特筆すべきであると思います。

ところで、このような状況のもと、「百合とは何か」という議論に先とは逆の方向から大きな問題が生まれることとなりました。先述の議論では「ガチ百合」を「レズ」と乱暴に括ることによる問題点を考察しましたが、この時期に盛んに語られるようになったのは、「ソフト百合」に当たる作品を「百合」に分類して良いのか、という問題です。先に述べたとおり、「日常系」を中心として女性同士の友愛から恋愛の手前までを描いた作品が人気になっていく中、「女性が二人いれば何でもかんでも百合とみなす立場は如何なものか」という意見が界隈の内外から寄せられるようになります。『きらら』系列はまさしくその代表例ともいうべき存在で、こうした作品の中では、非常に親密な関係や嫉妬を描くことこそあるものの、それを恋愛感情として明確に描写することは少なく、端的に言えば「ただの仲良し」と片付けられてしまうような関係性がよく見られることから、「そのような関係性を無理やり百合に区分して欲しくない」という考え方が現れるようになってきます。この背景には男女間の結びつきを極度に否定したり女性キャラクターを片端から「百合認定」したりといった、過激なファンの行動に双方が頭を痛めているという状況があったことは否定できません(このようなファンはしばしば「百合厨」や「百合豚」と呼ばれます)。とは言え、どのような関係性を「百合」として認識するかはあくまで個人の感性に基づくものであり、ある作品に対して「百合かどうか」という議論で対立すること自体がナンセンスであると言えます。また、作品が公式に「百合」として売り出されているか、または作者がその作品を「百合」と明言しているかによってその区分を図ろうという考え方もありますが、これも非常に短絡的な考え方であると言えましょう。もし仮にそのような発想のもとで百合を定義するのであれば、もはや「百合」という概念はその作品の中身に関わりなしに、レッテルのみによって定まってしまうことになるからです。畢竟、作り手側によるアナウンスはあくまで一つの手がかりにすぎず、どのような関係性に百合を見出すかは主観的なものとなります。ここへ来て、「百合」という概念は元々の「同性愛」といった観念から離れ、個人によって「同性愛」に導入される位相へと変わっていくことになったと言うべきではないでしょうか。そうである以上、何を百合とみなすか/みなさないかにおいてコンフリクトが発生した場合、それが他者に対して暴力的な形で働きかけることのない限り、「感性の違い」として受け止め、積極的な一致を求めるべきではない、というのがわたしの個人的な結論です(しかしながら、先述の『百合BL』については市場の大きなBL界隈が「百合」という言葉を暴力的かつ一方的に奪い取ろうとしている以上、それに対する反発は妥当なものである、という意見もあり、ゾーニングにも関わるより根深い問題でもあると言えます)。

それはそれとして、この時期に百合漫画として発表された作品を概観すると、やはり学生をテーマに据えた作品が非常に目立ちます。具体的な統計があるわけではないのですが、百合姫コミックスやまんがタイムKRコミックスつぼみシリーズなどから刊行された作品のうち、およそ七割程度が学生(特に女子校)を中心とした恋愛模様を描いたものであり、特に高上優里子の『月と世界とエトワール』は、女子校である音楽学校を舞台に二人一組のペアとして頂点を目指すというストーリーであることから、まさしく「エス」の系譜であるといってよいかと思われます。またこの時期の作品においては、恋愛感情を明確に描写する際、同性愛そのものに対する葛藤や苦悩を描写するという図式がなお強く残っていることが認められます(コダマナオコ氏の『不自由セカイ』や河合朗氏の『センチメンタルダスト』など、例を挙げればきりがありません)。とは言え、2000年代に比べればこのような傾向は比較的薄まっており、源久也氏の『ふ~ふ』やコダマナオコ氏の『レンアイマンガ』のような「社会人百合」もしばしば見られるようになり、また葛藤や苦悩を恋愛そのものに向けることによって既存の図式から脱却しようという試みがなされていたことは確実と言ってよいかと思われます。

『百合』の現在位置

このような流れを経たのち、意外なことに 2010年代後半に入るや否や、百合漫画業界の苦境はどこへやら、空前の百合ブームが押し寄せることとなります。そのきっかけを作ったのは百合専門誌ではなく、むしろ一般誌だったということは注目に値します。というのも、インターネットを介して、実力のある百合作品がいち早く拡散され、人気の作家が可視化されるようになったため、そうした人材をいち早くキャッチし公式作品として売り出すことがなされるようになったためです。先述した缶乃氏の『あの娘にキスと白百合を』もその一例ですが、その他にも『月刊コミックバーズ』で連載が開始され、現在は『デンシバーズ』で連載中の雪子氏の『ふたりべや』や、その美麗な絵柄とは裏腹に続出するパワーワードにより一躍話題をかっさらった伊藤ハチ氏の『小百合さんの妹は天使』など、上質な百合を描いた作品が続々と発表される中、ついに 2016年に満を持して『電撃大王』で『やがて君になる』が連載を開始しました。担当編集の楠達矢氏は当時についてインタビューの中で「『やがて君になる』を始めた頃は、『一般雑誌で百合が始まった』っていう事自体が珍しく、百合ファンの中で話題にしていただきました」と語っておられますが、このような意味でも『やが君』が革命的であったことが伺えます。この作品のヒットをきっかけに、様々な一般誌や Webコミック誌が相次いで百合漫画を掲載するようになり、ついにここに一大百合ブームが到来することとなりました。またこれに続く形で、『電撃大王』では成人向け百合漫画で人気を博した同人作家の柊ゆたか氏を起用し、『新米姉妹のふたりごはん』を連載したかと思えば、全寮制の女子校を舞台に重く複雑な百合模様を描いた川浪いずみ氏の『籠の少女は恋をする』など、数々の人気作を抱えるようになり、ついに目の肥えたファンをして「電撃の百合は強い」と言われるほどになりました。さらには『コミックキューン』が創刊されたり、一般成人向け漫画雑誌である『COMIC EXE』からまさかの百合漫画作品専門レーベル『girls×garden』が誕生したり、はたまた『マンガワン』や『サンデーうぇぶり』といった大手出版社によるアプリ型コミック誌にも百合作品が少なからず掲載されるようになったりと、現在発表されている百合漫画は枚挙に遑がなく、月刊化を経て人気作品を確立した『百合姫』の復調も相まって、もはや数年前からは想像もつかないほどの変革が起こったと言って良い状況になっています。

そうした中でも特筆すべきは百合アンソロジーの再興です。2016年には成人向けアンソロジー『百合妊娠』が4巻まで発行されていましたが、年末には楠達矢氏が編集者を務め、人気作家を多数起用した『エクレア あなたに響く百合アンソロジー』が刊行されると、瞬く間に大きな話題を呼び、同シリーズは現在4巻が発行される人気アンソロジーとなりました。この直後には自主制作百合コミック誌の『ガレット』が創刊され、旬刊という早い刊行ペースにあってクラウドファンディングの形で支持を集めたかと思えば、2017年には「おねロリ」ジャンルに特化したアンソロジー『パルフェ おねロリ百合アンソロジー』が百合姫コミックスから、また一人称的な視点で綴られるアンソロジー『百合+カノジョ』が Beコミックスから刊行されました。2018年になるとこの勢いはいや増してゆき、KADOKAWA から社会人百合をテーマにしたアンソロジー『あの娘と目が合うたび私は 社会人百合アンソロジー』が刊行されれば、百合姫コミックスからも『ショコラ 社会人百合アンソロジー』が刊行され、さらに先述の『girls×garden』編集部による『Avalon』『Avalon ~bitter~』の二誌が同時に発売されたり、様々な読み切りの百合作品を掲載していたウルトラジャンプからそれらをまとめたアンソロジー『ユリトラジャンプ』が電子書籍で発刊されたりと、その人気上昇の急激さには実に目を見張るものがあります。

一方、漫画以外の分野では、こちらも 2010年代前半の勢いそのままに活気付いており、特にゲーム『ことのはアムリラート』の予想をはるかに上回るヒットや、2018年に入ってから誕生し、リアルとバーチャルの境界をなぞるような質感によって急速に勢力を拡大する「バーチャル YouTuber(VTuber)」同士の関係性、そして舞台とアニメの二層構造によって展開し、ソーシャルゲームもサービスが開始して盛り上がりを見せる『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』など、従来の分野に加えて新たに展開されていく百合文化は、もはや例をあげるまでもなく、とどまるところを知らず広がり続けています。

さて、ついに『やが君』の百合としての異質さ、およびそれが意味することについて考察することができるようになりました。これまでに述べたとおり、百合の歴史をたどってゆくと、悲劇的で陰鬱な作品を中心とする黎明期から、1990年代にかけて明るいタッチの作品が現れ始め、『マリみて』を一つの頂点とした「王道百合」が生まれる一方で、2000年代には多彩なアプローチで女性同士の恋愛模様に迫る作品が誕生し、一方で「萌え系」や「日常系」の拡大に伴っていわゆる「ソフト百合」が人気を集めることで百合ブームが一旦のピークを迎えたことになります。しかしながらそれ以降、相次ぐ百合専門誌の休刊や百合漫画の完結に伴って、百合漫画業界全体がピンチに立たされたものの、2010年代後半に入ると一般誌に牽引される形で百合漫画が再度ブームとなり、その内容やタッチも多種多様な百合漫画があちこちで発表される、いわば「百合の春」を迎えたと言って良い状況になりました。このような流れを念頭におくと、『やが君』が百合漫画として異質な点は大きく二つに集約できます。

一点目としては、『やが君』が恋愛をテーマにしているにも関わらず、そもそもその登場人物たちが「恋愛感情」自体に疑問を持つという構図になっている点です。先述の通り、女性同士の恋愛感情を積極的に描いた百合漫画に対し、そうした恋愛要素を排してただキャラクター同士のやりとりやふれあいを主眼とした「ソフト百合」が誕生したわけですが、『やが君』はそのどちらにも当てはまらず、むしろ「恋愛感情」というものを再度見つめ直し、その中で個人間の関係性をどのように描いていくか、という点が主眼となっています。実際、物語の主軸となる二人は(少なくとも冒頭および大部分にわたって)アセクシャル的に描かれています。作品中では女性同士の恋愛感情に対する葛藤のようなものが明確に描かれている箇所は少ないのですが、これもまず既存の「恋愛」の枠組みを一旦捉え直していく過程で、そのような描写がもはや必要とされていない点を考慮すれば納得できるでしょう。これは大げさに言えば恋愛漫画という一つのテンプレートに対する挑戦であり、「百合」という言葉によって制限されてきた可能性を脱構築・再構築してゆく営みであるとも考えられます。近年では時代の流れもあってか女性同士の恋愛が当たり前に描かれる作品も多く、葛藤は描写の上で必須のものではなくなってきました(もちろん、それを描くことによって真に迫った心理を鮮やかに描いた作品も多く、どちらがいいという問題ではなく単に様々な選択肢が生まれたというだけのことです)。楠達矢氏は「過去の百合マンガは『女同士(同性)であること』自体が二人の間の壁になってましたが、現代では乗り越える壁としては弱い」と分析されていますが、恋愛を描くにあたってどうしても必要とされがちな障壁を、かつては同性愛の文脈の元に描き出そうとしたのに対し、近年ではもはやそれだけでは成立しなくなっているという議論は、百合漫画の歴史や社会の変容を見ても至極自然であり、頷けると言って良いかと思われます。

これは、逆説的に言えば、そもそも『やが君』という作品はプロットの上では「百合でなくても成立する」ということにも繋がります。同様のストーリーはおそらく男女間の恋愛を題材にとっても成立するはずであり、そういった意味では「『やが君』は百合を超えた何か」といっても過言ではありません。皮肉な見方をすれば、『やが君』がここまで人気を集める作品となった原因は、むしろこの作品がそのような意味で「百合らしくない」ゆえに一般受けしたという点にあったのではないか、という考察すらあり得るでしょう。もちろんこれは『やが君』が百合漫画であることを否定するものではありませんが、それと同じくらい強烈に、『やが君』が百合漫画ではないと主張することさえできる構図になってしまっているとも言えます。しかるに、『やが君』が百合である、と読者が感じるという事実(もちろん、これを事実と思わないという感性の方もいらっしゃるかもしれません)は、むしろ逆にわたしたちにとって「百合とは何であるのか」という問題を提起していると言えるのではないでしょうか。

二点目として――これは一点目と大いに重なる部分もあるのですが――『やが君』がテンプレート的な「百合」の記号から脱却しているという点が挙げられます。登場人物こそ高校生をメインに据えてはいまえすが、舞台となるのは共学校であり、教師の箱崎理子と喫茶店店長の児玉都を通して社会人同士の同性愛の文脈も描いています。また、同性愛に葛藤する役割はあくまで七海燈子に片想いする佐伯沙弥香の視点で描かれ、友人の日向朱里は男子生徒に好意を抱くものの失恋し、生徒会メンバーの槙聖司はただメインヒロインたちの関係性を傍観するにとどまり、なおかつ小糸侑と七海燈子の関係性は上下関係に基づくものではなくとてもフラットなものとして描かれています。従来のテンプレート的な「百合」の記号であれば、物語の本筋に必要のない男性キャラクターは極力排し、そうでなければ女性キャラクターの恋路に対する一種の障壁として機能していたでしょうし、主人公たちは恋愛の文脈の元でお互いの「許されざる(と描写されがちな)」思いに悩み尽くすこととなっていたでしょう。しかしながら、『やが君』はそうした記号的な「百合」のメタファーから脱却し、あくまでも間で揺れ動くお互いの心理や関係性を丁寧に描いています。仲谷鳰氏はこれについてインタビューの中で「同性であることとは別の理由から、恋愛関係になることの困難さが用意されています」「恋愛の相手として男性を選ぶこともできる中で、それでも女性を選ぶという物語を描きたい」「私にとってのGLのど真ん中というのは、前提が恋愛ではなくて、『登場人物が恋愛を選び取るかどうかの選択をする』こと、そしてその葛藤なんです」と語っていますが、まさしくここに表れている通り、登場人物が様々なバックグラウンドや他者との複雑な関係性の中において、徹底的に個人的な視点のもとでどのように行動していくかという点こそがこの作品の主題に据えられています。そうした理由から、もはやテンプレート的な「百合」のシナリオは必要とされず、「全く新たな形」と読者が受け取るような姿で、ある意味でごく私的な百合が綴られている、と考えるのは非常に腑に落ちる解釈ではないでしょうか。この観点からすれば、記号的な「百合」を脱却し、新たな「百合」を構築しているという意味で、『やが君』はまさしく「百合を超えた何か」、と表現できるでしょう(当然ながら、百合を超えたからといって、それがもはや百合ではないということを含意しません)。

以上の二点を勘案すると、『やが君』は確かに百合漫画であり(これはあくまでわたしの感性に基づく区分です)、女性同士の恋愛模様を描きつつも、既存の「百合」の枠組みやプロットを拒否することで脱却し、個人の内面的な心情と個人間の関係性、そしてそれに伴う行動という、もっとも原初的な描像に立ち返っているという点に「百合らしくなさ」が生まれているように感じます。そのような仮定のもとに立つと、「百合」という文化がどのような歴史を持ち、その中で「百合」というものに対する観念がどのように変化してきたのか、という観点を持たなければ、ただその「百合らしくなさ」を根拠に「百合ではない」または「百合を超えた何か」という言説が生まれてくるのはある意味当然ともいえるでしょう。蓋し、そのような意見が発生するということは、逆説的に仲谷鳰氏が挑戦した取り組みが最大限成功していることの証左とさえ言えるのではないでしょうか。特筆すべきは、そのような『やが君』の特性は、決して同作品のみに付随するものではありません。先述した通り、「同性愛に対する葛藤」や「学生を主体とした物語」、あるいは「女子校」などといった象徴的な「百合」の記号からの脱却は現在至るところで見られる現象であり、一口に「百合の多様化」と呼ぶんとどまらない変化が生まれています。そのような意味では、『やが君』は百合漫画という文化全体に起こっている変革のまさしく象徴的な作品であり、その根底にある思想は、あえて広い言い方をすれば、古典からの解放を目指したロマン主義とも呼ぶべきものになっています。

『やが君』は百合の新たな可能性を提示し、またこれまでとは全く違った形で「百合とは何か」という問題をわたしたちに非常に強く提起しています。換言すれば、百合漫画としての『やが君』は、それが百合漫画であるからこそ、わたしたちに「百合」の現在位置を問うているのです。その問いの答えこそが——あるいはその答えを探そうとする営みこそが、わたしたちの百合に対する理解をより一層発展させ、百合の未来を指し示すものになるかもしれません。末筆ながら、本稿が皆様の百合に対する考察を深め、百合を愛好する一助となることを願って、ここで筆を置かせていただきます。

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